3-2 「あの虹を目指して・村井勇利」



 6月中旬。大阪はこの梅雨特有の湿気を帯びた大気に、ドンヨリとした曇り空が広がっていた。


 大阪城公園にて翌日のレースのコースを下見していた村井勇利は、ジョグを中断して大阪城の天守閣を見上げる。厚い雲に向かってそびえ立つそれは、まるで落ちてくる天を支えているかのように、力強く堂々とした印象を受けた。


 村井は、額に流れる汗を手の甲で拭った。大した強度で走っていないにも関わらず、既に汗まみれだった。着ていたランニングシャツは汗を吸いきってしまっており、肌にじっとりとまとわりつく様な感覚に村井は顔をしかめた。不快度指数が高まっていく。


 明日開かれる大阪城大会は、3つあるカテゴリーのうち1番下に当たるレースだ。誰でも出場できるが故に、村井のレベルからしてみれば優勝しても獲得できるポイントは微々たるものだった。しかし、それでも村井が今回このレースに出る理由、それは他でも無く「日本で行われる国際レースだから」これに尽きていた。


 日本国内のレースで海外勢相手結果を出せば、メディアには掲載されるかもしれない。そうすれば、海外のどんなに大きなレースで勝ってメディアに取り上げられないよりも、大きな宣伝効果がある。ましてや、村井はABCドリンクの広告塔だ。この選択をしない訳がなかった。


 単純にポイントやハイレベルなレース経験を積むためだったら、本日だいたい地球の裏側に当たるカナダ・モントリオールでシリーズレースがある。そちらに出るべきだった。現にフリーの新谷丈は、そちらに出ていた筈だった。彼はおそらくハイレベルなレース経験を積むことが目的だろう。とてもじゃ無いが、まだシリーズ戦で結果をのっこせる様な力は無い。


 しかし、と村井は思う。新谷は村井の1学年歳上で、村井は学生時代から彼のことを知っていた。学生選手権などでは、何度もレース終盤にマッチアップしたことがあった。その頃から村井の方が実力的には勝っていたのだが、実は何度か負けた事がある。普段は恐ろしさなど微塵も感じない選手なのだが、時たま、まるで人が変わったのかの様に、そのレースの出場者、観客全てを圧倒する存在感と力を爆発させることがあった。一発屋、と彼の事を揶揄する声もあるが、村井は未だに同じレースになると意識してしまう相手の1人だった。それだけに、今回ももしかしたら何かをやり遂げて来てしまうかもしれない。


 そんな彼が今回は大阪城ではなく、カナダにいる。スタートは日本時間で明日の朝4時だった筈だ。


 しかし、村井としても、普段は海外を転戦してばかりなだけに、こういった日本のファンの前で走る機会は可能な限り逃したくなかった


 応援は力になる。何よりもそういったファンの前で走る事は楽しい。この楽しさは、村井にとっての原点だった。ダニエルに言われた言葉が村井の脳裏に蘇る。この楽しさを忘れてしまってはいけない。


 手元の腕時計を見ると午前8時を指していた。そろそろホテルに戻らないと朝食の時間が終わってしまう。村井は天守閣と反対の方向へ進路を変えて、ホテルへの道を急いだ。





 午後3時。大阪城から程近い貸しホールで、有力選手の記者会見が行われていた。男女それぞれ3名ずつ。男子は村井の他に、トライピースの朝川仁志とニュージーランドのスミスが登壇していた。


 断続的に焚かれるカメラのフラッシュを前にしながら、各選手記者の質問に答えていく。全国紙1社と地元紙が3社。流石大阪なだけあって、国内の他のレースよりもメディアが多かった。


「村井選手に質問です。ここのところ、シリーズレースでは勝ち上がれない状況が続いていますが、調子の方はいかがでしょうか。」


 全国紙の記者だった。毎回国内のレースに取材に来てくれる会社だ。それだけに、こういった少し踏み込んだ内容を質問してくる。村井は務めてにこやかに、表情を作ることを心がけて質問に答えた。


「はい。確かに勝ち上がれていないのは事実です。しかし、昨年と比べれば少しずつ前進していますし、昨年ほど周りの選手に遅れを取っている感じもありません。シリーズレースは世界トップ選手の集まる場です。調子自体も上がって来ていますし、この程度で、膝を折るわけにはいきません。」


 記者は、望みの回答が得られたのかどうか、村井からはよくわからない表情で質問を終えた。おそらくは、厳しいです。辛いです。それでも頑張ります。と言った美談めいた回答を期待していたのだろう。村井にそんな思いはない。自分は確実に成長している。確固たる自信があった。


 別に村井は、満点の回答がわかったとしてもそれを言うつもりはなかった。もう忖度はしない。自分の思うように競技を楽しんでみようと、異国の地で心に決めたばかりだった。ホールの端で坪井が苦い顔をしているのが見えたが、無視した。


「らしくも無くハッキリとした物言いだったじゃないか。」


 記者会見後、競技説明会開始を待つ間、会場内の椅子に座って時間を潰していた村井の隣に朝川が座って来た。


「大丈夫だったのか?坪井さん、奥で苦笑いだったぜ。」


「大丈夫です。発言に関して、特に何の指示も出ていなかったので。」


 村井は朝川の問いに対して、毅然とした態度で答えた。それを見て、朝川は心底面白そうに笑顔で肩を揺らしている。


「あっはっはっはっは!勇利も言うようになったな!」


 村井の隣で隣で豪快に笑う朝川。彼のその姿を見て、村井は何と無く彼の性格が変わって来ているような気がした。以前から笑顔の絶えない方ではあったが、こんなに開けっぴろげに笑う方ではなかった筈だ。


「朝川さん、調子良さそうですね。」


 おそらくそう言うことだろうと思った。


 二人が雑談している間に、会場内にも人が集まり出していた。今回は国際レースで、海外からの参加者もいるとはいえ、圧倒的に日本からの参加者の数が多い。良く見知った顔から、今年エリートに上がって来たばかりの新顔まで、色々な選手がいた。


「まるで日本選手権だな。」


 朝川がポツリと呟いた。確かに、日本の有力選手は全員いる。昨年の日本選手権の上位10名は、新谷以外揃っていた。


「確かあの方も出られますよね。駅伝から来たって言う方。」


「ああ。海老原君な。たまにうちのチームに練習来てるよ。」


 海老原颯人。と朝川が名前の出てこなかった村井にフルネームを教えてくれた。駅伝出身者なだけあり、ランは全く敵わないと言う。


「ラン勝負はしたくないね。バイクまでに切り離さないと。ただ、バイクとスイムはそこまで強力じゃない。実戦経験がないから何ともいえないけど、少なくとも第1集団に着いてくる感じではないかな。」


 共に練習経験のある朝川が彼の能力を評価した。ランさえ走らせなければ脅威ではないらしい。だとすると、スイム、バイクで下手に後ろを待つような事はできない。変に集団を大きくしようとすると、海老原のようなランナーまで拾ってしまう可能性がある。


「だとすると先頭集団は、速い人だけで行きたいですね。スイムから上げていかないと。」


「その辺は大丈夫だと思うよ。うちの晃がガンガン行くはずだから。アイツ、スイム得意だし、多分戦略とか関係無しに上げてくると思う。」


 村井の言葉に、朝川がチームメイトの八木晃の名前を挙げて答えた。彼は高校時代、競泳でインターハイに出場した事があるらしい。しかも、決勝まであと一歩だったようである。トライアスロンに転向して来てからも、彼がスイムを誰かの後ろで上がる事は殆どなかった。


「そうなると、後は何人それに着いてくるかですね。」


 村井にはそこが重要だった。


 大阪城大会は、バイクコースが大阪城公園内と周辺道路を組み合わせて作られており、非常にテクニカルな事で有名だった。道幅も広く無く、大集団では小回りが効かなくなりペースが落ちる。少人数の集団の方が遥かに有利なコースだった。


「勇利、大室、馬場…はギリギリだなぁ。後は俺と木原。」


 朝川が西国運輸の実業団トライアスリート、木原尚紀の名前を挙げた。今年31歳のベテランと言っていい年齢だが、タイトル獲得や目立った成績がなく、いつも5、6位辺りにいる選手だった。ほぼ確実に先頭集団に残るのだが、村井にはあまり印象の無い選手だった。


「あとは、学生の蜂須賀っていうのも最近速いですよ。あとはチームアインズの石上さん。」


 村井は、朝川の予想に2名の選手の名を加えた。最近国内レースなどで第一集団に入ることが多い。両名共競泳選手あがりなため、村井は少し気にしていた。


「そこに海外勢が入ってってなると…10人くらいになっちゃうのか。」


「8人か…6人くらいまで減らしたいですね。」


「そうなると俺も第一集団が厳しくなりそうだな…。」


「それは無いですよ。朝川さん。」


 村井は朝川と話をしながら、自分の気持ちが盛り上がっていくのを感じた。やはりレースは良い。毎回毎回レースに入れば、余計な事を考えずにそれだけに集中ができる。煩わしい事が全て除外できた。


 以前として、村井は坪井と意見をすり合わせる事が出来ずにいた。流石にシーズンに入ったため、坪井も何から何まで話を受けるような事はしなくなったが、それでも村井に事前の確認無しに仕事を受けて来たりと、改善されている事はなかった。


 しかし、アブダビの地でダニエルがくれた心強い申し出のお陰で、村井の心はだいぶ楽になっていた。いざとなれば彼にお願いして受け入れてもらえる。そう思えるだけでだいぶ楽だった。


 こう言った立場である以上、真に自由な行動などできないのかもしれない。いや、この世の誰もが、皆何かしらの縛りの下で行動している。しかしながら、その縛りがあるからこそ、村井は会社から活動費と給料を貰えているし、引退後も保証されている。


 そういう事なのだ。結局全てはそういう風に出来ているのだ。自分はそう言ったものに対する対価として、無制限の自由を差し出した。しかしだからと言って行動全てが制限されるわけでは無い。少なくとも競技だけは、泳いで漕いで走るという事だけは、村井が勝ち取った自由だった。


 自由の中にしか楽しみは存在しない訳では無い。寧ろ今の村井のように、競技以外の保証と引き換えに自由の一部を差し出したからこそ、謳歌できる楽しみというものは存在する。ダニエルはきっと、こういう事を言いたかったのではないだろうか。


 今もおそらく地球の裏側で指導に精を出す彼を想い、そう考えた。


 だとすれば、村井のする事は一つである。


(明日は勝つ。その先も勝つ。誰にも侵されない競技という自由を持ってして、俺は自分のもつ自由の価値を証明していく。)


 そしておそらくそれは、この先の更なる待遇改善に繋がってくる。そう思うと、村井は楽しくて仕方のない気持ちになって来た。


 時間になり、競技説明会が始まる。スクリーンに映し出される競技規則を観ながら、村井は静かに拳を握った。


 輝ける未来、その可能性を目指して、今はただ突き進むだけなのだ。

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