4-2「空、駆ける・村井勇利」



 長野県の高地で行われている、国内トライアスロン選手が一同に介するこの合宿も、休息日を挟んで第2週目に突入していた。長期に渡る合宿である事から、各々のスケジュールの関係で、期間中に合流、離脱する選手が何名かいる。村井勇利も最終日を待たずして先に離脱する内の1人だった。

 村井は、8月末にスイスのローザンヌで開かれるシリーズ戦の最終レースに出場する予定だった。その為、他の選手よりも4日先にこの地を発つ。と言ってもまだまだ十分に期間はある為、練習メニューも変更せずに皆と同じものをやる事にしていた。

 

 本日の練習は、午後に標高約1200m地点にある陸上競技場を使用してのラン練習がある。練習メニュー立案者は、海老原颯人だ。実業団駅伝選手として培ったノウハウと知識を披露してもらう事になる。合宿中4回ある陸上競技場を使用してのラン練習は、全て彼が立案する事となっていた。

 1日の流れとしては、午前中にスイム練習、昼休憩を挟み2時頃からバイク練習を行い、そのままラン練習となる。起床後、軽く部屋で体操を済ませた村井は朝食会場へ行った。宿には他の合宿団体も宿泊していて、朝食と夕食はビュッフェスタイルで好きなものを好きな様に食べることができるようになっていた。品数も豊富で、何年もスポーツ合宿を受け入れているだけあり、しっかりとしていた。

 朝食会場は既に他の客でごった返していたが、トライアスロン関係者は見当たらない。村井は、手早く料理を取ると空いている席を見つけそこに座った。時計を見るとスイム練習への出発時間まではまだ2時間程ある。おそらく他のメンバーはこれからここに来るのだろう。特に時間を合わせているわけではないので、村井は朝食を摂り始めた。


 トライアスロン選手は食べる量が多い傾向にある。単純に3種目分のエネルギーが必要になるからだ。村井もご多分にもれずかなりの量を食べる方だった。本日も朝からおかずで盆をいっぱいにし、大盛りにしたご飯を食べていた。

 やがて盆にはまだおかずがあるにも関わらず、茶碗のご飯がなくなってきた。お代わりをしようと席を立つと、朝食会場の入り口にて誰かを探すように会場内を見渡す人物と目があった。その人物はこちらを認めると頭上で手を振りながら村井の方にやってきた。


「村井君。おはよう。よかった、誰もいないかと思ったよ。」


海老原だった。髪の毛の寝癖がまだ取り切れていないことから、寝起きなのだろう。村井の元に来るまでに何度かあくびを噛み殺していた。


「おはようございます。海老原さん、寝起きですか。寝癖が…。」


「いやあ。目覚まし掛けてたはずが、音ならなくてさぁ。慌てて出てきたんだけど、まだ時間大丈夫そうだったね…。」


 そう言って笑った海老原は、席の位置を確認すると反転し、朝食をとりに行った。村井も炊飯器から茶碗にご飯を大盛りによそって、席に戻り朝食を再開した。





 同日午後、陸上競技場。村井達合宿参加メンバーは、ランニング練習を行うためにウォーミングアップを終えスタートラインに集結していた。8月も中頃になるが、高地に位置するこの競技場周辺の気温は高く無い。容赦ない日差しの照りつけの中に微かな涼しさが含まれており、走るには絶好のコンディションだった。

 全員が集まった事を確認し、チームトライピースの監督の伊南が海老原に練習メニューの最終確認を頼んだ。


「はい。今日のメニューは予定通り3000m-2000m-1000mを間を800mジョグで繋いで行います。ペースも告知していた通りです。少し遅めの設定にしてあるのは、高地で酸素が薄くなっていることを考慮しての設定です。駅伝時代によく使っていた計算方法で、標高に合わせて設定しました。だけど、あくまで目安なので各々の目的や状態によってチョイスしてもらって構いません。なんかわかんない事ありますか。」


 海老原が説明を終え、全員を見渡すが皆理解したようで各々問題無しとの反応を示していた。それを確認し、海老原は伊南へ目配せをする。それを受けて伊南が首から下げたストップウォッチに手をやって、練習開始の準備を始めた。

西関東住建の大室達に帯同して来たコーチが、スタートから見てちょうど反対側の200m地点でのタイム計測を行う。

トライピースの若手コーチ瀬波と西国運輸の木原に帯同して来た若手コーチは、自身のタブレット端末で選手達が走っている映像を撮るらしい。ランニングシャツにランニングパンツとこれから走る選手達と殆ど変わらぬ格好をしていた。

ABCドリンクのコーチは伊南とともにスタートラインでのタイム計測。さらにABCドリンクはマッサージスタッフも来ていて、彼は200m地点で計測を行なっていた。

今回の合宿のスタッフは以上の6名。各々のチームがそれぞれチームスタッフを連れて来ている。

万全のサポート体制の下、12名の日本を代表する選手達がスタートを切る。トライアスロン選手は長距離走の選手と違い、上半身もかなり筋肉質だ。その為、集団になって走っているとかなり圧迫感がある。当然その分体重もあるので、集団が通り過ぎるとまるで地が揺れたかのような錯覚さえ覚える。

最初の3000mはペースも遅かった為、集団のまま終えた。トライピースの馬場、アインズの石上、新谷、海老原が集団の先頭に立ちペースをコントロールした。

間を置き2000mに突入した。ペースが上がった事により、苦しむ選手が増えて来た。アインズの蜂須賀は限界を迎えてしまったようで、1000m地点で集団から千切れてしまった。

最後の1000m。ここはタイムの指定が無い。まず飛び出したのは馬場だった。それを海老原と村井、西関東住建の大室が追う。高校時代は800m走の選手だったらしく、馬場のスピードは一向に衰えない。700m地点まで他者に先頭を譲り渡す事をしなかった。しかし、700mを越えたところで海老原が一気にスパートをかけた。突然の急加速に村井を始め全員が置いていかれる。

海老原が地を蹴る姿は重力など微塵も感じさせず、言葉の通り空を飛んでいるようだった。彼にかかるすべての力が推進力となっているこのようにさえ見える。抵抗、無駄が全く無い。しっかりと前を見据えて飛んでいく姿は、薄い空気から少しでも多く酸素を取り入れようと汲々としている他の選手とは明らかに違う生き物だった。



そして何よりも、彼は自由だった。重力から解放されたように走る姿だけでは無い。正に今、こうして地を蹴り走っている。その事に対する喜びや感動が彼の動作一つ一つから迸っている。長い間抑圧されていた何かから、解き放たれているような、そんな自由が彼の走りにはあった。




その日の夕食後は、いつも通り翌日のスケジュール確認を簡単に行い解散となった。夕食を続ける者、食後のコーヒーを嗜む者、雑談を続ける者、各々が思い思いの時間を過ごしていた。

安藤と話をしていた村井だったが、ふと反対側のテーブルに目をやると、先程まで新谷と雑談をしていた海老原が、手持ち無沙汰にコーヒーカップの中身を転がしているのを見つけた。食堂の入り口を見ると、用事のためと大室、青木、石上の3名に新谷を引っ張られていってしまったようである。村井も安藤が退散してしまい、手元にあるコーヒーを飲み終えたら部屋に戻ろうと考えていたが、昼間のあの海老原の走りが脳裏に浮かび上がり、どうしても彼に聞きたい事ができた。


「海老原さん。お疲れ様です。」


「お疲れ様。村井くんもまだいたんだね。」


 村井が話しかけると、海老原は手元のコーヒーカップに落としていた視線を村井の方へ寄越して来た。新谷を連れて行かれた事で別段気を悪くしている風ではなかった。


「新谷さん連れてかれちゃいましたね。」


「ま、連れてかれたって言うか、もう話終わってて、新谷くんが「じゃ部屋戻ります」って言ったところをあの3人に拉致されてた感じかな。仲良いんだね。」


 そう言う事だったのか。村井はてっきり海老原と話し中の新谷をあの3人が強引に拉致したのかと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。あの4人はジュニア時代(高校生年代)から付き合いがあるらしく、大会会場などでもよく連んでいるのを見かける。


「それよりも海老原さん。今日のラン凄かったですね。全く追い付けませんでした。」


「ああ、ありがとう。でも村井くんだってコツ覚えればあれくらいすぐ出来る様になるって。」


 村井の発言に対し、海老原はそう言って謙遜した。食堂には既に村井と海老原以外に人影は無く、設置されたコーヒーサーバーだけが、ミ゛ィィ――と駆動音を響かせていた。


「あの、海老原さん。聞いていいものかって思ったんですけど。なんでトライアスロンに移って来たんですか。」


 村井は、慎重に言葉を選んだつもりだったが、発言してかなりトゲのある言い方になってしまった事に気付いた。

 しかし、海老原はそんな事気にする風でも無く、むしろ意地悪く口の端を上げてニタリとした笑みを浮かべながら村井に問い返して来た。


「ほぉ。なるほど。村井くんは俺の存在が気に入らないのかな。」


「いや!違います!そう言うわけじゃなくって!」


「アハハッ。わかってるって。なんで実業団辞めて来たかって聞きたいんでしょ。」


 村井は海老原に自分が本当に聞きたかった事を言い当てられて、顔が熱くなるのを感じた。そして無意識とは言え、遠回しに彼の本心を暴こうとしていた事を恥じた。


「いいよいいよ。朝川さんとかトライピースの人達には言ってる事だし。別に隠してるわけでも言いたくないわけでもないから。」


 そう言って、海老原はヘラヘラとした笑顔を浮かべて自身の目の前で、慌てる村井を宥めた。





(意外と普通の人っぽいところもあるじゃないか。ま、当然だけど。)


 自身の発言を恥じる村井を見て、海老原はそんなことを思った。最初聞いたときは、どんな完全無欠の聖人が出てくるのかと思ったが、しっかりと人間臭いところもあり、海老原はなんとなくホッとした。競争の激しい陸上界では、生き残るために自分の人間臭ささえも消し去ってしまい、結果心身ともに異常をきたして潰れていった選手が何人もいる。海老原もこの目で見て来た。才能が潰れるのを目の当たりにする度やり切れない思いにもなったものだが、今目の前にいる彼はそう言う事にはならなさそうだった。


(まあ、なんと言うか。実は安藤さんと朝川さんから村井くんの事はちょっと聞いてるんだよね。で、2人とも「村井の性格上、多分お前について聞きたがると思う。」ってさ。理解者がいるっていいねぇ。…さてさてしかしどう言ったものか。この迷える子羊を、俺程度の人間が導くことなんてできんのかねぇ。)


 海老原はそう考えながら、おそらく多少の時間は必要だろうと村井の分と2つ、コーヒーカップに新たに中身を入れた。誰もいない食堂にコーヒーの注がれる音だけが響き渡る。時刻は20時少し前。10分か20分くらいかなと海老原は考え、目の前で道を見失った迷える子羊に向き合い、彼からの問いについて答え始めた。


 村井は自室のベットで、横になり天井を見上げていた。今日、3日に一度の清掃が入りメイキングされたばかりのフカフカのベッドは、その上に横たわる村井の体重を、拒む事なく優しく包み込んでいた。

 時刻は21時。村井は先程海老原から聞かされたことを脳内で反芻していた。


(自分のやりたいこと、キャリア、引退、レギュラー争い。そして新天地への期待と世界を相手取ることへの情熱…。)


 海老原は、やはりと言うか何と言うか、チーム側と意見が合わなくなり辞めて来たと言う。そしてこれ以上陸上界に残るよりも、トライアスロンへ挑戦したいと言う気持ちが勝ったのだと言う。彼曰く、自分が縛られている感じが堪らなく嫌だったらしい。


(今の俺と一緒…。)


 村井の脳裏に、もしもの時は自分を受け入れると言ってくれたメキシコの地にいるダニエルの顔が浮かぶ。そして楽しそうに日々を過ごしながらも、気づけば自分の遥か先に行ってしまっていたアレハンドロの姿も。遠いメキシコの地に思いが引っ張られそうになるが、海老原はこうも言っていた。


「確かに今俺は自由で、すっごく楽しいけど。でもこれって俺ただ逃げただけなんだよね。周りから見れば。だからさ、ちゃんと結果出して、そうじゃないって事を証明しなきゃいけない。それに意外と何でもかんでも自由だよ!ってなると案外自由に動けないもんだよ。仕事とか契約とか。大事なのは自分にとって今何が1番ベストなのか、考えて考えて選択する事だと思うよ。先の目標とか、それに必要なプロセスとかから逆算してね。まあ、俺が言ってもあんま説得力ないと思うけど。」


(海老原さんも自由じゃない。)


 彼はむしろ、制約という点では以前よりも厳しくなったと言っていた。それでもあれだけの自由を謳歌するかのような走りができる。それは正に彼が言っていたように、「今の自分にあった選択」だったからなのだろう。

 村井は思った。自分にとってメキシコのダニエルのチームに行く事はどうなのかと。

 確かにダニエルのチームには、日本にはいないレベルの選手が沢山いる。あそこで練習すれば確実に強くなれそうだ。しかしだ。環境に慣れる事や今の練習環境、先々の目標から逆算するとどうだろうか。おそらく国も文化も違うチームに慣れるのにそれなりの期間が必要だ。合宿の時でさえ、最初の1ヶ月は苦労した。しかも、村井は練習について不満を持っている訳ではなかった。むしろ練習に関しては、ダニエルの下へ行くことの方が不安がある。それなのに、村井がチーム脱退を考える訳、それは。


(自分が納得行かない事がある事…。)


 変えられない事があるなら、そこから逃れるしか無い。時間は有限だ。しかし、変えられる事だとしたら。


 村井はベッドサイドに置いてあったメモ帳に手を伸ばした。


(・安藤さんに相談する。

・選手目線からメディアの仕事について減らしたい意見を言う。

・仕事をとる時は選手の承諾を得てから。


…・それでも折衷案が出ない場合は、)


 そこまで書いてやめた。まずはレース。選手である自分にはそれしかないし、それ以外に興味は無い。だからこれは全てが終わった後。意見を通す為にも自分がチームにとって重要だという結果が必要だ。今の練習環境を捨てたいわけでは無い。この国で活動する事が嫌なわけでは無い。ならば、自分にとって最良の環境を引き寄せられるように動くべきでは無いだろうか。


 村井は、ベッドから立ち上がりグッと一つ伸びをした。強くなる。昔から決めていた。目の前の障害は、殴って壊して通りやすいようにしていくと。

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