3章

3-1 「参戦!栄光と挫折の極地!・新谷丈」



 「来たぞオオォォォ!!!」


 6月中旬、カナダ・モントリオール。新谷丈は念願のシリーズレース出場権を手にし、期待と夢と野望に胸を膨らませ、この地に降り立った。


 そして、空港から出るやいなや冒頭の雄叫びである。空港から遠く見えるモントリオールの高いビル群まで届くかのような声量で、喜びに胸踊らすその姿は、はたから見れば変人である。道行く人々も奇異の目を向け、新谷を遠巻きにしていた。


 しかし、当の新谷はそんな事など意に介さず、憧れの地への到達を喜んだ後、自転車の入った大きなバイクケースとスーツケースとを両手でゴロゴロと引っ張りながら、大会関係者の待つバスストップへ向かった。


 トライアスロンのレースは大抵が海沿いや湖畔など、人里から多少離れた場所で行われる。空港からは当然離れるわけで、下部のカテゴリーレースの場合、移動手段を自分で手配しなければならない事が殆どだった。


 しかし、トップカテゴリーともなるとそれは違う。エントリーのタイミングで、大会事務局に連絡をすれば空港まで迎えを寄越してくれるのだ。特にトライアスリートは、荷物が多い。自転車があるし、3種目分の道具だってある。自分でタクシーを手配しようとするとかなり大変だし、金がかかるのだ。その点、この大会側の送迎は値は張るが、大荷物でも文句一つ言わずに運んでくれるので、新谷の様に一人で遠征をしている者には有り難かった。


 ゴロゴロと重たい音を立てて、新谷はメールに届いたバスストップに辿り着いた。するとトライアスロンシリーズレースのロゴマークの書かれた旗が、かなり目立つ位置に掲げられていた。その下を見ると、新谷と同じようにバイクケースとスーツケースを引っ張る集団がワラワラと集まってきていた。新谷もその人々に倣って旗の下に集まり、バスの前で手にしたボードに何やら書き込んでいる初老の男性に英語で話しかけた。


『ハ、ハロー!アイム、ジョー・シンタニ、ジャパニーズエリートトライアスリート。アイセント、ユー、アンイーメール、ビフォー。』


 たどたどしい英語に身振り手振りを加えて何とか伝えた。するとその男性はリストから顔を上げると、新谷の顔を観て満面笑みで握手してきた。大きな手に見合う程の握力で、新谷は手が握りつぶされるかと思った。そのまま上下にブンブンと手を振られる。


『Oh ! Shintani !! Welcome to Montreal !! I'm looking forward to meeting you !! HAHAHA!! 』


『オ、オウ。サ、サンキュー…。ハハハ…。』


 男性の前のめりな歓迎に圧倒されながらも、何とか新谷が何者かは伝える事ができたようだ。男性は、新谷の手を離すと手元のリストを何枚かめくって、目当ての物を探し当てた。するとその部分を指差して新谷の目前に突き出してきた。


『Is this your name ?! 』


『イ、イエス…。』


『HAHAHA!! OK! You are the only Japanese !! アリガトウ!Welcome to Montreal !!』


 新谷はそのままバスに荷物を乗せ、大会側が用意したホテルまで移動するのであった。


 何だか、この数分間でげっそりと疲れてしまったような気がした。




 

 大会当日の朝。新谷は今まで生きてきた中で、1番良いのではないかという気分で目覚めた。部屋のカーテンを開けるとビルの合間から差し込む朝日が新谷の顔を照らした。思い切り太陽に向かって伸びをして光を浴びる。


 レーススタートは、15時だった。これからゆっくりと朝食を摂り、レースへ向けて準備を始める。まだまだ時間はたっぷりあるのだが、新谷は何だか我慢ができずソワソワしてしまっていた。心が落ち着かない。疲れてもいないのに、心臓が飛び跳ねるように脈打っているような感じがして、体の動作ひとつひとつが寝起き直後とは思えない程軽快だ。


 新谷は、そこまで自分の状態を認識して気付いた。


(緊張している…。)


 憧れの舞台、最高峰のレースに、世界トップの選手達。今日の結果によって、新谷が今後のシリーズ戦にも参戦し続けられるかどうが決まる。そしてそれは、今夜このベッドで眠りにつく頃には全てわかっているのだ。


(落ち着け、落ち着け。まだ早い。)


 はやる気持ちを抑えて、新谷は朝食会場へと向かった。そこに行けば、他の選手達もいる。公式試走会などで一緒になった選手達と話でもしていれば、英語を聞き取るのに必死になってこの緊張など忘れるだろう。朝食を終える頃には、ウォーミングアップを始める頃合いになるはずだ。そうすれば、緊張も何も関係無くなる。


 エレベーターホールのボタンを押し、エレベーターを呼ぶ。しばらくするとドアが開き、エレベーターの中へと招かれる。


(さあ、始まりだ。)


 朝食会場のある階のボタンを押すと、ドアはゆっくりと閉まっていった。




 スタート20分前。


 ウォーミングアップをすべて終え、あとは出走するのみという状態で、新谷はアスリートラウンジで待機していた。周囲では、他の選手達が好スタートを切るために、それぞれの準備を行っていた。


 ふと、アスリートラウンジ内の空気が変わった気がした。それまでのザワザワとしていて、色々なものが混ざり合わず、それぞれ独立して存在しているようなトゲトゲとした緊張感から、ある一点に全ての意識が集められたような雰囲気に変わった。


 新谷もつられるように、その意識の終着点に目を向けた。するとそこには、世界ランキングと年間シリーズランキング両方のトップに君臨する、スペインのコエーリョが居た。今しがた水泳のウォーミングアップを終えて、このアスリートラウンジに入ってきたらしい。


 彼の入場によりざわめきが引いていくようだった。コエーリョが1歩踏み出す度に、新谷はその振動で心の臓が打ち震えるような感覚を覚えた。圧倒的な力。彼のその圧倒的な存在感は、並の選手ならば彼を直視する事すら叶わないだろう。それくらいの神々しさにも似た威厳があった。


 現にそれまで思い思いに寛いでいた、レースナンバーが下部(世界ランキングが低いほど、レースナンバーは下になる。)の選手たちは、彼の気配に気圧されてか、まだ彼まで相当に距離があるにも関わらず、脇にはけ道を開けてしまっていた。


 しかし、当のコエーリョは堂々と闊歩する感じは無い。寧ろ、他の選手と変わりなく笑顔を浮かべながら、自身の荷物の場所へ向けて隙間を縫うように腰を低くして歩いていく。いや、縫う隙間など無いのだが。


 それがまた彼の恐ろしさを増幅させていた。特に奢る態度なしにこれだけの存在感とプレッシャー。新谷は、自身が緊張していることも忘れる程、コエーリョから視線を外す事ができなかった。少しでも彼を視界の外に置いてしまえば、その隙に喉元を掻き切られてしまうのではないかという緊張感の方が勝っていたのだ。知らず新谷は臨戦状態になる。


(これが、世界一…。)


 レースを目前にして、新谷は既に圧倒されてしまっていた。それに気付き新谷は両手で自身の頬を張る。パシンッと小さく乾いた音がした。


(でもっ!同じレースに出る以上、条件は同じ!スタートラインは、いつだって横一直線なんだっ!)


 係員がラインアップの時間だと、外に並ぶように選手に指示を出す。新谷は勢い良く立ち上がり、アスリートラウンジの天幕の外に出ようとしているコエーリョの背中を睨みつけた。その視線の中にあるのは、恨みでも、怒りでも、ましてや畏れでも無い。新谷が自身を奮い立たせる為の虚勢だった。


(みてろ…!俺の力を、この舞台に叩きつけてやる…!)


 自身の思い描く栄光へ向けて、新谷は世界トップの舞台に躍り出た。





 レース日、夜。日も落ちたモントリオールの街。街明かりと喧騒から少し離れた海沿いの公園のベンチ、新谷はそこに座っていた。


 散歩やジョギングを楽しむ人々も居たが、昼間の喧騒と比べるといたって静かであった。港の壁に波が優しく当たる音だけが響き渡る。


 その音を聞きながら、新谷の表情は、昼間のレース直前の虚勢に後押しされた好戦的な笑みとは打って変わって、静かな沈んだものになっていた。


(…負けた。)


 目がヒリヒリして痛い。先程まで止めどなく溢れ出てくるものがあった瞳は、おそらく今、赤くなっている。


 浮かぶ月を眺めるでも無く、ただ真っ黒い空を見上げる。今の自分の心情に色をつけるならこの色だろうな、などと考えながら水の入ったボトルを口につける。


 スタートは上手く行った。水に飛び込んだ瞬間に調子が良いのがわかった。普段であれば、我先にと折返し点の第1ブイへ殺到する選手達とぶつかり合い、バトルという居場所争いが始まるのだが、今回はそのまま他選手とぶつかり合う事なく第1ブイまで到達した。


 そう、誰ともぶつからなかったのだ。てっきり新谷はスタートダッシュで抜け出たのかと思ったが、違った。メインの集団から遅れていたのだ。スタートダッシュで置いていかれ、人がまばらな位置で泳いでいたので、他選手とのコンタクトが無かったのだ。


 水泳終了時には、先頭から1分近く遅れた第4集団。そのままズルズルと自転車パートを終え、周回遅れギリギリでランニングスタート。ランニングスタートからわずか200mで先頭に周回遅れで抜かされ、最終的な順位は55人中、48位だった。

 

 惨敗だった。何一つできないままレースが終わった。今回ポイントを取ることができなかったため、降格だ。またポイントを取り直さなければならない。


 新谷は、言葉にできない想いで気が狂いそうだった。自分の全てを否定されてしまったような感覚。弁解の余地も無いほどにコテンパンに打ちのめされ、胸の中に空洞があるような感覚さえした。


 ただの敗北なら反省点を改善すれば良い。それが次回への課題となるのだから。しかし、こと今回に限って言えば、反省点すら生まれなかった。当たり前である。レースの勝負どころへ小指の先程にも関われなかったからである。


 あそこで仕掛けてれば、あそこで前に出ていれば、もっと余裕を作れていれば、などと言う改善点以前の問題だった。世界トップ選手達を前に、新谷は「何も出来なかった。」。意気揚々と戦意剥き出しで参戦した新谷にとって、これ以上の屈辱は無かった。


(やはり自分には無理だったのではないか。)


 日本を発つ前、何人かの関係者にそう言われたのを思い出す。その時は、弱気な言葉だと跳ね除けていたが、今この打ちのめされボロボロになった心には、深く突き刺さった。白い布に黒いインクが染み渡っていくように、ジワリジワリと新谷の心を侵食していく。弱気な心は、弱気な思考を生み、やがてそれは再び立ち上がる気力さえも削いでいく。


 そうやって、選手は挫折を味わい、再び立ち上がる事なく引退していく。弱気な心は鎖では無い。決して自身を縛っているわけではない。立ち上がる力を奪い去る。それは、立ち上がろうとする意思さえも奪い去り、完全なる敗北を呼び寄せる。


(俺は、ここまでの選手なのだろうか。)


 今まで幾度となく、新谷の目の前に立ちはだかってきた壁。初の日本選手権出場時、大学卒業時、実業団退団時、初のスポンサー企業獲得時、今まではそれでも何とか壊せてこれた。一度跳ね返されても、まだとっかかるだけの希望があった。しかし、今回はそれさえ無い。圧倒的な力の差を前に、出来る事など無い。


(もう、引退か…。上に行ける望みを失った選手に価値など無い…。)


 その考えがよぎったとき、新谷の脳内に電撃的に走ったものがあった。


 価値。


 新谷は、新年の挨拶の際にスポンサー企業の社長から言われた事を思い出した。


『選手としての価値を高めていく事。君の価値は、紛れもなく、その泥をすすってでも、這いつくばってでも、必ずや目的の場所へ到達するという貪欲さだよ。そこに私は魅力を感じたし、だからこそ君は、今ここでこうして選手を続けていられていると思うんだ。』


(俺の、価値…。強み…。)


 幼い頃からこの競技に関わってきた。昔はただ単純に一度に3種目を行うという競技の特異性に引かれて、続けていた。しかし、いつの頃からか、この競技で1番になりたいと考え始めるようになった。


(過酷と言われるこの競技で、世界一になれば、世界で1番強い人になれるのではないかって思ったんだっけ…。)


 決してここまで楽な道のりでは無かった。無理を通した事など、数え切れない程あった。修羅場など、数えたらきりがない。それでも、この競技を続けてきたのは、あの日の思いがまだ胸に残っているから、どんなに惨めな姿を晒すことになろうとも、我が道を行く事を選んだから。


 あの日、何も知らない少年が、テレビ画面の向こう側に観た鉄人たち。その一人になりたくて、その全員に勝ちたくて、ただひたすらに進んできた。躓き、転ぼうとも、ここまで歩みを止めることは無かった。


 いや、止める事は出来なかった。あの日少年が、誓った思いは、まだ消える事なくこの胸の中で燃えている。今日の絶望を受けてさえ、消えることなく揺らめき続けている。


 これが消える前に引退など、新谷にできるはずがなかった。


 新谷はベンチから立ち上がった。拳で目元を乱暴に拭う。赤く充血し、ヒリヒリとする瞳でも、天上からこちらを見下ろす月は良く見える。


 月のあかりを体で浴びて、新谷は拳を高々と掲げた。


 挫折だって、絶望だって、新谷にはそんなもの日常茶飯事だった。そしてその度に、もう無理かもしれないと悩んできた。そして、毎度最後には立ち上がり、立ちはだかる壁を壊してきた。


 今回だって同じだ。いつもより少しだけ、壁が高いだけだ。いつもと変わらぬ日常茶飯事だ。


「舐めるなよ…。」


 ボソリと新谷は呟いた。


「こんな程度の絶望で、俺が、この新谷丈が、そうやすやすと引き下がると思ったら大間違いだ。俺は絶対に戻ってくる。そして、必ず勝つ。」


 何に対して言ったのか、誰に対して言ったのか、それは新谷にしかわからない。しかし、その決意と覚悟とほんの少しの狂気に満ちた瞳の光は、獲物を狙う肉食動物のように、闇夜の中で月の光を受け、ギラギラと光輝いていた。


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