2-5 「ランナーズララバイ・海老原颯人」



 5月。神奈川県横浜市。山下公園。

 

 3つあるトライアスロンの国際レースのカテゴリーのうち、1番上のトップカテゴリーに当たる世界シリーズレースが、ここ日本の横浜に来ていた。


 世界各国からトップ選手達がレース参加の為に訪れるだけでなく、日本中のトライアスリートも世界トップ選手達の姿を一目見ようとこの横浜に集まってきていた。


 5月らしい暖かい気候の週末で、テレビの天気予報ではお出かけ日よりだと仕切りに報道していた。その為かどうかは知らないが、横浜中華街から近いこの場所にも人が多くおり、明らかにトライアスロンのことなど知らずに観戦しているものも何人かいた。


 海老原颯人は、その人混みに流されながらも、なんとか居場所を確保し、トランジションエリアで準備をする面々を観ていた。まだレースに出たことの無い海老原は、世界ランキングを持っておらず、このトップカテゴリーレースへの出場権も持っていない。その為今日は、観戦も兼ねた偵察に訪れていた。


(あれがいずれ戦う事になる選手達か…。)


 海老原は、トランジションエリア内で各々のポジションに機材をセッティングする選手達をみていた。主要な選手の事は調べてきている。今回出場する選手の中でシリーズランキングが1番上位の選手は現在3位、ポルトガルのロメーロだ。彼は、確かランニングを得手とする選手だった筈だ。


 海老原はトライアスロンの練習を始めて、陸上の長距離とトライアスロンのランニングは違うという意見も何となく理解できるような気がしてきた。


 確かに、思い切り自転車をこいだままランニングに移ると、脚が抜けたような感覚を覚えてしまい、地面を上手く捕らえて蹴ることができなくなってしまうのだ。


 しかし、と海老原は思う。練習を繰り返していくうちにその感覚は限り無く0に近づいてきている。自転車のこぎ方か走力が上がったおかげだろう。もうあと数週間で海老原は、自転車の直後でも実際のパフォーマンスと変わらない走りを出来るようになるという手応えと自信があった。


 その為、今日の偵察内容としては、世界トップ選手のランニングがどの程度なのかを確認しておくことである。タイムの上では海老原は負ける事は無いと思っていた。なので今回は実際のレースがどの程度のものなのかを確認しに来たのだ。


 しばらくすると選手の点呼が始まり、呼ばれた選手からそれぞれスタート位置を決めていく。日本からは、ABCドリンクの村井とチームトライピースの朝川、西関東住建の大室が出場していた。


 レースは特に大きな動きやアクシデント無く進んだ。水泳を終えた時点で先頭集団は9名。第2集団は15名となり、村井と朝川はそこに入った。第3集団以降は、かなり離されてしまい、そこに入った大室が巻き返しを図るには絶望的な差となってしまった。


 ランニングがスタートした。本日海老原がわざわざ横浜まで足を運んだ最大の目的が、世界のランニングのレベルを観ることだった。年始の取材時に言ったことが十分現実的である事を確認したかった。


 ランニングは、先頭集団の9名がほぼ団子状態でトランジションエリアから出てきてのスタートとなった。そのまま牽制し合いながらレースが進むように思われたが、スタートから500mでロメーロがいきなりペースを上げた。そのままスピードを落とす事なく猛烈に先頭を引き始める。他の選手は着いて行けない。ロメーロはそのまま独走状態に入り、危なげなくフィニッシュラインを超えた。


 海老原は、スマホの速報ページでランニングのラップタイムを確認した。海老原のタイムから考えれば十分勝てるタイムだった。海老原であれば、どんなに調子が悪くても超えられるタイムだ。


 しかし、海老原は自身の中に不安や焦りの気持ちが芽生えているのに気付いた。タイムは遅い。海老原が負けるはずもない。


 たが、海老原は世界トップ選手達のレースを目の当たりにして、自身が彼らに勝つ風景が全く思い描けなくなっていた。何故かはわからない。タイムも走りのフォームも海老原の方が勝っている自信がある。


 なのに、海老原の胸の中で膨らみ続け、今にも破裂せんというほどにまでなっていた自信が、世界トップ選手達のパフォーマンスを観て、空気が抜けていくように急速に萎んでいっているのがわかった。


(俺は勝てる。問題無い。その筈なのに…。)


 戸惑い、疑心、トライアスロンの練習を積み上げてきたからこそわかる、ここに出場する者達の能力の高さ。海老原は、自分の足元が突然抜けてしまい、奈落へ突き落とされるような感覚を覚えた。


(これは挫折か?いや、違う。俺は、海老原颯人は挫折なんかしない。)


 海老原が自問自答の渦の中にいると、突然背後から彼に声をかける者があった。


「やあ、君が海老原君かな?」


 はっと我に返り、海老原は声のしたほうを向く。すると髪に白いものがだいぶ混ざった男性が、敵意の全くなさそうなにこやかな顔でこちらに近づいてきた。


「私は、伊南正一郎と言う者さ。海老原君、お噂はかねがね。ようこそトライアスロン界へ。」


 そう言って、伊南と名乗った男性は海老原に名刺を差し出してきた。慌てて伊南も自身の名刺を差し出し、それを受け取った。


 受け取った名刺には、『伊南正一郎 チームトライピース 監督』と書かれていた。チームトライピースといえば、海老原もその名は知っている。たしか国内でも有数のトライアスロンクラブチームだったはずである。朝川が所属していたはずなので、おそらくそれで来ているのだろう。とすれば、この男性が朝川を育てた指導者なのだろうか。


「ご丁寧に有難うございます。海老原颯人と申します。トライピースさんの名前はトライアスロンを始めた当初から聞いていました。お会いできて光栄です。」


「そんなに畏まらなくてもいいよ。」


 伊南は、そう言って握手を求めてきた。海老原もそれに応じる。


「練習はどうだい?何か上手く行かなかったりとかしないか?」


「いえ、今のところ問題ありません。」


「指導者は?つけてるのかい?」


「はい。スイムだけ。バイクは知人にプロロードレーサーが居るのでその人に。ランは陸上選手の知人と走ったりしてます。」


 伊南は海老原に、練習は上手くいってるかや困り事は無いかなど、練習環境について色々と尋ねてきた。それは、新参者である海老原に探りを入れているようにも見えたし、ただこのトライアスロン界に新たに吹き込できた風である青年を、純粋に心配しているだけのようにも見えた。


 一通り質問され、海老原からもいくつか質問をしていると、会場内に盛大なファンファーレが鳴り響いた。海老原達の位置からは見えないが、表彰式が始まるようだ。


 チラリと伊南は表彰式が催されている方に視線を向けると、少し意地の悪いような、いたずらをする前の子供のような含みのある笑顔を作って海老原に問うてきた。


「で、海老原君。今日のレースを観て、どうだった?」


 海老原は、「レベルは高かったけどランニングに移れば問題なく勝てますよ。」と答えようと伊南の顔をみて、言葉を詰まらせてしまった。


 先程までの含みのある笑顔はそのままなのだが、その目は海老原を射抜くような視線を送ってきており、海老原はまるで自分の心の奥底まで見抜かれているかの様な錯覚を覚えた。


 否。この男。おそらくは海老原の心境の変化を見抜いている。見抜いた上で海老原に問うてきているのだ。「これを観て、これから君はどうする?」と。


 海老原は、その視線に負けないよう見返す瞳に力を込めた。そして、胸を張り、今もまだ自身の胸の中にある、暗く渦巻く挫折にも似た気持ちを吹き飛ばすかの様に強い声で答えた。


「大丈夫。勝てます。」


 時間にすると一瞬にも満たないような極極短い時間。しかし確かに海老原は、その一瞬の中で伊南の目が、まるで自分を値踏みするかのような目で見てきているのを見た。


 そしてその一瞬が過ぎると伊南は、カカカッと快活に笑い出した。


「そうかそうか!いいねいいね!暇だったらうちに練習に来てくれよ!楽しみだね、君は!」


 そして、海老原に顔を寄せると、海老原の耳元に向かって囁いた。


「まあ、君が色々と言われてんのは知ってる。余計な連中の余計な評価にどう対応するかは君の自由さ。私のこの言葉も含めてね。でもね、君のその信念だけは、まげちゃあいけないよ。そこが曲がると終わりさ。どんな言葉も力を持たなくなる。虚勢だろうと何でもいい。その信念だけはまげちゃあいけない。」


 そう言ってくるりと半回転すると、海老原に向け背中越しに手を振りながら、アスリートラウンジの方向へ向かって歩き出してしまった。


 掴み所のない人、というのが海老原の伊南に対する感想だった。その場に取り残された海老原は、寄る辺もなくただ立ち尽くしてしまった。


(評価、か…。)


 1月の取材が頭をよぎる。元駅伝選手だからって上手く行くわけが無いという意見。世間から今の自分が受けている評価の一部だ。


 トライアスロン界の外から来た海老原にとって、いわばこの競技は敵地、アウェイだ。だとすれば、取れる行動はただ一つ。


(結果だ。結果を出して、黙らせる…!)


 海老原は山下公園を後にした。


 彼のデビュー戦は、6月初頭の大阪城大会。運命の日は確実に迫って来ていた。


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