3-4 「be strong!!・八木晃」



 大阪城大会から2週間後の7月初頭、香川県高松市の高松駅前。この週末は、この地でトライアスロン国際レースが開催される事となっていた。カテゴリーは1番下部。日本のエリートトライアスリート達は、大阪城大会同様、ポイント獲得の為にほぼフルメンバーの参加が決定していた。


 現在の日本トライアスロン界を牽引する選手達が、この高松の地に集結していると大会MCが興奮気味に捲し立てている。レースナンバーの若い方から、有力選手の戦績やレーススタイルを紹介し始めた。


 会場のテンションを盛り上げようと1人奮闘するMCの声をBGMに、八木晃は黙々とトランジッションエリアに機材をセットしていた。バイクのギア比を合わせ、ペダルにシューズを嵌めて輪ゴムでフレームに固定し、ヘルメットとサングラスを装着しやすいようにハンドルに置く。ランニングシューズには、足が抵抗無くすぐに入るようにとマメ防止のためにベビーパウダーをまぶした。


 そこまでセットして、八木は一度トランジションエリアの入り口まで移動する。そこからスイム終了後を予想して自分のバイクまで走って行き、ヘルメット、サングラスを装着する。それを難度か繰り返しながら、ヘルメットを置く位置やストラップの角度などを微妙に調整していく。


『…学生の中では、レースナンバー8番の八木選手が注目ですね。直前の大阪城大会は8位。スイムから先行してレースを引っ張っていくスイマータイプの選手です。学生最強との呼び声高く、あの村井選手でさえスイムを彼の前で上がったことが殆どないとかで…』


 場内放送で、MCが八木の事を紹介し始めた。八木は、自分が有力選手として紹介される事に若干の気恥ずかしさを覚えていた。すると、そんな八木の背後から突然声をかけてくる者があった。


「晃くん。紹介されてんじゃん。」


「海老原さん!おはようございます!」


 海老原颯人が声をかけてきた。横浜大会で伊南が声をかけて以降、何度かトライピースの練習に参加してきていた縁で、八木は彼とそれなりに親しい。こうして声をかけてきてくれるのは、単純に嬉しかった。


「有力選手って、これじゃ晃くんファンがもっと増えちゃうね。レース後にキャーッて。」


 海老原は、声を裏返して黄色い声援の真似事をして見せた。八木から見ると割と歳が離れているが、こういう親しみ易さがあるお陰で、話しをするようになるまでそう時間は掛らなかった。彼には人を惹き付ける力がある。


「海老原さんも紹介されてたじゃあないですか。『新進気鋭の元陸上選手、トライアスロンに参戦!』って。」


 八木の言葉に海老原は苦笑した。てっきり陸上選手時代には、今以上にこのような言葉を掛けられる機会は多かいものなのだと八木は思っていたが、どうやらそういう訳でも無いらしい。気恥ずかしさというか、後ろめたさのような物が感じられた。


 「まだ結果を残せてないのにそこまで言われてもな。この前の大阪城も散々だったしね。そういう意味では今日挽回しないと。じゃ、お互い頑張ろーね。」


 そう言って海老原は、ヒラヒラと背中越しに手を振りながら、自分のセッティングを済ませる為にトランジッションエリアの奥へと姿を消した。それを見届けると八木も最後にもう一度だけヘルメットを置く角度を確認して、ウォーミングアップの続きをする為にその場を後にした。


 高松大会は、高松駅周辺を利用して開催される。泳ぐ場所や、バイクコース確保の為に比較的郊外で開かれる事が多いトライアスロンの大会としては、駅の殆ど目の前をコースとして利用する事ができる特殊な大会だった。それだけに、横浜や大阪城大会同様、トライアスロン関係者以外の観戦も多い。スタート前にも関わらず、会場内は既に人が多く、選手のテンションも自然と高まってきていた。


 八木は、アスリートラウンジ(選手控え室)にてスイムウォーミングアップをする為の水着に着替えていた。スイムウォーミングアップが終了すると、殆ど間をおかずにレーススタートとなる。その為、選手によっては実際にレースで使用するレースウェアを着てウォーミングアップを行い、そのまま着替えずにスタートをする選手もいた。しかし八木は、たとえ数分でも濡れたレースウェアで待機するのが嫌で、必ず水着に着替えてウォーミングアップをするようにしていた。


 スタート時間が近づいてきた事でアスリートラウンジにも選手が増えてきた。八木は早々に水着へ着替え終わったが、まだスイムウォーミングアップ開始までには時間があった(スイムのみライフセーバーの配置の関係で、どの大会でもウォーミングアップ可能時間が決められている。)。その為、ベンチに腰掛けストレッチをしながら周囲の選手達の様子を伺ってみた。


 明かに緊張して落ち着きの無い選手。逆にいつもと全く変わらずに飄々とした態度で関係者と挨拶を交わす選手。瞑想をする選手。やたらと時間をかけてエネルギーゼリーを飲む選手。談笑する選手。ヘッドフォンを着け黙々とストレッチをする選手。などなど過ごし方は実に様々だった。

 

 八木は、スタート前のこのひと時、周囲の選手を観察するのが好きだった。極限の緊張状態にあると、人はその内面が行動として表に出やすいというような事をかつて聞いた事がある。高校の授業だっただろうか。それ以来、よくよく選手達を観察するようになったのだが、これが意外と面白い。「レース前」という状況に対する緊張をどの選手も感じているが故に、その日の目標であったり、調子や気持ちの入り方などが行動に表れているようで観ていて飽きなかった。


 手に取るようにとまでは行かないが、かなり高い精度でその選手の内面を見透す事ができていると、八木は自負していた。しかもただ遊んでいるだけではない。ここで得た情報は、レース中にその選手と競り合うような事があったときに必ず武器になる。そうやって、八木は今まで何度かライバルを打ち負かしてきた。


 しかし、そんな八木にも心の内を推し量れない選手がいる。朝川仁志である。ちょうど今、アスリートラウンジに伊南を連れ立って入って来た。


 チームトライピースの先輩選手であり、おそらく八木が今まで関わってきたどの選手よりも深く関わってきた選手。1番身近にある筈のこの選手の事を八木は全く理解できなかった。


「おはようございます。」


 八木は、伊南と朝川に挨拶をした。2人ともこちらに気が付き、手を振って挨拶を返してくれる。そのまま朝川は荷物を置き、伊南と何やら話し込みながらストレッチを始めた。


 わからない。他の選手であれば動作の端々に出てくる筈の心の揺らぎというか、落ち着きなさが朝川には全くなかった。この揺らぎは、あの村井勇利にさえあったのを八木は確認している。現日本チャンピオンにさえあったその揺らぎが、朝川には全くないのだ。


 ベテラン故の経験値。


 八木は最初、朝川の心の内を推し量れない理由をそう推測した。つまりは、レースという本来であれば「非日常」である筈の状況が、あまりにも多くの場数を踏んで来た結果、「日常」と変わらないところまで昇華されてしまったのではないかと考えたのだ。


 そう思い、朝川にレース前の心境について尋ねた事があった。しかし、朝川は未だにレース前は緊張するし、逃げ出したくなるような気持ちになる事も多いという。


 八木はそれを聞き、当てが外れたという思いと同時に朝川ほどの選手でも緊張をするという事実に驚いた。しかし、それでは尚の事、動作に揺らぎが出ないのはおかしい。だが、朝川が次いで言った言葉に、八木はその理由をみた気がした。


「緊張もするし、逃げたくもなるよ。でもさ、俺は好きなことやって、目指したい場所目指して、それでお金貰うって普通の人じゃ経験できない事をやってる。それって物凄く楽しい事だと思うし、ワクワクする事だと思う。毎回毎回のレースがそれに繋がっていると思うと、緊張もするけど、何というか…うーん…。それ以上に楽しみな気持ちというか…、覚悟?みたいなのができるというか…。ゴメン。でもまあ、緊張しないわけじゃないんだ。」


 緊張はすると言う、逃げ出したくもなると言う。しかし、それ以上に楽しみが勝ると言う。八木も緊張はする。スタート前になると、逃げ出したくなると言うのもわかる。しかし、楽しさは感じない。そこが朝川が八木や他の選手達と違うところなのかもしれなかった。


 そして朝川は「覚悟」と言った。「楽しみ」なのに「覚悟」。朝川は決して、圧倒的に強い選手では無かった。練習で八木が勝つことなんて良くある。しかしそれでも、レースで朝川に勝てたことは一度も無い。レース中の朝川には、まるで超重量の鈍器を力任せに振り回している様な近寄り難さと恐ろしさ、そして底知れぬパワーがあった。一度近付けば、その温和な笑顔のままに、脳天から力任せに叩き潰してくるであろう理不尽さと容赦の無さがあった。


 おそらくあれが朝川の正体である。笑顔で超重量の鈍器を振り回し、自分の腕が引き千切れようと関係なく突き進み続ける。そして、その狂気と快楽に身を委ね、幾多の屍を積み上げる事になろうとも、決して歩みを止めるつもりは無いという「覚悟」。


 そしてその覚悟の出所は、常日頃から彼が口にしている言葉、「夢」。


 彼はいつも言っている。技術も体力も全てを出し尽くしても、ゴール前競り合う選手がいる。とてつも無く苦しい練習、手も足も動かなくなり、身体から警告が出てくる。しかし最後の最後、後一歩そこのラインを超える事ができれば、既存の自分を超える事ができる。さらに一歩、強くなる事ができる。そしてその一歩を踏み出す原動力こそが、狂おしい程に「夢」の実現を求める心だと。


 それら全てを一緒くたに呑み込んで、朝川はあそこに立っている。全てを賭けて全てを手に入れる為に。あの動じ無い様は、そう言った覚悟があるが故に成り立っている。言い換えれば、八木も「覚悟」さえあれば、あの位置に立つ事ができる。しかし、


(夢、か…。)


 1月に大学の友人である赤松博人と東臣人と交わした会話が蘇る。八木はまだ、競技を通して実現したい事が明確になっていなかった。しかし、だからこそ思う。


(今はただ、勝ちたい。自分の前を行く選手が居なくなるように。「夢」や「目標」があれば、朝川さんのところまで上がれるというのなら、仮初めだろうと何でもいい。それさえあれば勝てる。なんでもいい。今はただ、あの人に勝ちたい。)


 選手のスイムウォーミングアップが始まり、レーススタート時間までいよいよあと僅かとなって来た。高まってくる会場の盛り上がりを煽るように、会場MCが選手情報と見所を捲し立てる。7月の高松駅前は、太陽の容赦無い照りつけを受けて、気温も既に最高潮だ。スタートまでいよいよ10分を切った。


 今日は着替える必要はなかったかも知れないと八木は思った。身体の中、ちょうど心臓の辺りが熱く燃え上がっているのを感じる。水に濡れようが風に吹かれようが、決して消える事は無さそうな「炎」だった。

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