4-5「ロックンロールアスリーツ・海老原颯人」


 長野県での夏季合衆合宿。日本中のトップトライアスリート達が集ったこの合宿も、残すところ後5日となった。

 海老原颯人は、朝のジョギングを終えて宿舎前のスペースで体を解していた。本日の練習は、プールでの水泳練習と、バイク練習は峠を2つ越える周回練習、ランは陸上競技場でのトレーニングとなっている。

 合宿も後半に差し掛かるにつれ、疲労感も高くなって来た。そのため本日は、それぞれの種目を短時間で済ませ、昼過ぎには練習が終わる。そして休息日を挟み、最終クールに入る流れとなっていた。

特に今日に関しては、短く練習が終わる事にもう一つ理由がある。村井勇利が、世界シリーズ最終戦出場のために明日、この合宿を去る。彼のレースへ向けての最終調整も兼ねた練習メニューとなっていた。そのため、海老原立案のラン練習も、試合に向けた刺激入れができるような内容に、村井と相談して調整していた。


シャワーを浴びて朝食会場に行くと、他の合宿参加メンバーが既に出揃っていた。程度に差はあるが、皆一様にその表情に隠し切れない疲労の色を浮かべていた。しかしそれでも、朝から楽しげに疲労の色など微塵も感じさせない風に盛り上がる彼らの輪の中へ、海老原も朝食を選び取って入っていく。

どんなに辛かろうと苦しかろうと決してそれを表には出さない。この場にいる全員がプロフェッショナルとしての矜持を持ち合わせている。正真正銘、日本トップクラスの合宿だった。




それにしても、この人たちはおかしい。

プールの水に浸かりながら、海老原はそんなことを考えていた。皆が朝食のタイミングで表情に隠し切れていなかった疲労の色は、入水前になってもそれぞれの表情から除かれることはなかった。どこか重そうな動きでウォーミングアップを始める選手が多かったのを記憶している。

しかし、どう言う事だろうか。本日の水泳練習のメインメニューが始まるや否や、それまでナマコが這うように鈍調な泳ぎをしていた者達が、まるで人が変わったのかのように鋭い泳ぎをするようになった。皆が皆、今合宿中の最高パフォーマンスと相違無いタイムで泳いで来る。


これがトライアスリートと言うものなのだろうか。

海老原は最初、陸上競技と違いトライアスロンは種目毎に使う筋肉が微妙に異なってくることから、ただ走るだけと違い体の色々な部分に疲労が散る分、体感的な疲労度は低くなると思っていた。

しかし、その考えはこの合宿に来て根底から覆される。ここにいる選手達は、疲労感が低くなる分、1種目だけの選手達と同じような疲労感を感じるまで余計に追い込み続ける。実際には不可能なのだが、要するに3種目ある分、通常の3倍練習しようとしているのだ。

ここまでくると、海老原にしてみれば最早、試合のための練習なのか、練習のための練習なのかが分からなくなってくる。ただただその日の最後に疲労感を感じるためだけに練習をしているような、そんな疑惑さえ湧いてくる。

しかし、こうして一緒に練習に入っているとわかる。そんな事は決して無いと。それぞれの種目、それぞれの練習で実際のレースを想定して強弱をつけているのがわかる。詰まりは、そういう極限の状態、すり切りいっぱいの練習をしている状態でも、そう言ってレースのための練習という思考が出来るものだけがこの場に来ている。そういう意味では、海老原はまだ彼らに追いつけていないかも知れない。





(それにしても異常だった。)


 練習を全て終えた海老原は、宿舎のロビーで戦闘不能と言わんばかりに動けなくなりながら、今日1日の練習を振り返った。


 水泳練習では、最後のメニューで村井・大室・八木・蜂須賀がとんでもないタイムで競い合い出した。スイムを得手とする選手達だったが、最後のダッシュなんかは鬼気迫る様相で泳いでいた。

 バイク練習は青木の独壇場だった。峠に差し掛かるや否や、じわじわと集団のペースを上げていった。急激に上げるのではなく、ジワリジワリと後に続く選手達がギリギリついていけるラインを推し量りながら、イヤらしく周囲を苦しめるようにして先頭を漕ぎ続けた。一人また一人と脱落していく中で、しかしそれでも青木による統制を切り崩そうと、石上・新谷が果敢に仕掛けて行っていたが、両名とも青木に敵わず撃沈。最終的には2つの峠とも青木が先頭をとった。

 ラン練習に関しては、海老原は他に引けを取る訳にはいかなかった。しかし極限の疲労下での走り出しは、まるで掛かる重力が倍になったのかと錯覚する程苦しいものだった。それでも先頭は譲れまいと、果敢に走る海老原に対し、馬場が猛然と迫ってくる。

 安藤・朝川・木原に関しても、目立つ事はなくとも、3種目を通して安定して上位の実力を見せつけていた。


正に異常だった。皆それぞれこの合宿期間で疲労は溜め込んできているはずである。それなのに、あれだけのパフォーマンスを発揮出来る。

海老原は、己の考えの甘さを呪った。最高の状態でランをスタートするには、これだけの練習を顔色一つ変えずにこなし切るだけの力が必要そうであった。つまり、まだ満足にこの練習を消化仕切れていない海老原は、横浜のあの舞台で走っていた選手達と比べて、まだまだ力不足という事だった。

しかし、全く無理ということでも無さそうだ。今すぐにというのは無理かもしれないが、このような練習をしっかりと積んでいけば、必ずや自分のラン能力を活かすレースパターンを体現できるようになる。海老原は、自分の部屋に戻るのさえも億劫になるほどの疲労を覚えながらも、確かな手応えを感じていた。



海老原が、ロビーにて動き出そうにも勢いがつかずうだうだと無為な時間を過ごしていると、新谷が目の前を通りかかった。手に何か袋を下げている。


「おぉーぅい。新谷くぅーん。おつかれぇー。」


 海老原が、椅子の背にもたれ掛かり、だらっとした感じを隠しもせず声を掛けると、何事かと言った感じで新谷がこちらに気づいた。


「うわ…。海老原さん。何してるんですか。」


 若干引き気味の視線を向けながらも、新谷は海老原の居るテーブルまで寄って来た。そうして袋を床に置くと、海老原の向かいに腰を下ろした。


「いやぁ。部屋に帰る気力が無くってさぁ。新谷くん何してたの。」


 海老原は、新谷が手に下げた袋を床に置いたことを不思議に思いながら、そう尋ねた。新谷は海老原の不思議そうな視線の意味を知り「あぁ。」と袋の口を開けて、中身を見せてみた。


「さっきまで、バイクの整備をしてたんですよ。パーツ拭いたり、オイル差し替えたり。この袋にはオイルとか雑巾とか、汚れたもん入ってるんで、机にはちょっと置けなくって。」


 ほら。と言って中身を見せてくる新谷に海老原は感心したように相槌を打つ。商売道具である以上、海老原も自分で整備はするが、掃除とオイルの差し替え程度である。新谷の持つ袋の中には、海老原には使用との分からないような特異な形状をした工具の数々が収められていた。


「まめだねぇ。」


と海老原が感心すると、新谷は少し気恥ずかしそうにした。


「まあ、個人で活動してる分、メカニックしてくれる人なんてそばにいませんし。ショップに持っていくのも時間かかるんで、簡単な事ならできるようにしたんです。まっ、素人技術ですけどね。」


 そう言って謙遜する新谷だが、確かにそれは重要な事だった。

 この合宿で唯一、海老原と新谷だけがどこのチームにも属さず、スタッフも連れて来ない状況で参加していた。つまりは互いに境遇が似たもの同士である。海老原は、拠点にいるときは、近くにショップがあるため、メカニックは全てそこに一任していた。しかし、遠征に出ると海老原も一人だ。簡単な事は自分で出来なければならない。

 海老原はまだ、海外に遠征に行ったことがない。しかし、新谷は海外へたった一人で遠征に言ったことがあるという。なかなかいない境遇の選手なだけに、海老原は新谷に聞かなければならない事がかなりあることに気が付いた。

 しかし、遠征。練習。拠点での生活。等々数えたらきりが無い。その中で、海老原が偶々先ほどまで考えていた事が質問として頭に浮かんだ。別に新谷である必要はないが、新谷ではいけない事でもないので、この機に聞いてみる事にした。


「そういえばさ。トライアスロン選手ってみんな練習強いねぇ。今日なんか俺ビックリしちゃったよ。やっぱあれくらいできないとダメなのかネェ。」


 それは、質問というよりも悩み相談のようになってしまったが、海老原の言わんとするところは新谷に伝わったらしい。「どうでしょう。僕もそんなに色々な選手に会ったわけじゃないんですが。」と前置きをしてから、答えてくれた。


「でも多分必要なんだと思いますよ。トライアスロンって、シーズンに入るとほぼ毎週世界の何処かでレースが開かれてますし。世界ランキングあげようと思ったら、2週連続・3週連続でレースなんて当たり前ですし。ここぞって一発の爆発力も当然必要でしょうけど、それと同じくらい「高い調子を維持し続ける」能力が必要なんじゃないんですかね。」


 確かにそうである。新谷の言う通り、トライアスロンはシーズンに入ると、ほぼ毎週世界の何処かでレースが開かれている。その中から選び取って、選手はレースに出場する。そうなると当然、一つだけの優勝よりも、多くのレースでの上位入賞の方が獲得ポイントが高くなる。特に海老原や新谷のように、より上位のカテゴリーに出場することを目指してポイントを稼ぎにいく選手は、それが顕著だ。そう言う意味では、調整力というところも能力としては重要になってくる。


 海老原は、新谷の答えに驚き半分納得半分といった感じだった。特に新谷は、ポイント獲得のために海外転戦の経験がある。生の声なだけに、説得力があった。

 これまで海老原は、自分自身の評価を上げるために一発の強さを上げることにのみ固執してきた。それはそれで間違いでないと思う。しかし、それと同じくらい高いパフォーマンスを維持する事は大切だ。


 陸上を始めとする記録競技は、順位に加えて記録も選手の評価基準となる。記録競技とは簡単にいうと「世界記録の存在する競技」だ。例えば、順位的に下でも基準記録を突破していれば、それは評価される。


 しかし、トライアスロンに記録的要素はない。世界記録の存在しない競技なのだ。仮置きとしてそう言った評価基準を設けることもあるが、最終的には順位が上の選手が高い評価を得る。

 つまり、自分自身がどんなに調子が良くて好記録を叩き出しても、それよりも先にゴールした人間がいたらそれは負けであるし、逆にどんなに遅い記録でゴールをしても1番最初にゴールにたどり着いてさえいれば、それは勝ちなのだ。

 

 だからと言って、どのレースが速い記録のレースなのか、遅い記録のレースなのかは分からない。どんなに強力な選手がひしめき合っていても、皆の調子が崩れていて記録自体は遅くなるかもしれない。

 そう言った「チャンス」の時に、変わらず自分の実力を出せることが大切なのだ。もちろんチャンスを待たずに、自分で作り出せる力を持つことが1番重要なのだが、ポイントを稼がなければ上位のレースに出場できないルール上、少なからず「完全無欠の能力」を手に入れる前のまだ未完成の状態の時に、ポイントを稼ぐ必要がある。

「万全の準備」を整えてから挑戦を始めるには、あまりにも選手生命は短く時間もあまり用意されていないし、実戦でしか得られない経験値的要素が多すぎる競技である。


 これまで記録も含めた順位を成績として評価される世界で生きてきた海老原にとって、この仕組みは、単純明快で好ましくもあったし、その選手が正当な評価を得られないのではないかという疑念もあった。

 しかし、それでも海老原はこうしてこの競技で戦うために日々研鑽を重ねている。郷に入らば郷に従え。この仕組みの中で選手としての評価を得られるように、海老原は戦うしかない。何故ならそれがこの競技のルールだから。


 個人で活動をする選手として、新谷の考え方には参考にしたい点がいくつもある。普段なかなか会話を重ねることのない彼ともう少し意見交換をしたいところだ。幸にも明日は休息日。自身の成長のため、新谷には悪いが根掘り葉掘り聞き出させてもらおう。


 海老原はそう考えると、椅子にしっかりと座り直し、すでにあった質問のいくつかを新谷にぶつけ始めた。



 満足のいく結果を残せなかった前半シーズン。その中で招待されたこの合宿。後半シーズンで自分自身の力を示すためにも、海老原はさらに強くなる必要があった。

 そしてこの合宿で、「陸上選手」から「トライアスロン選手」になる必要がある事を学んだ。

 合宿も残り4日。後半シーズンへ向けても残された時間はあと僅かとなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る