4-4「do my best!!・八木晃」



 最悪だ。

 ただ、ただ最悪だ。

 それしか言葉が出てこない。


 練習後、1日の終わり。夜も更け静まりかえった宿舎の一室で、八木晃は一人頭を抱えていた。

 今日の練習で怪我をした。いや、正確には昨日のラン練習でなのだが。今日の練習後、この痛みが怪我であると発覚した。八木自身も何となく怪我かもしれないとは感じていた。しかし、痛みがするだけで走れるし、庇う感じもないので、練習は継続させていた。

 それに、今この状況。おそらく国内でここまでのメンバーが揃う合宿など他にないだろう。選手それぞれが国内トップクラスの実力を持つ。そんな合宿を怪我などで不意にしたくはなかった。八木は今まで大きな怪我をした事は無かったが、トライピースの他のメンバーが怪我をして練習に参加できなくなっているところは何度も見てきていた。この合宿というチャンスで最高に楽しい場を外から見ているだけなど耐えられなかった。だから隠した。伊南に知られれば、練習を外される事は必至である。そして何とか一日、隠し通したつもりだったが、まさか最後の最後で朝川に見抜かれるとは。


(怒ってんのかと思ったけど。意外とそうでもなかったな…。)


 八木は、夕方の練習後に朝川に問い詰められた事、そして先程風呂場で浅川と会話した事を思い出していた。




八木は、朝川に問い詰められた後、ABCドリンクのチームが連れてきたマッサージャーに状態を確認してもらった。彼が言うには、最悪の状態には至らずに済んでいるらしい。しかし、痛みがある以上それが引くまでは、走る事はお勧めできないと言われた。1〜2週間程度必要かもしれないとも言われた。

正直、八木は彼の言っていたことを全てしっかり聞けていた自信は無い。1〜2週間走れないと言われて、受けた衝撃と絶望感に引っ張られ、脳が正常に機能していなかったように思う。2週間と言うと合宿は終わっている。そして、学生選手権は今から4週間後だ。


(合宿は?練習は?治るのか?間に合うのか?)


 そんな風に頭の中をぐるぐると回る思考に支配されていた八木に、マッサージャーは治療に入る前に風呂場で軽く筋肉を解してくるように言った。


伊南さんには僕から言っとくから。と言うマッサージャーに支持されるまま、八木はフラフラと風呂場に向かった。

体とは面白いもので、一度痛いと認識してしまうと、痛みが止めどなく溢れ出てくる。昼間までは歩くときは平気だったのに、今は歩いていても痛みを感じる。もう痛みを隠す必要も無い八木は、完全に痛い方の脚を庇いながら風呂場までの道を行った。


風呂場に入ると、ちょうど露天風呂から戻ってきた安藤に遭遇した。


「良いところに来た!晃!今露天風呂に仁志しかいないから、行って話してこいよ。」


「えっ…。でも…。」


 最早隠す気力も残っていない八木は、明らかに拒絶の表情を浮かべた。八木の頭に、先程自分の肩を掴んで怪我について問い詰めてきた朝川の姿が浮かぶ。できれば会いたくなかった。

 そんな八木の心中を知ってか知らずか(表情に出ているので明白だとは思うが)、安藤は躊躇する八木にこう諭した。


「仁志に気付かれなかったら、完全に使えなくなるまでやってただろう?どういう状況だったか伝えな。大丈夫。あいつ別に怒ってないから。」


 そう言って安藤に半ば強引に後押しされた。

 しかし、と八木は思った。


確かに朝川に言われなければ、八木は文字通り使えなくなるまでこの脚を酷使していただろう。そうすれば、4週間後の学生選手権どころか、シーズン末の日本選手権の出場すら危うくなっていたかもしれない。そういう意味では、朝川に礼を言う必要はある。まあ、練習機会を奪ったのも朝川なのだが、それは八木のことを思ってのこと。それは八木も理解している。だが、先程の問答がある。それが不安だった。今、八木はまたあのように朝川に問い詰められたら、正気で居られる自信が無かった。


扉を前にして、ああでも無いこうでも無いと考える八木だったが、意を決して進む事に決めた。今ある不安を振り払うかのように勢いよく扉を開ける。そして、こちらに背を向ける認めると、そのままの勢いでその横のスペースに滑り込んだ。


(ええい、もういい。また問い詰められる前にこちらから行ってやる。)


そう考えた八木は、彼の突然の登場に驚きを隠せず、完全にノーガードな朝川に向かって決めていた事を伝えた。


「先生に、もう少し我慢していたら重大な怪我になってたって言われたんです。今、気付けて良かったって。朝川さんが言ってくれなかったら明日も庇って走ってました。アリガトウゴザイマス。」




あの後、八木は朝川と色々な話をした。

朝川が怪我をした時のこと。安藤が持っている膝の古傷について。長期離脱を余儀なくされたときに朝川が思っていた事。朝川自信、無理をして棒に振ってしまったシーズンがあると言う事。

そして、ちょっとした怪我を放置したことでそれが致命傷となり、早々に引退を余儀なくされた数多くの選手たちの話。


その話を聞きながら、八木は衝撃を受けていた。選手に怪我は常に付き纏うもので、それは仕方の無いことだと理解はしていたが、まさかここまで毎度毎度が選手生命や活動に対して大きな影響を与えてしまうとは思ってもいなかった。大きいものであろうと小さく軽いものであろうと、判断と対処を見誤れば致命傷に至る。そして、朝川は才能ある選手がそうして潰れていくのを常に間近で見てきた。「次は自分かもしれない」。そう言った恐怖と戦いながら、今日この日まで生き長らえてきたと言う。


八木は想像した。この怪我が原因で選手生命を絶たれ、他の選手達が上へ向かって走り続ける姿を何もできずに外から眺める自分。「あの時無理をしなければ」と後悔をし続けながら過ごす日々。想像しただけで気が狂ってしまいそうだった。

力及ばず諦めるのなら仕方がない。しかし、後悔を背負いながら生きていくだけの覚悟と強さをまだ八木は持てていなかった。




八木は自室のベッドの上に大の字になり天井を見上げた。患部のアキレス腱には、安藤から借りた超音波を利用して患部を治療する治療器具が付いている。ミ゛ーと言う微かな駆動音を響かせて、ひたすらに八木の脚の回復を早めてくれている。


「僕はこれからどうしたらいいですか。」


先程朝川に八木がした質問。自分が思っていた以上に何かに縋るような言い方になってしまい驚いたものだが、しかし今の八木の心情を正確に表していた。


どうすればいいのかわからない。


幸いにして2週間程度で治るのだそうだが、明日からは確実に合宿とは別メニューだ。他の参加者を横目に1人だけ別のことをする。何をモチベーションにすべきなのか。せっかくこのような場に来て、自分は何をしているのか。そんな考えが頭の中をぐるぐると回っていた。そんな八木に対して朝川がかけた言葉はたった一言だった。


「目標を見据えろ。」


 目標。つまりは、今シーズン目指しているレースだろうか。八木にとってそれは学生選手権であり日本選手権だ。だとすれば、その目標に対して現状は、最悪だ。かえって焦る事になりそうだ。そんな八木を見て、朝川はこう続けた。


「目先のレースにとらわれると、選手生命はすぐ終わる。さっさと治したいなんて、焦りばかりが生まれる。だけど、選手としてどうなりたいのか。何を目指しているのか。そう言う夢から逆算すれば、今無理すべきでないことがわかる。更にはこれから先、強化するべきだった他の部分をこの機に重点的に強化できる。そうすればやるべき事なんていくらでも出てくるさ。大事なのは、今自分が夢に対してどの辺りまで来れているのかと、その夢に辿り着くまでに何をしなくちゃいけないのか理解する事だよ。」


(夢…。)


 また出て来た。今年の初めから、まるで呪いのように八木の周りに現れる言葉。夢、目標。選手としてどうなりたいか。

 八木になりたい選手像などない。朝川のようになりたいと思ったこともあるが、別に彼になりたい訳じゃない。自分は自分だ。

 そしてその自分が今1番やりたいこと、それがトライアスロンだ。オリンピックとか世界シリーズとかそう言う目標がある訳ではない。ただ、だからと言ってこのまま仕事を始めて、趣味として取り組みたい訳でもない。

ではそれはなぜか。トライアスロンは、趣味として楽しむ環境が十分に整っているスポーツだ。続けること自体は難しくない。しかし、八木の何か本能にも似た部分がそれを拒絶している。仕事の傍ら趣味でこの競技に取り組む自分を想像すると、それに対して脳内に警鐘が鳴る。「こんな未来、認められない。」と。

選手として活躍し、注目されることを望んでいるのか。しかし、八木は自分自身がとてもそんな風な考えを持ち合わせる人間のようには思えなかった。注目されたいのなら、もっと他の方法がいくらでもある。

では、トライアスロンという競技自体に惚れ込んでいるのか。これもイマイチ合っているとは言い難かった。トライアスロンは好きだ。たまたま始めたスポーツだが、正直ここまでのめり込むとは思わなかった。しかし、それが八木が競技を続けたいという理由であるとは思えなかった。

八木の思考は、重力の呪縛から逃れられない宇宙船のように、何度も何度も発射地点へ戻ってくる。文字通りの堂々巡りだ。こんな悩み、他の人間なら悩みと認識する前に通り過ぎるだろうに、自分は未だにその螺旋の渦から逃れられずにいる。他人にできて自分にできないことがあるということが、八木にとっては非常に悔しく感じた。


八木は、昔から大抵のことは人並み以上にできてしまった。飲み込みが早いというか、一度教われば、勉強だろうとスポーツだろうとできてしまった。別にそれを鼻にかける事もなかったし、だからと言って自分が優れていると自惚れることも無かった。八木にとってそれは当たり前の事で、それ故に何かに対して情熱を注ぐと言う事が殆どなかった。競泳をやっていたのも偶々だ。偶々泳ぐ環境があって、偶々上位に行くまでの道筋が整っていた。

しかし、人並み以上にできてしまうが、決して一流という訳ではないので、結局大学でも続けて行くにはキツイ思いをしなければならないと知り、辞めた。

それでも水には触れていたいと思い、偶々近くにあったトライピースに入会した。


そこまで考えて、八木は初レースの時のことを思い出した。あれは確か、学生選手権への予選会だったはずだ。

せっかく練習をしているのだからと、馬場に半ば強引にエントリーさせられた予選会。それまでと同じように大した情熱も注がず、何となくスタートした。

そして惨敗した。

走れなくなった。練習では、朝川や他のトライピース所属の選手達に引けを取らないランニング能力を発揮し、順当に行けば優勝か表彰台くらいは確実と思っていた。その中で、結果は脚を吊った事による途中棄権。

コース脇に座り込み、吊った脚をケアしている間、次々と目の前を通り過ぎていく他学生達を前に、悔しさのあまりそれらを直視できなかったことを思い出す。

八木にとってのトライスロンという競技の原風景は、まさにそれだった。自分が立つことも進むこともできずにいる前を、普通なら負けるはずもない相手達が、自分を取り残し颯爽と通り過ぎていく。後に残るのは、悔しさとどうしようもない敗北感。


 

何となく見えて来た。時刻は22時に迫ろうかという頃合い。脚につけた治療器具が治療終了のサインを出して停止する。室内を静寂が包む。八木は起き上がり、脚から治療器具を外しながら今までの思考を整理した。そして、辿り着いた。


八木晃に競技に於いて何か成し遂げたいという夢は無い。


ただ単純に、自分よりもこの競技で優れている人間がいると言う事実に対し、悔しさを覚え、それを払拭するために相手よりも強くなろうとしている。


思い返せば八木にとって、素人と変わりないような人間に負けるのは初めての経験だった。今まで大体負ける相手というのは、その道における専門家やそれなりに積み上げたものがある者達だった。

しかし、トライアスロンの初レース。八木は(八木自身もそうなのだが)、始めて数ヶ月の素人に負けた。


おそらくあの敗北感が八木の原動力となっている。詰まるところ、八木の前を走る人間さえいなければ、八木は早々にトライアスロンを辞めるだろう。しかし、勝てば勝つほどこの競技では、次から次へと自分よりもはるかに強い人間が出てくる。競泳とは違い、自分より先にゴールされることが目視でわかるので、八木の感覚的に感じる敗北感は、競泳の比ではない。


つまりはそういうことなのだ。八木晃には競技に対する夢や目標など無い。

ただ一つ。誰にも負けたく無いという想いのみが存在する。

言い換えれば、それこそが八木晃の競技に対する「夢」だった。


では…と、八木の思考は、朝川に言われた現状すべきことの決定にまで戻る。

これを夢・目標と仮定し、それに向けて今すべき最善の手は何か。



治療器具を全て片付け終え、八木は布団に潜った。

少なくとも今すべきは、目先の欲に囚われて、破滅的に自信を追い込むことでは無い。長い目で見て強化をしていく事だ。手始めに伊南にも言われている体幹だろうか。


そう考えながら、少しずつ眠りに落ちていく。後から後から今すべきこと、今できることが、浮かんでは消えていく。


現状の最善を尽くす。

目指す場所はただ一つ。最後の最後に、八木晃の前を走る人間が誰1人として居なくなることだ。

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