4-3「生生流転・朝川仁志」



「仁志。おはよう。結局昨日の夜は理子や子供達に連絡はできたか。」


「仙一さん。おはようございます。お陰様でまだ子供が起きてるうちに電話掛けられましたよ。理子が仙一さんによろしくと。」


 陸上競技場でのラン練習の翌日。朝食会場で朝川仁志は、ABCドリンク所属の安藤仙一に声をかけられた。

 朝川は安藤とは、朝川が18歳の高校生の時からの付き合いである。朝川よりも1つ年上の安藤は、大学入学と同時にトライアスロンを始め、あっという間に19歳以下カテゴリの日本代表まで上り詰めてしまった。その時の代表戦で朝川は安藤と同室になり、それ以来交流が続いている。

 チームは違うが、朝川にとって安藤は何でも気軽に話せる相手であった。若い頃はたった2人だけで1ヶ月間ヨーロッパ地域のレースを転戦したことなどもあり、苦楽を共にしたと言っては大袈裟だが、それくらい多くの経験を彼にはさせてもらっていた。

 今回の合宿も、発案者は安藤だった。それを朝川が伊南を巻き込んで企画し、この度実現に至った。そんな安藤だが、現在は※プレイングコーチとして、実際に練習に参加はしながらも選手活動は第一線を退いていた。しかし、今年の日本選手権へは参加を表明しており、正に今、プレイングコーチとしての練習の傍ら、自身のレベルアップの為の練習も行なっていた。


※実際に練習に参加して指導を行う指導者の事


 朝食後、練習開始時刻になり選手とスタッフが宿の前に集合し始めた。昨日が高強度だった事もあり、本日は強度を上げすぎずに、バイク、ラン、スイムの順番で合計で5時間ほど動く。朝川も準備を終え集合していた。スタッフ陣が乗る車に必要物資を詰め込んでいると、サイクルジャージではなく、普通のジャージに身を包んだ安藤が現れた。傍らにはABCドリンクのマッサージスタッフがいる。


「仙一さん。膝ですか。」


「ああ。ちょっと調子良くなくてね。」


 安藤は、20代の頃大きな膝の怪我を経験している。そこからはなんとか回復し、最前線に戻ってこられたが、30歳を越えた辺りから昨日のように高強度の練習をすると、翌日まで痛みが続くことが出てきていた。本日も痛みが引かなかったのだろう。膝はバイク、ランともに使う部分である。特に長野の山間部を行く今日のコースでは、膝への負担は余計に大きくなる。


「ランは皆の横でウォーキングって事にするけどバイクは無理かな。今日はコーチ業の方に専念だ。」




 本日のバイク練習は昨日の疲労を抜きつつ、途中にある20分ほど登る峠で希望者のみ強度を上げていくメニューだった。その為、集団は穏やかな雰囲気のままスタートしていく。時折雑談など交わしながら進んでいく中で、安全確認のためスタッフの乗る車が集団の前や後ろを行ったり来たりしている。集団の横を通る度に、飲み水の交換をしたり、ペースを上げすぎないよう指示したりするため車の窓が開かれる。

朝川は、その度に見える安藤の横顔が、どこか寂しそうな雰囲気を持っているようであって、しかし他方で全てを受け入れて今できる最善を尽くすという覚悟があるようにも見て取れていた。しかし、目が合うとニヤリと笑ったり、追い抜きざまに選手に軽口を飛ばす辺りを見ると、実は意外と何も考えて無いようにも見える。何を考えているか分からないところは相変わらずで、寧ろ平常運転の彼を見て、彼の身を案じている自分がいる事になんだかバカバカしさを覚えていた。


(お互い気づけば随分遠いとこまで来てしまいましたね。)


 朝川のプロとしてのキャリアの中には、常に安藤の存在があった。同時に朝川にとって、彼ほど居なければよかったのにと思ったライバルはいない。安藤がいなければ勝てていたレース、とれていたタイトルなど数えていたらキリが無い。しかしだからこそ、朝川はここまで第一線で競技を続けてこられたのかもしれない。次々と脱落していく周囲の選手の中で、彼だけが常に大きな壁として、ある時は目の前に立ち塞がり、そしてまたある時は背後から物凄い勢いで迫ってきていた。だからこそ、朝川は強さを求める事を止めずにこられたし、オリンピックに出る事だってできたのだと思っている。

 そして数年前。安藤が第一線を退くと伝えられた時、朝川が思ったことは


(仙一さんとのこの経験を後輩に伝えていきたい。)


 という使命感にも似たような思いだった。安藤は、指導者という立場からそれを伝えるという。それでは自分はどうか。自問自答の末、「選手として後輩達の壁となり立ち塞がる。」という考えに至った。そして今、その集大成として日本選手権での優勝を掲げている。


(以前だったら、誰かに何かを伝えるなんて考えてもみなかった。)


 安藤が第一線を退くと、気づけば朝川がトップ選手の中では最年長になっていた。そしてこの経験を続く後輩達に伝えたいと思った。そう考えている自分が可笑しくて、しかも傍らにはまだこの競技に関わっている安藤が居て、つくづく人生何が起こるかわからない物だと、朝川は人知れずサドルの上で笑っていた。




 1日の練習を終え、宿に帰り着いた。今日はこのまま食事をとって明日の練習に備える。

自転車を押して部屋に帰る途中、朝川は前を行く八木に違和感を覚えた。最初は気のせいかと思ったが、よく見ると僅かに右足を引きずっている。周りにバレないよう我慢して歩いているのだろう、しかしそれがかえって朝川の目には異常有りのものとしてうつった。朝川はスッと歩調を早めて八木の横に並ぶと、宿のロビーに入る前にその肩をガッと掴んで歩みを止めさせた。朝川に無理やり歩みを止められた八木は、明らかに右足を庇うようにしてその場でたたらを踏んだ。

 突然の出来事に、何事かと他の選手の目線が朝川と八木へ注がれる。その中には伊南の視線もある。それを見てとって八木は明らかにしくじったというような表情を顔に浮かべた。


「晃。お前、右足痛いんだろう。」


 八木の肩を手で押さえたまま、朝川が八木を問い詰めた。言外に言い逃れは無駄だという強い意志を込めて放った言葉だった。それを感じてか、八木の肩から力が抜けて俯き加減にポツリポツリと白状し出した。


「はい…。痛いです。」


「いつから。」


「昨日の、ラン練習後からです。昨日はただ疲れてるだけだと思って、いつもより入念にケアしただけで終わらせたんですけど、今朝になっても治ってなくて。」


「右足のどのあたりだ。」


「アキレス腱…?の辺りです。」


 更に続けようとする朝川の尋問のような問いかけに、事に気づいた伊南が待ったをかけた。


「まあまあ、仁志。そんなに責めるような言い方するな。俺も気付けなかったんだし。晃、どういう風に痛む。今日のランは走れてたようだけど。」


 伊南に諭されて、朝川は自分が知らず強い口調になってしまっていたことに気付いた。昔からこういう風に他人を安じるのは慣れていない。自分が診ると名乗りを上げてくれたABCドリンクのマッサージスタッフに連れられて、部屋に退散していく八木に「強く言ってゴメンな」と声を掛けたかったが、そう思った時にはもう八木は扉の向こう側へ行ってしまった後だった。

 先程まで八木の肩に置かれていた手が行き場を失い宙に留まっていた。それを認めた瞬間、手が鉛を詰めたようにひどく重くなったように感じられた。

日の入り前の夕焼けに照らされた山間部を勢いよく滑り抜けてきた風が、朝川の肌を責めるように打ち付ける。夏にも関わらず、それはひどく冷たかった。



大浴場の露天風呂。その縁に座って朝川は1人項垂れていた。他に利用者はいない。火照った体を風が優しく撫でていく。

朝川は先程の八木に対しての自身の態度について猛省していた。どうして自分はもっと気の利いた言葉をかけられないのか。


「さっきのありゃ、失敗だったな。ま、仁志らしいっちゃらしいケド。」


 ザブンと安藤が朝川の隣に入ってきた。大柄な安藤が入った事で湯船の湯が勢い良く流れ出る。


「アハハ…。別に晃のことが嫌いって訳じゃないんですけどね…。なんでかキツくなっちゃいますね…。」


 朝川はそういって力なく答えた。朝川はなかなか他人に伝えるということに慣れていない。後輩に何か伝えるにしてもそうだし、家庭でも子供を叱るときなんかはいつも言い過ぎてしまう節があった。理子に相談した時も「確かにそういう時もある」と言われていたから本当にそうなのだろう。昔から基本的に他人を顧みず、選手としての自分の我を通して生きてきたので、上手い具合に他人を案ずる方法というか力加減がわからない。今日だって、学生選手権を1ヶ月後に控える八木を想っての発言だった。それなのに、あんなに強い口調となってしまった。


「まあ、きっと、それだけ仁志が相手に対して本気なんだって事なんだろうよ。」


 朝川の隣で安藤が湯船の中で自身の大腿部をマッサージしながら言った。


「仁志が覚えてるか知らないけど、俺がプレイングコーチになって第一線は退くって伝えた時も、今日みたいに結構な剣幕で迫られたのを覚えてるよ。」


 それは朝川も覚えている。確か食事に誘われて、理子と子供達で安藤の家に招待された時だ。食事も終わり、食卓で2人酒を酌み交わしていた時に言われた。あの時も確か自分は結構な物言いをしていたような気がする。


「それでも俺は嫌な気はしなかった。寧ろ嬉しかったよ。コイツはこんなにも俺のことに対して本気でぶつかってきてくれるのかって。最近、指導もする様になって思うけど、結局伝え方ってのは他人それぞれなのさ。他人対他人である以上、考えを100%伝える事は無理だ。それが上手い奴ってのもいるけどそんなのは一握りでさ。大事なのは、どれだけお互いが信頼関係で結ばれてるうえで本心を言い合えるかなんだよな。」


 そう言いながら安藤は今度は肩のストレッチを始めた。こう言う真面目な話をする時、安藤はやたら落ち着かなくなる癖がある。本人曰く、恥ずかしさを散らしてるそうだ。


「俺だって村井に強く言ってしまう時もあるし、言いすぎたって時もある。でも村井は文句もあるだろうけど、疑問がある時はそれをぶつけてきてくれるし、その言葉がまた強い時もあるんだけど…。でも、そうやって言われる事で俺も気付かされるし、改めて自分の直すべき点に気付ける。結局そう言うのって、本心を相手にぶつけられるかどうかなんだよな。仁志は不器用だし、八木も一筋縄で行くタイプじゃないようだけど、仁志がそうやって不器用なりに本心で伝えていってそれを八木も理解して受け止められるようになれば、お前らの先輩後輩で伝える側と伝えられる側としての関係性も変わってくるんじゃないかな。」


 ま、俺もまだまだ指導者としてはひよっこだけどな。と安藤は最後に付け足して笑い湯船から上がり、室内に引っ込んでしまった。

 まさか自分にこれを伝えるためだけにきてくれたのかと思い、朝川は申し訳なく思った。同時に、自身の行動について改めて省みた。


 おそらく自分は、八木をはじめ後輩達に何かを伝えようと焦っている。そう朝川は考えた。そしてチーム直系の後輩である八木に強く言ってしまうのだと。馬場は、すでに卒業後は化学者としての道を歩むことが決まっている。そう言う意味でもなんとなく八木に多くの期待を寄せてしまっている気がする。しかし、それは違うのだ。今までのように自分が選手として走るのとは違い、他人に期待を寄せるのは、つまりはその行動自体の決定権は自分ではなく、その相手にあるものなのだ。そこを自分の期待を押し付ける形でいってしまっては、相手にとっては邪魔以外のなんでもない。

 改めて考えると、朝川の指導者である伊南はそのあたりのさじ加減がうまかったように思う。自分の期待もある。チームとして出して欲しい成績もある。しかし、最後は選手本人の気持ちが最優先。それ以外の思惑などは全て後付けであるべきだと。


(「伝える者」としては、俺は多分向いていないな。)


 結局は背中で語るしか、自分には能がないのかもしれない。朝川はそう考え、(それなら指導者の話しも考え直さなきゃなぁ)などと考えていると、扉が勢い良く開き中から人が出てきた。そしてそのまま先程まで安藤がいた朝川の隣のスペースにザブンと勢い良く入り込んで来た。朝川が不審に思いそちらを見ると、そこにいたのは八木だった。


「…ッ!晃。脚、温めてしまってもいいのかよ。」


「はい。先生にとりあえず一回ほぐしてこいと言われまして。」


「そ、そうか。よかったな。診てもらえて…。」


僅かな沈黙。朝川はかなり気まずい思いをしていたが、顔には出さなかった。先輩として、後輩である八木に対して弱みはみせまいというプライドがギリギリそうさせていた。

 そうこう朝川が悶々としていると、不意に八木が口を開いた。


「先生に、もう少し我慢していたら重大な怪我になってたって言われたんです。今、気付けて良かったって。朝川さんが言ってくれなかったら明日も庇って走ってました。アリガトウゴザイマス。」


 八木は明後日の方向を向きながら、明らかにふて腐れたように朝川に礼を言ってきた。多分、安藤辺りに礼を言ってこいとでも言われたのだろう。彼としては無理してでも走りたかったようだ。そんな八木の明らかに不機嫌な態度を見て、朝川はなんだか先程まで悩んでたこと全てがばかばかしく思えてきた。


そういえばそうだった。朝川自身も八木くらいの時は、怪我をしようが何をしようが、競技を止められることが1番嫌だった。止める伊南に対して何度不満をぶつけたかわからない。

しかし、それでいいのだ。難しい事は朝川にはわからない。しかし、こうして人に言われたからにしても自分のところへ礼を言いにきてくれた。今はそれで十分だ。


「俺も強く言いすぎたよ。ゴメンな。それで、先生はなんだって。」


 朝川がそう聞くと、明後日の方向を向いていた八木の顔がギギギっと音を立てそうなくらい億劫そうにこちらを向いてきた。そしてポツリとこう言った。


「あと2週間は、走らないほうがいいって。合宿中は、スイムとバイクだけにしろって…。」


(さあ大変だ。)


朝川は八木の態度を見てそう思った。明らかに納得していないこの若人を自分は諭さなければならない。そしておそらく今の彼は、伊南の指導者としての見解でもなければ、馬場の理論に則った理屈でもなく、朝川のような実際の経験則から来る意見にしか耳を貸さない状態だ。

朝川にはそれが痛いほど分かる。何故なら自分がそうだったから。そして朝川は、安藤という最大のライバルから、そのことを伝えられていた。


(今の晃の状態は、言うなれば俺自身が彼にもたらせたこと、責任の一端は俺にもある。)


朝川は自身にそう言い聞かせ、さてそれなら自分はどう言った事だったら素直に聞き入れただろうかと、当時の記憶を探りつつ、目の前の後輩に向けて伝えるべき言葉を、膨大な量の経験の中から選び取っていった。

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