3-3 「有象無象・朝川仁志」
大阪城大会当日。午前6時現在での気温は27度。どんよりとした空からは、小雨がぱらついていた。
コンディション的にはあまり良くない。小雨により大阪城公園内のバイクコースは滑りやすくなっており、ただでさえテクニカルなコースの難易度を余計に引き上げていた。さらに気温と湿度である。本日はスタート時刻の10時へ向けてさらに気温が上がり、最高気温は30度にまでなる予報だ。そこに小雨が降り続けるものだから、湿度は非常に高い。熱中症と脱水症状には細心の注意を払わなければならない。レースの緊張のまま突っ走ると気づいた時には倒れていたなんて事も有り得る。レース中の水分補給の良し悪しで、十分結果が左右するコンディションだった。
そんな空模様をホテルの窓から確認した朝川仁志は、毎朝の習慣である深呼吸で大きく吸った息をそのまま盛大な溜息として吐き出した。幸せが来週の分まで逃げていきそうだ。ゴッドブレスミー。クシャミじゃないけど。
そのまま洗面台に行き冷水で顔を洗い強制的に眠気を洗い落とした。毎朝のルーティーンである。これで朝川仁志のスイッチは入る。嘆いても仕方ない、今までの競技生活でもっと酷い事だっていくらでもあった。大丈夫だ。髭を剃るついでに、鏡の中からこちらを見つめる自分の像に向かって励ましの言葉をかけた。だからまあ、頑張れ。
パチンッと電気ポッドのスイッチが上がる音がして、湯が湧き上がる。持参したカップにフィルターをつけてコーヒーを抽出する。レースの日の朝に飲むコーヒーの飲み方にはこだわりがあった。普段、家で飲んでいるのと同じものを同じカップで同じように抽出して飲む。毎朝のルーティーン。毎朝同じ様に自分にスイッチを入れて、気持ちを競技をするための臨戦態勢にまで持っていくための作業。それは最早、飽きだとか退屈だとかいう感覚を超越し、一種の祈りに近いものがあった。
いつも通りの抽出を終え、朝川はコーヒーを飲み始める。それと同時にスマートフォンから音楽を流し始める。若い頃は、レース・練習前に聴く曲といえばアップテンポな応援ソングばかりだったが、最近は歌詞の入っていないローテンポなジャズにハマっていた。
ゆったりとした曲調に合わせて、ストレッチを始めた。たまにコーヒーを啜りながら、足から股関節、腰、肩と最初は狭く弱目に、次第に可動域を広くしながら身体の隅々にまで起動準備の合図を送っていった。
ちょうど最後の種目が終わった時、部屋の戸をノックする音が聞こえた。「開いてるよ」と朝川が声をかけると、チームジャージを着た瀬波が入ってきた。
「おはようございます。朝川さん。ストレッチ、大丈夫ですか。」
「グッドタイミング。ちょうど今終わったところ。2人組のストレッチ、お願いします。」
昨晩のうちに新谷は、瀬波に補助付きのストレッチを頼んでいた。瀬波は部屋の中まで入ってくると、朝川の要望に合わせて丁寧に彼の身体を伸ばし始めた。
「雨、降っちゃいましたね。」
瀬波が朝川の補助をしながら窓の外を見ていう。
「そうだなぁ。バイクのペースは落ちるかもな。」
「落車も起きそうですね。」
「馬場の奴、転けないといいけどな。」
時折雑談を交わしながら、体全体を解し終える。朝川は、身体の芯から隅々にまで血が行き渡っているのを感じた。準備は万端だ。
「瀬波、ありがとう。それじゃ予定通りアップ始めるから。また会場で。今日もサポートよろしくな。」
「はい!よろしくお願いします!」
朝川はここ数年、スタート前のウォーミングアップは、時間ギリギリで終わる様にしていた。理由の一つが、気持ちが逸ってあまりに早く終わらせてしまうとスタート迄に体が冷えてしまう事。もう一つは理由というよりも、数多くのレースを経験してきたことにより、焦らずに時間ピッタリに終わらせる術を身に付けられたからだった。
出走チェック、トランジッションエリアの準備、スイムのウォーミングアップの時間など、公式スケジュールにより、時間が指定されているものがある。そしてそれらは、大会スケジュールの遅れだったり、選手が殺到して並んでしまっていたり等、大抵の場合時間通りに進まない事が多い。朝川も昔はそれらの遅れを見越して、早めにウォーミングアップが終わる様にしていた。
しかしここ数年になって、感覚的にその辺りを調整する事ができる様になり、スタート前に手持ち無沙汰になるという事がなくなっていた。ベテランであるが故の強みだろう。
今日も朝川は、ほぼ時間ピッタリにやりたい事を全て済ませた上でウォーミングアップを終了させていた。審判員の入場が終わり、選手の点呼が始まった。朝川のレースナンバーは3番。ほぼ待つ事なく名前を呼ばれ、軽く手を挙げると、スタートライン前に入場した。
スタート直後の状況を一言で表すのなら、正に「カオス」だった。
この大阪城大会は、国際レースの中でも1番下部のカテゴリーに当たる。トップカテゴリーに出場するには、ここから勝ち上がって世界ランキングを上げていかなければならない。その為、大抵の場合このカテゴリーのレースは、まるで蠱毒の様に、ポイントを求めて血眼になった選手達が互いを潰し合う場となっていた。そういった有象無象の中で、自分自身の存在を証明できた者だけが次のカテゴリーへと駒を進める事ができる。
今回のレースも正にそれだった。大阪城の濠に蠢くこの有象無象の中を生き抜いて、選手として名を馳せんとする者達が一斉に第1ブイを目指す。故意に接触をする事はペナルティーの対象だ。悪質なものの場合失格となる。しかし、狭いコースに大勢が殺到するので、当然接触は起き、カオスがうまれる。
朝川は、スイムのスタートダッシュはあまり得意では無かった。短いスピードが無いのだ。その為いつも一歩遅れてのスタートとなる。今回は、その弱点が命取りとなった。集団から抜け出る事ができず、有象無象が跋扈するカオスの中に呑み込まれる。ストロークをする度に誰かの体に腕が当たる。腕を回そうにも必ずそこに誰かがいる。不規則に舞う水飛沫のせいで息継ぎもまともに出来ない。スタート直後にして、万事休すかと思われた。
そこにきて朝川は、スタート後初めて水面から顔を上げ、前方を確認した。左斜め前方にスペースを確認した。朝川はそこに活路を見出した。腕の回転を一気に上げ、そのスペースに滑り込む。序盤にしてかなり疲弊してしまう行動だったが、これが功を奏したのか、最終的にスイムは、先頭から4秒遅れの6位で終了する事ができた。
今朝方から降り続く小雨は、遂にレースが始まっても止む事はなかった。しかし、小雨は摂氏30度に届かんとする気温を受けて、水溜りを作るには至らず、僅かにアスファルトを湿らす程度に留まっていた。
それが、逆にコースの難易度を底上げしていた。なぜかは分からないが、雨というのは降っている最中よりも、降り始め、振り終わりの地面が薄く湿っている時の方が良く滑ると言われる。それが物理的要因なのか、それとも心理的要因によるものなのかはわからない。しかし、本日の大阪城公園の路面は、その定義に対して正にベストマッチする状況であった。
朝川はバイクに飛び乗ると、ペダルに固定したバイクシューズには足を通さず、上から踏みつけ、そのままペダルを漕ぎ出した。すぐに前を行くニュージーランドのスミスに追いつく。そのままスミスの後ろに着きながら、大阪城公園内のテクニカルなコースを走っていく。次々と訪れるコーナーに、スタート直後のハイペースと湿った路面の影響で、なかなかバイクシューズを履く隙がない。結局公園から隣接する道路に出ていくまで、朝川はシューズを履かぬままペダルを踏み続けた。
道路に出て道幅も広くなった事で、集団がまとまってきた。朝川は集団内を見渡し面子を確認する。朝川と彼の予想通りスイムを先頭で上がった八木、それに続いた村井、横浜大会に出場していた西関東住建の大室、西国運輸の木原に加えて、ニュージーランドのスミスとオーストラリアのウィルソンを交えた計7名が先頭集団としてこの場に残っていた。その後ろにもチラホラと先頭集団入りを目指す選手が、必死にペダルを踏む様相が見て取れたが、とても追いついてこれるよな差では無かった。
朝川は取り敢えず無事に先頭集団に入る事ができ、安堵した。今日のこの展開で第二集団以降になってしまうと、朝川に勝ち筋は殆ど残されない様に思う。スイムの出だしでのカオスの事もあり、一安心といったところだった。ここから次の展開へ向けてレースを組み上げていく必要があった。おそらく先頭集団はこのまま後続を引き離す方向で動くだろう。協調体制がとれ、ペースも安定する筈だと、朝川は読んだ。
朝川の読みは、大方当たった。しかし、予想外の事も当然起こった。大阪城公園内のテクニカル区間。そこが想像以上に滑ったのだ。朝川は最初、コーナーで車体を倒した時に後輪が横滑りした。その後、速度を上げるために腰を浮かせて立ち漕ぎをした際に、急加速する後輪に対して濡れた路面の摩擦抵抗が足りなくなり、後輪が空転した。しかし、そこまでなら晴れた日でもよくある事なので、落車の恐れを感じるほどでは無かった。
しかし、今回のコースの中で一番キツイ公園内の約120度のコーナーの際、僅かだが前輪が横滑りした。後輪と違い前輪は、僅かなスリップが起きるだけで簡単に制御が失われ落車に繋がる。朝川だけでは無い、集団内の多くの選手がそのコーナーで一瞬バイクの制御を失った。落車への恐怖が集団内を覆う。
途端に集団のコーナー進入速度が落ちた。コーナーの度に集団後方はブレーキをかける事を強いられる。それが予想外に足へのダメージになった。
集団の後ろにいればいるほど、前走者の減速によって、ほぼ停止の速度までブレーキをかける必要があった。そうなれば速度回復の為に、集団前方の人間よりも余計にペダルを踏まなければならない。先頭集団にいる選手達は、皆がその事を即座に理解した。その為、コーナー毎に僅かだが位置取り争いが勃発した。
ニュージーランドのスミスと村井は上手い。気付くと無駄無くスゥッと集団前方を陣取っている。苦戦していたのは八木だった。圧倒的に経験値が足りない。レースという極限の緊張下で、普段とは違う新たな緊張を強いられる。その為後半に向けて、段々とコーナリングが雑になっていた。転ぶ事はなさそうだが、速度回復などで、圧倒的に無駄な脚を使っている。
しかし、朝川にもそれを八木に直接指摘するほどの心理的余裕は無かった。集団内では、無言の位置争いが幾度と無く繰り返された。後半に入り、周回を重ねる毎にコース脇に肩や肘や膝など体の至る所に傷を負った選手たちが座り込んでいる光景を見かける様になった。おそらくは、滑るバイクを御しきれず落車してしまった選手達だろう。彼らは皆、傷の痛々しさに加えて、レースリタイアに対する悲壮感がその丸まった背から漂っており、朝川は目を背けた。あの負の気に今当てられてしまっては、勝負所を逃す可能性がある。いつでも仕掛けられる緊張感を崩さぬ為に、朝川は負の気を纏う選手達を視界から外した。バイクは終盤。ランに向けての位置取りが始まっていた。
ランは、村井が先頭でスタートを切った。次いでスミス、朝川だ。バイクの時点で位置取り争いにも余裕が感じられていた3選手だが、ランスタートと同時に最初の仕掛けが入った。このスタートダッシュによって、先頭はこの3名に絞られた。
朝川は、ここ数回村井に勝利ができていない。苦手意識はないが、ランに入ると彼の背中を見ている記憶しかない。なんとしても今日、勝ちたかった。ラン中盤に入っても3人団子状態は変わらずレースが進んでいる。朝川にとっては絶好のチャンスだった。スミスの息は荒く、ギリギリついてきている印象だ。ほんの少しペースを上げれば千切ることができる。問題は村井の状態であった。相変わらずのポーカーフェイスで苦しそうな印象が全くない。しかし、朝川は知っていた。村井は顔に出さないだけで、割と自分たちと同じように苦しさを感じている事を。何回かこうして走るうちに決して楽なわけではないらしいということに気付いていた。そうでなければ、彼は今頃世界チャンピオンにだって余裕でなれている筈だ。しかし、そうでないという事は、この状況で村井が朝川と同じように苦しさを感じている事への何よりもの証明だった。
脚を止めるわけにはいかない、朝川はもう終わった選手だと言う言葉を耳にするようになった。それを聞いて、自分のファン達が悲しんでいるのも知っている。引退の件は公表していない。自分は、そう言う姿を見せたいわけではないのだ。今までと同じように、足掻いて踠いて苦しんで、全てを出し尽くして勝利を目指す。その姿のまま最後のレースを迎えたい。
これは、朝川のファンや支えてくれた人々に対する礼儀でもあった。彼ら彼女らは、自分が勇退に向けて身辺整理していく様を観たいわけではないだろうし、朝川も見せたくはなかった。朝川の今までの戦い方を気に入り、応援を続けてきてくれた者達だ。だからこそ朝川は、最後まで選手としての姿を見せたいと思ったし、そうするべきだと考えていた。
だからこそ、日本選手権でと言わず、今勝ちたい。勝たなければならない。その思いをそのまま脚に込める力に変えて、朝川は思い切り地面を蹴った。
レースは終盤、1番最初に朝川がスパートを仕掛けた。
荷物を車に積んで、朝川は天を仰いだ。雨は上がったが、相変わらずどんよりとした空模様だ。気温も高く、荷物を積んだだけで汗をかいた。首にかけたタオルで汗を拭い、視線をそのまま大阪城の方へ向ける。天守閣が灰色の空の下でその威厳を示すかのように堂々と鎮座している。
「朝川さーん!全部積み終りました!帰りましょー!」
八木が車のトランクを閉めて、こちらに声をかけてきた。
「おう!わかった!行こう!」
朝川は、本日の戦場跡から目を移し、車の方へ歩いて行った。
大阪城大会は、優勝は村井。朝川は2位。
朝川の勝利は、次回までお預けとなった。
(まだまだ強くならないといけないな。)
終わりに向けて走るのでは無く、勝利に向けて走る。朝川の目に、希望の光は絶えていなかった。
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