4章
4-1「合宿!強者達との共演!・新谷丈」
遠くに見える山脈の向こう側から8月の太陽が徐々に顔を覗かせてくる。次第にその存在を大きくするに従って、周囲は朝の日差しに照らされ始める。昼間の刺す様な照りつけと違い、まだこの時間帯の光には全身を包み込んでくれる様な温かみがあった。陽光を受け次第に気温を増す大気は、しかし平地のそれと違って暴力的なまでの暑さには達しない。新たな1日の始まりの光を受けて、山肌を滑り降りてきた風が優しく頬を撫でる。
まだ人も少なく静かな宿泊施設前の広場に出て、新谷丈は1人大きく伸びをした。深呼吸をすると木々の匂いと洗われたばかりの新鮮な空気が体内をグルリと循環するのを感じる。今、彼がいるのは長野県の山間部にあるとある宿泊施設である。冬場はスキー客で賑わうこの宿は、雪のない夏場になると避暑に訪れる客やスポーツ合宿の受け入れ先となっていた。標高約1200mの辺りに位置するこの宿に、新谷はいわゆる「高地トレーニング」を行う為に訪れていた。
本日で4日目になるこの合宿だが、参加メンバーがなかなかに豪華だった。チームトライピースの朝川仁志が中心となって企画されたこの合宿には、現時点での日本のトップ10に相当する選手が殆ど参加していた。空気の薄い準高地での練習となり、心身共に疲労が溜まり始めているが、新谷はこの合宿に参加させてもらえたことに対する喜びが疲労を上回っており、まだまだ心身共に全快を感じていた。
今回の合宿だが、期間中に多少の出入りはあるものの、参加選手は総勢12名。参加するチームも5つとかなりの大所帯となっていた。
参加選手も豪華だ。
関東の強豪「チームトライピース」からは、ベテランの『朝川』・走る理系学生22歳『馬場』・学生最強『八木』。
現日本チャンピオン村井を有する「株式会社ABCドリンク」からは、35歳の大ベテラン『安藤』・現日本チャンピオン『村井』。
安定感は随一だが後一歩タイトルに届かない木原率いる「西国運輸」からは、31歳『木原』。
選手である石上自身がチーム運営と会員への指導を取り仕切る「チームアインズ」からは、ファンの数で言えばおそらく日本一の27歳『石上』・大学生としてアインズで練習と指導のバイトを行う21歳『蜂須賀』。
オリンピック選手の輩出から廃部の危機までチームとして酸いも甘いも多くの経験がある「西関東住建」からは、練習の力だけで言えば世界レベルで昨年日本選手権2位の29歳『大室』・大室と二人三脚でチームを支え続けて来た自転車競技出身の名アシスト28歳『青木』。
そして無所属。個人で活動する元駅伝選手の『海老原』。そしてトラブルメイカー『新谷』。
以上の日本を代表する12名の選手達だった。
本日の朝練習は、宿近くにあるクロスカントリーコースを12km軽いペースで走る。昼間にある水泳と自転車の練習がメインとなる為、朝は軽めのメニューだった。集合時間までの間、軽く準備体操をしていると、宿から人影が一つ出てきた。新谷が準備体操を中断しそちらを向くと、相手も新谷に気付いたようでこちらに近付いてきた。人影の正体は、村井勇利だった。
「勇利おはよう!早いね。」
「おはようございます。自分はいつもこの時間ですよ。丈さんも早いじゃないですか。」
「いやー。空気が薄いからか、疲れてるからか、よく眠れなくてさ。」
「大丈夫ですか。まあ、明日は休みですけど気をつけてくださいね。」
ありがとありがと。と新谷はへらりと笑顔をみせ、体調に問題はない事を言外に伝えた。新谷は村井とは学生時代からの付き合いだった。お互い学生内ではトップクラスに位置し、※エリートレースにも参加していたので、大学は違えど交流はあった。今回の様に夏合宿が一緒になる事も初めてでは無い。そんな交流の中で、新谷は村井の事を「隙の無い奴」と認識していた。
まず、練習で潰れる事がない。強度の高い練習だと体調や調子によっては、目的のタイムに届かない事もある。それを届かせるのが選手の実力でもあるのだが、人間である以上多少の浮き沈みはある。しかし、村井はその浮き沈みが極端に少なかった。毎度、目標タイムをはしっかりとクリアしてくる。浮き沈みがあるのは、タイム無視の最後のダッシュだけだった。どれだけ長期の合宿になろうとそれは変わらない。
そして次に、どんなに早朝であろうとしっかりと調子を合わせてくる。大抵朝練習などは、強度が上がることなどないから、寝ぼけ眼で出て来る選手も少なくない。しかし、村井は必ず起きてくる。日中の練習時と変わらない感じで出てくるのだ。そして、日中と変わらないパフォーマンスを発揮する。
そんな風に学生の頃から側で競技をしていた者が日本トップ選手になったのだから、当然その中に強さの秘訣があるのではないかと新谷は考えた。そして今回、合宿をする中で一つの仮説が組み上がった。彼の強さの正体、それはおそらく「調整力」ではないかと言う事である。
大会に向けて調子を合わせていく大きなスパンを見ての調整力・ピーキング能力はもちろんの事、こういった普段の練習に対する調整力が、新谷が今まで会った選手の中でも群を抜いて高いのだ。
能力自体は他選手とそう大きな差がある様には見えない。しかし、村井は毎回の練習でほぼ確実に90%以上のパフォーマンスを発揮する事ができている。それはつまり、毎回の練習で得られる練習効果をほぼ100%身に付けているのと同じであると新谷は見立てている。調子の浮き沈みがある選手だったら、受ける練習効果の平均値を出しても精々80%から90%程度だろう。それをほぼ100%身に付けるのだから、1回の差は少ないかもしれないが、それが5回10回と積み上がっていくごとに大きな差となっていく事は明白だ。
村井は強い。それは疑いようのない事実であるし、受け入れなければならない現実である。最初、村井が初めて日本チャンピオンになった時、新谷はその事実を受け入れられなかった。自分はまだ彼に手が届くと信じて疑っていなかっただけに、その事実は衝撃となって新谷の自信にヒビを入れた。1度ヒビの入った心というのは存外脆いもので、その僅かなヒビを起点に新谷の心はポロポロと少しづつ崩れ始めた。幸いにして村井がチャンピオンになってからは、オフシーズンに入りレースが無かった為、新谷の心の崩壊は致命的なものにまではならなかった。しかし、新谷が心を整理し、現実を受け入れ、再び前を向く為の自信を手に入れるまでには、実に6ヶ月もの期間を有した。
そして今回の合宿で新谷が自身に課した課題。それは「参加者全員から何かしらを学び取る事」である。今回の参加者の中には、当然村井の様に新谷よりも年下の者が何名かいる。しかし、その者たちも日本のトップに名を連ねる実力者である。新谷は、村井の日本チャンピオンを受けての自信喪失の期間に、自分自身にある問題点に辿り着いた。それは、「妙なプライドを持っている事」である。
新谷は、大学進学前からトライアスロンを行なっている為、業界内でもそれなりに古株の部類に入っていた。しかしそれこそが、新谷に「競技歴に於ける年長者」というプライドを持たせてしまっており、まだ若い彼にとってそのプライドは、成長を阻害する要因にしかならなかった。
だからこその今回の課題である。初のシリーズ戦参戦と大敗。夢の舞台で己の至らなさを思い知った彼は、今一度己を鍛え直す為に、全てを捨て去って全てを得ようとしていた。
そんな事を新谷は考えながら、村井と雑談をしていると、宿の中から続々と選手達が出てきた。半分寝ている様な者、明らかに疲労が抜けきっていない者、気合十分な者、朝からヘラヘラとテンションの高い者。今の日本トライアスロン界を代表する面々が、それぞれ思い思いに朝練習へ向けて準備を始める。
誰1人として同じ様な者がいない。個性の殴り合いの様な場である。それぞれがそれぞれの存在を確定させる為の何かを持っている。その人間が何者であるかを確定させる為の「違い」をその身に秘めて、今日も己の「価値」を鍛え上げ、磨き上げる為練習に臨む。
時間になった。それぞれの選手がなんとなく集まって輪になった。その中心で、トライピースの伊南が朝練習についての説明を始めた。
同日昼過ぎ。宿からさらに数十メートル山を登った所にある広めの池。合宿参加者の面々は、そのほとりに各々の荷物を広げていた。
これからこの池で実戦形式の水泳練習を行う。300mの距離を5本。全て全力である。一斉スタートである為、水中での接触や位置取り争いは当然発生するだろう。しかし、ある程度手の内の分かり合っているメンバーなので順位の予想はついた。
トップは十中八九、競泳でインターハイ出場経験のあるトライピースの八木がとるだろう。次いでの実力者として、村井と西関東住建の大室が挙がる。両名ともシリーズ戦出場時には、水泳は上位で安定している。読みにくいのが、朝川だった。プールでの泳力は低い物の、実戦になると経験と持ち前の読みの巧さで上位にいる事が多い。しかし、泳力が高いわけでは無いので、圧倒的なスピード展開に弱い。
これらの実力者以外の選手は、大きく分けて2択を迫られる。実力者のすぐ側に位置し流れの恩恵を受けるか、もしくは混み合う実力者側を避けて空いている場所を個人の泳力で泳ぎ切るかである。これは実際のトライアスロンのレースでも同じで、ここでのスタート位置選択がレースに於けるまず一つ目の大きな選択になっていた。今回はその為の練習でもある。
1本目。新谷は、八木の側に着けて泳いだ。スタート直後、ひとかき目の時点で明らかにパワーが違う。鯨か何かがいるのではないかという程のパワーと迫力を持って初っ端からグイグイとペースを上げていく。結局新谷はそれに着き切ることができず、折返しブイの手前で、八木から引き離されてしまった。
2本目。今度は、村井の側についた。先程の八木程のパワーと迫力は無かったが、速かった。感覚としては、音も無く加速し、気付けば離されているといった感じだった。泳ぎに無駄が無く、水の隙間を抵抗無くすり抜けて行っている様だった。新谷は、しかし何とかそれに喰らいつく。流れを受けやすい位置を死守しながら、ブイに辿りつく。そのまま何とか泳ぎ切り3番目でゴールした。
3本目。朝川の側になった。スタートダッシュまでは何も気にせず泳いだ新谷だったが、折返しブイ手前でアウト側に朝川がいる事に気づく。新谷の方がインにいる為、距離的には短くて済むはずで、先にブイをクリアする筈だった。しかし、ブイを回り始めてからの朝川の加速が凄かった。最後のひとかきで一気に加速すると、そのままインに切り込みながら、新谷の前に滑り込んでしまった。新谷は、朝川の経験と読みの巧さを支える圧倒的な技術力を目の当たりにした。
4本目。そろそろ1本だけでもいいので先頭でゴールしたい。そう考えた新谷は、敢えてブイから1番遠い大外に位置取った。接触無く自分の力で泳ぎ切るつもりである。隣には海老原が居たが、スタートダッシュでギリギリ引き千切ることができた。ブイ周りまでは良かった。しかし、大外に位置した分、圧倒的にブイ周りでの距離が伸びる。結局そこで追い抜かれてしまい、先頭ゴールはならなかった。
5本目。このままでは終われない。新谷は、捨て身の作戦に出ることにした。折返しブイまでで終わるくらい全力で泳ぎ、頭を取ってしまおうという作戦だった。ブイさえ回ってしまえば、後は何とかする。合図と同時に今日1番の勢いで飛び出した。八木から離れた事もあり、あっという間に先頭に躍り出る。しかし、同じ事を考えていた者がいた。村井である。新谷は意地でも譲るまいと、スピードを緩めずひたすら全力で水をかく。村井もペースを落とす気配はない。横一線のため、位置的には内側にいる新谷がブイ周りでは有利だ。そのままの位置関係のまま、ブイを回る。距離の関係で、新谷が村井の前に出る。
(やった…!)
そう思い、岸までの残りでこのままリードを保とうとした時だった。突然、腰が水底に向かってグググっと引きずり込まれるかの様な感覚を得た。即座に腰の辺りを見る。村井が新谷の腰部ギリギリの所に陣取っていた。ちょうど水流が渦を巻いて推進力を産む位置である。逆に言えば、そこに居られると、新谷が受けるはずの推進力は、全て村井に持っていかれる。
新谷は、村井の着きを嫌って蛇行した。しかし、振り解こうとしてもピッタリと村井は腰に着いてくる。息継ぎ時の表情を見るに笑っている様にも見える。このまま新谷を消耗させて、最後に追い抜くつもりなのだろう。
ならばと新谷は、一度ほぼ永速を0まで落とした。村井が一瞬戸惑うのを見て一気に加速する。文字通り渾身の一撃だった。岸まであと数メートル。しかし村井も即座に反応し、新谷の足あたりからジワジワと前に上がってくる。
ほぼ横一線になった。水底に手がついた。新谷と村井が勢いを付けて水から顔を上げたのは同時だった。そこからゴールへ向けて、走っていく。最初は、水に足が取られぬ様、ハードルを越す様に腿を高く上げながら走り、段々と通常の走り方に近づいてくる。
残り数メートル。2人してゴールに頭から突っ込んだ。そのまま地面に仰向けに倒れて、天を仰ぎながら荒く息をつく。標高が高い為か、普段よりも息苦しい。最早息が切れすぎて、呼吸音がどちらのかもわからない。
そんな2人に降り注ぐ日光を遮る様に、伊南が顔を覗き込んできた。心底楽しそうに笑顔を浮かべている。
「今の1本、勝ったのは、晃だよ。お前ら2人は1番後ろ。2人してウロウロ蛇行するもんだから、集団が内側を真っ直ぐ追い抜いてってたぞ。」
お互いが、お互いを打ち負かすのに躍起になりすぎて集団の存在を忘れていた。実戦だったら終わりだ。しかし、新谷は練習をやり切れた達成感に自然と笑顔が浮かんだ。たまにはこんな練習も良い。他のメンバーも皆してこちらを見て笑っている。それぞれ肩で息をしていたが、皆表情は晴れやかだった。
おそらく、今自分と同じ様に仰向けで倒れているであろう村井も同じ表情をしているに違いない。最後の競り合い中、新谷が水中で盗み見た村井の表情は、ずっと笑顔だった。楽しくてたまらないといった様な、そんな表情だった。
新谷は、村井の認識を改めた。やはり彼にも隙はある。目の前の勝利なんかよりも、こんなに無駄で最高な勝負を嬉々として楽しんでしまうような、子供っぽさがあったのだ。
※スプリントディスタンス…スイム750m、バイク20km、ラン5kmで行われる短い規格のレース。オリンピックディスタンスよりもスピード感がある。
※エリートレース…いわゆるプロ選手などが出場するレース。
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