3-5「アスリートブルース・海老原颯人」



 有り得ない。信じられない。夢なら早く覚めてほしかった。高松大会のフィニッシュゲート裏アスリートラウンジで、海老原颯人は1人頭を抱えていた。


 先日の大阪城大会は、スイムで集団を逃し第4周団になってしまい、ランスタート時には先頭と実に4分近い差が開いていた。とても巻き返せる差ではなかった。しかしそれでも、海老原の持つ陸上出身者であるというプライドが何とか彼を走らせ、最終的に27位という順位でレースを終える事となった。あの時はデビュー戦という事で取材もそれなりの数来ていたが、皆一様に落胆した表情を浮かべ、当てが外れたと言うような表情をしていた。


「初めて試合に出て、トライアスロンのキツさや必要な力などが分かりました。完全にやられてしまいましたが、次勝てるようにさらに練習を積み上げていきます。」


 大阪城から帰って来てからも取材はいくつか受けたが、そのどれに向かっても海老原は同じような回答をすることしかできなかった。質問に答えるたびに自分の内が、がらんどうになっていくのが感じられる。発する言葉もまるで自分のもので無いようにさえ感じるようになった。


 そうして迎えた高松大会。大阪城大会からは2週間ほどしか期間が空いていなかった為、練習も調整程度のものしかできていない。しかし、大阪城でミスしたスイムに関しては、かなり入念な準備と警戒をして臨んでいた。


 その筈なのに。結果は21位。またもスイムで集団を逃し、得意のランを活かせなかった。


目の前に集団は居た。バイクに飛び乗った際、10メートルほど前に第2集団の最後尾の選手が居たのだ。集団にさえ入る事ができれば、バイクは格段に楽になる。僅か数秒間、全てをかけてペダルを踏み倒せばギリギリ届きそうな距離だった。

しかし、海老原はそこで一瞬躊躇ってしまった。今ここで脚を使って、得意のランが走れなくなったらどうしようという迷い。脳内に一瞬生まれたノイズが、海老原の生死を分けた。

瞬きする程度の一瞬。しかし、集団が加速するには十分な時間だった。


(あの一瞬がポイントだった。)


 振り返ってみるとその通りだった。結局、あのタイミングで海老原が逃した第2集団は、20名の大集団となりバイク終盤に第1集団に追いついた。そのまま一挙に大勢の選手がランスタート。優勝したのは第2集団から上がっていったニュージーランドの選手だった。

 

 海老原は、勝てなかった事による悔しさよりも後悔の念の方が強かった。あそこで追いついていれば、迷わず踏んでいたら、もし第1集団でランスタートしていたら。フィニッシュラインを超えて以降、ダムが決壊したのかのように止め処なく「もし、ああしていれば」という考えが溢れてくる。

 後悔先に立たずという言葉をこれほど恨めしく思うのも久しぶりだった。実業団駅伝部時代にレギュラー落ちした時以来、実に2、3年ぶりの感情だった。もし今、人生で一度だけ時間を巻き戻せる能力を手に入れたら、海老原は間違いなくバイクスタートのあの瞬間に戻る。それだけ後悔していた。


ゴール後、海老原は歩くのも億劫に感じる程疲労していたが、なんとかアスリートラウンジまで辿り着き、椅子に腰かけた。しかし、そこから動き出す気力が湧き上がって来ない。帰りの飛行機の時間までそう長くは無い筈だったが、片付けのために動く気にもなれない。体が重いというよりは、心が重い。ちょうど胸の辺りに鉛が入ったような感覚がする。質量なんてない筈の心に今は今はかなりの重さが生じている気分だった。

 拠点に戻れば、また取材がいくつか入る。この高松大会で夏前のレースは終わるという事を知らせているから、2戦終えての感想などを求められるだろう。「実際にやってみて、やはり厳しかったですか?」なんて聞いてくるに違いない。

 いや、そもそも取材自体無くなるかもしれない。ニュースとしてはあまりに面白味が無い。馴染みの記者も流石に記事には拾えないと言ってくるだろう。


(今日はもう、誰とも話す気になれない。)


 身体中を覆っていた疲労感も落ち着いてきて、海老原は一刻もはやくこの場を立ち去りたい衝動に駆られた。非常に惨めな気持ちだった。大口を叩き挑んだデビュー戦と続くレースでコテンパンにのされ、言い訳すらできないほどの圧倒的な差を見せつけられ一人項垂れている現状。アスリートラウンジ内にいる選手達の視線が自分を軽蔑しているのかのようにさえ感じられる。実際にそんな事は決して無いのだが、敗者ゆえの背徳感から来る弱気が、海老原にありもしない現実を感じさせていた。

 手早く荷物をまとめ、トランジッションエリアから自転車を引き取ると会場を後にした。途中、何人かの関係者に鉢合わせたが、軽く挨拶をするだけに留めた。うっかり話し込んで、今の自分の弱気具合を晒したくはなかった。


 しかし、こういう時に限って、逃げられない状況というのは訪れるものである。


 ホテルに戻り、預けていた荷物を受け取る為とロビーを通過しようとした時、背後から海老原の名を呼ぶ声がした。ふり返ると、ロビーのソファでコーヒーを片手に寛いでいる伊南がいた。言わずと知れたチームトライピースの監督兼コーチである。


(今一番会いたくない人に会ってしまった。)


 海老原はなるべくその感情を表に出さないようにして伊南に挨拶を返した。すると伊南がコーヒーを片手にソファから立ち上がってこちらに来るではないか。海老原は焦った。今は誰とも会話する気になれない。気付かぬふりをして急ぎエレベーターに乗ってしまおうかとも考えたが、荷物が多く自転車を担ぎ荷物を背負っているこの状況では、動く事さえままならない。結局、海老原は伊南がニコニコと笑いながらこちらに近づいて来るのを、処断が下るのを待つ罪人の様な気持ちで迎えるしかなかった。


「やあ、お疲れ様。キツイ展開だったね。」


 伊南は、開口一番に今、海老原が最も話題に上げて欲しくない話題を上げてきた。レース直後の会話としては、寧ろ当然の内容なのだが、今の海老原の精神にこの話題は辛かった。


「お疲れ様です。いや、バイクの乗り出しがポイントでした。失敗してしまいましたよ。アハハ…。」


 海老原は、この会話がなるべく長引かないようにする事、かつ自分の弱気を悟られないようにする為に答えを選びつつ、体の向きは進行方向を向けたまま話した。実際問題、荷物が多すぎて体の向きだけを変えるのは困難だった。

伊南が何を言ってくるのか、海老原は気が気でなかった。弱気から来る負の思い込みで、海老原は先程から周囲の人間皆が、自分に軽蔑の視線や侮蔑の感情を持っているような気がしてたまらなかった。今すぐにでもここから立ち去り、自分1人の空間に篭りたかった。そうでなければ、気が狂ってしまいそうだった。

海老原は、伊南がこの回答に満足し、特に何も言わないまま早々に自分を解放してくれる事を切に願った。しかし他方で、伊南が自分に対して、何か救いになるような言葉、労いの言葉をくれないものかとも願っていた。海老原は無意識の内に救いを求めていた。普段の彼なら絶対にそんな事は思わない。立て続けの完敗を経験した彼の精神状態は今、非常に不安定だった。

 そんな海老原に対して伊南がかけた言葉は、海老原の予想の遥か斜め上を行く内容だった。


「7月の終わりから合宿をやるんだ。うちのチーム以外にも色んな選手が集まる予定だよ。ABCドリンクの村井とか、西関東住建の大室と西国運輸の木原はチーム総出で来るんじゃなかったっけな。全部で選手は10人くらいになるはず。期間とかは、また仁志から連絡させるから。もしよかったら参加してくれないかな。それじゃあ。」


 そう一気に言うと、予想外の返答に呆気に取られる海老原を1人置いて、足早にロビーを去って行ってしまった。帰り際に彼がゴミ箱へ捨てたコーヒーのカップには、海老原が来てから一度も口をつけていないにも関わらず中身が入っていなかった。そう言えば、伊南を始めとするチームトライピースの面々が泊まっていたのは、このホテルじゃなかったはずだ。


 海老原は、立ち去る伊南の背中を、彼がホテルを出て停めてあった車に乗り込むまでずっと観ていた。

 この召集の意味を何ととるか。伊南の真意を海老原は推し量る事はできなかった。しかし、間違いなく言えることが一つだけある。


(選手として認めてくれている。)


 もっとしっかりしろと言う叱咤なのか、単に海老原のランニング能力を求めてのことなのか、真意の程はわからないが、間違いなく海老原にとってこれはチャンスであった。もう、なり振りを構ってなんかはいられない。この合宿で、彼ら国内トップ選手達から引き出せるだけの事を引き出し、かつ海老原自身の走力の高さも見せつける。


(周りの目なんか知った事か。走るのは周りの評価じゃ無くて、俺自身だ。どう魅せたいかも大事だけど、今は、今だけはどうありたいか。どうなりたいかだ。変なプライドなんか捨てて、合宿に臨もう。)


 海老原はエレベーターの前まで行き、上向きの矢印を押した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る