2-4 「Wake up !!・八木晃」



 春うらら、4月も末日になり草木の芽吹く暖かさの中にもほんのり暑さを感じるようになってきた。


 満開の桜に花見客で賑わっていたこの公園も、最近では徐々に薄桃色の屋根の中に緑色を覗かせるようになり、季節が移ろいつつある事を感じさせていた。


 八木晃が練習しているチームトライピースは、ゴールデンウィーク目前の週末という日程の中、公園内にある陸上トラックで練習をしていた。


 本日は早朝に拠点であるスイミングプールで6kmほど泳いだあと、間を置かずにこの陸上トラックまで移動して来た。ランニングシャツに身を包み、今まさに走り出そうとしている八木は、プールから上がってからまだ30分程しか経っていない。


 今日はランニングがメインの練習日であり、インターバル練習という長距離選手のよく行う高強度練習を行う予定だ。


 八木を含め7名の選手が、トラックに出揃う。いずれもトライピース所属のエリート選手で、その中には10日程前にオセアニア遠征から帰国した朝川の姿もあった。帰国後しばらく疲労抜きの為に別メニューで練習をしていたため、八木が朝川と練習するのは帰国後では本日が初めてだった。


「それじゃあ始めようか。朝話したように今日は400mのインターバルだ。前半は上げすぎないように設定タイムを維持して、ラスト3本で上げられる者はタイムを上げてくること。あの集団が行ったらスタートしよう。」


 週末と言う事もあり、近隣の高校の陸上部や社会人ランニングクラブなどトラックにも人が多かった。伊南は出揃った選手に練習メニューについて指示しながら、100m先からこちらに向かって第1レーンを走って来ている陸上部の集団を指して指示をとばした。7人がそれぞれ返事を返し、レーンの脇でスタートの準備を始める。


 八木が手足をブラブラと揺らし体の強張りをとっていると朝川が話しかけてきた。


「晃。今日は何本先頭を引いてくれるんだっけ?」


「後半半分です。後は馬場さんが引いてくれます。」


「そっか。まあ、お手柔らかに頼むよ。」


「とか言って、結局いつも朝川さんラストスパートまで残ってるじゃないですか。」


 そうこう話しているうちに、陸上部の集団が八木達の目の前を通り過ぎた。後続の選手がいない事を確認し、レーンに入る。


「それじゃあ行くぞ!ヨーイ、ハイ!」


 予定通り、メニューの前半は八木の4つ歳上である馬場が先頭に立ちペースを作った。


 インターバルトレーニングは、ランニング練習の中でも特にキツイ部類に当たる。今回は、まず400mを実際の10kmのレースで走るよりも速いペースで走る。その後ジョギングで200mを走り、再度400m走るというメニューだ。


 途中にジョギングが入るとは言え、完全に休み切ることができない為、後半になればなる程ペース維持が困難になる。筋肉と呼吸器系の両方に負荷を与える練習の為、ダメージが大きい分、得られる物も大きい。


 後半になるに連れ、徐々に回復が追いつかなくなり、ジョギング中に息を整えきれなくなってくる。そうなってくると非常に苦しい。400mの度に顔を水の中に沈められて息が出来ないような苦しさが襲って来るようになる。そのギリギリの状態の中でも八木はなんとか先頭としてペースの維持に努めた。


 ラスト3本に差し掛かった。ここからは先程の伊南の支持通り、上げられる者のみペースアップをしても良い事になっている。しかし、集団の雰囲気から察するに、上げられる者は居ないのではないかと八木は思った。そうなれば、ラスト3本も八木が引く事になる。そう思っていた矢先だった。


「俺、上げます。」


 八木の後方から朝川がスッと前に出てきた。息は切れていたが、そこまで苦しそうな感じは無く、足運びも軽快だった。そのまま八木の前に入った所でスタートラインを迎える。八木を追い抜いた勢いのまま朝川がスゥーッとペースを上げていった。力任せな部分が無く、八木も後ろに着いていて走りやすかったが、数メートル走り気付いた。明らかにペースが速い。


「朝川!無理しすぎるなよ!」


 伊南の声が後ろに流れていく。最早その頃には朝川はトップスピードに乗っていた。力強く地面を蹴って、まるで跳んでいるかのような歩幅のままグングン前に進んでいく。


 八木の背後から馬場の荒い息遣いが聞こえる。限界ギリギリと言った様相だ。そういう八木も最早口の中は血の味で満たされており、顎は上がり、視界も暗く狭まり始めてきていた。耳奥に心臓が激しく鼓動を打つ音が響く。


 ラスト1本を前にして、八木は限界目前だった。荒い息の中で八木は前を行く朝川の背を睨みつけた。


(…何、なんだ、この、人。強、すぎる。)


 最後の1本がスタートした。朝川がグンッと直前の2本とは比べ物にならないくらいの加速を見せる。八木も負けじとそれに喰らいつく。もう限界だった。走りのフォームも何も無く、ただ前を行く朝川の背を追うだけだった。


 150m辺りに到達した時、不意に腹部が寒くなったような、そこだけ何も無くなってしまったかのような感覚に見舞われた。そしてその感覚は、1歩足を付くごとに大きくなっていき、4歩ほど行ったところで突然足の回転が止まった。


 正確には止まってはおらず、回転速度が落ちただけなのだが、八木の感覚的には止まったように思えた。


 そしてそのまま一気に八木のペースが落ちる。力尽きた八木の脇を後続についていた選手達が抜いていく。八木は、焦った。追いたいのに地面が蹴れない。腹から下が無くなってしまったのかのように力が入らない。


 八木はそのままなんとか400mを走り切り、トラック脇の芝生に倒れ伏した。心臓は口から飛び出そうな程激しく鼓動を打っていた。腹から下に力が入らず、荒い息の中で嘔吐感を覚えた。だが、実際に嘔吐するわけではない。兎に角、あまりの疲労困憊状態に体中のありとあらゆる異常を伝えるサインが発現していた。


「お疲れ!この後は各自クールダウンも兼ねてバイク。お疲れ様!」


 伊南が走り終わった面々に向けて指示を放つ。八木は地面に突っ伏したまま返事をした。とてもすぐには動き出せそうな感じではなかった。伊南は走り終わった選手達に体の調子や感覚、痛みの有無について聞いて回っている。八木のところへ来るまでにはまだ時間がかかりそうだった。それまでに息を整えておかなければ。


 そうして、芝生に倒れ伏したまま、自身の体の警告サインをひとつひとつ無くしていっていた八木の肩を何者かが叩く。伊南が自分のところまで回ってきたのかと思い、八木は立ち上がり振り返った。


 するとそこに居たのは伊南ではなく朝川だった。息はもう整っており、おそらくオセアニアで焼けてきたのだろう、黒く焼けた顔にニコッと笑った口から見える白い歯が光っていた。


「晃。お疲れ。後半引いてくれてありがとうな。」


 朝川は八木へ労いの言葉を掛けた。先程まで他を圧倒する程の走りを見せていたとは思えない程、平常時と何ら変わらぬ素振りで話しかけてきた。その様子に八木は驚き、同時にまだこの人には敵わないのではないかという弱気な心が、一瞬胸の奥に渦巻いた。


「お疲れ様でした。朝川さん。最後、めちゃくちゃ走れてましたね。全然着けなかったです。」


 八木は、純粋な意見を述べた。朝川は強い。身体能力的には八木と同じか、年齢的に劣っていてもおかしくないのに、八木は勝てない。身体能力とは別の何かが圧倒的に八木より勝っていた。


「いやぁ。でもラストまで皆がペース作ってくれてたし、俺昨日までリカバリー練習だったし、状態が良かったんだよ。」


 そう言って朝川は謙遜したが、それだけでない要因があると八木は思っている。八木自身とは決定的に違う何かが。


 朝川と雑談していると、選手達の状態を聞いて回っていた伊南が朝川と八木の元へ来た。


「晃。おつかれさん。ラストは惜しかったな。だが、それまでは良かった。苦しくなった時に一気に歩幅が落ちて、ピッチも落ちてた。キツかったか?」


 伊南は、八木の今日の手応えについて聞きたいようだった。なので、八木は率直に今日の感覚を伝えた。


「はい。朝川さんがペース上げるまでは、ギリギリ良かったんですけれど、あそこからがしんどかったです。もう力任せに走る感じになっちゃいました。そしたら最後、急にお腹から力が抜けちゃって、蹴れなくなりました。」


「そうか…。オールアウト、多分出し切ってしまったんだろうな。まあ、引き続きランニングエコノミーの向上と体幹周りを鍛えていく感じで行こう。怪我の痛みは無いか?」


「はい。そういう痛みは無いです。ただ、めちゃくちゃシンドイですけど…。」


「ははっ!そうか!追い込めた証拠だなっ!」


 伊南は八木から一通り状態を聞き出すと、最後に一つ豪快に笑ってみせた。


「仁志。もしよかったら八木と2人でバイク乗ってきたらどうだ。川沿いで90分くらい。オセアニア遠征の事とか、教えてやれよ。」


 伊南は豪快な笑顔のまま隣にいた朝川に提案をした。この後は、クールダウンなので八木としても誰かと乗れるのであれば有難い。それが朝川なら尚更だ。


「だとさ。どうする?晃?」


 朝川からの問いかけに、八木は大きく頷いた。





 公園から割と近くにある川沿いのサイクリングロードで、八木は朝川と2人で自転車に乗りクールダウンを行っていた。


「朝川さん。オセアニアでのレースはどうでしたか?」


 八木はオセアニアで何があったのか聞きたかった。八木は学生であり、資金的に海外遠征は厳しい。しかし、来たるべき海外レースの日に備え、気になる事は多々あった。


「あぁ。やっぱりこの時期オセアニア勢はシーズン終盤だから、皆仕上がっててキツかったよ…。」


「やっぱり海外勢は強いですか?」


 八木はそこが1番気になっていた。一般に日本人は諸外国の選手よりも背が低い傾向にあるし、肉体的にも華奢というか弱い印象があった。


 加えて八木も、国内で開かれた国際レースに参加した際、海外選手の圧倒的な威圧感やパワーなどに押し潰されるような感覚を覚えた事があった。それだけに自分と海外選手では何か決定的な違いがあるのではないかと思っていた。


「いや。俺はそこまで大差ないと思ってるよ。」


 朝川は自転車のボトルケージからボトルを取り出し、水を口に含みながら言った。


「どうしても日本人は海外勢に対して苦手意識があるけど、実際そこまで差がある感じは無いよ。結局同じ人間だし。弱い奴だっていくらでもいる。」


 そこで朝川は手元でボトルをくるりと回して見せてから、ボトルケージに戻した。イージーライドの時など、手持ち無沙汰なときに朝川がよくやる癖だった。


「ただ、俺が感じるのは日本人だろうが外国人だろうが、どんな競技でもトップに来るような奴らは覚悟というか勢いが違うな。『絶対にこの競技で勝ち上がって食っていくっ!』みたいな。ハングリー精神ってやつかな?それがすごい。それがキツイ時にハッキリとした差となって出てくる気がする。」


「ハングリー精神ですか…。」


 八木は朝川がそう思っていると聞いて正直意外だった。もっと肉体的な違い、人種的な違いを出されると思っていたのだが、朝川から出されたのは彼らしからぬ「覚悟」という言葉だった。


 朝川は普段そこまで精神論を掲げるタイプではない。自身の体の調子や動きの感覚など、直接速さに結びつくものを重要視する傾向があった。


 もちろん、最終的には気持ちが物を言うとは常日頃から言っていたし、彼自身の2度のオリンピック代表決定レースを観ればむしろ彼が精神論者だと言われても納得できるだろう。


 しかし、そんな経歴と側面を持ちながらも、決して精神論のみに競技力の向上を見出さないところを八木は素晴らしいと思っていた。朝川はいつでも、メンタルとロジックの狭間でバランスの取れた競技者生活を送っていた。


 その朝川が、オセアニアで見たものはメンタル的な要素が多いと言う。そういえば、今日の朝川は気迫というか練習に対する意気込みが違う気がした。少し若くなったというか、レースで無名の選手がたまに見せる恐ろしさや勢いなどに似た感じが、今日の朝川の練習にはあった。


 この感じが、「覚悟」なのだろうか。


 八木はトライアスロンを始めてからというもの、別段努力をしたという感覚はない。面白そうと思って始めてみたら、あれよあれよという間に勝ち上がり、学生最強とまで言われるようになった。エリートレースでも順当に成績を残しており、まさに若手のホープ筆頭となっていた。


 苦労とか頑張るとか、何かに向けて我武者羅になるとか、そういう感覚を八木はまだ持てていなかった。


 しかし、そんな八木でも昨年生まれて初めて悔しいと思う出来事に遭遇した。


 日本選手権である。


 八木は学生最強、若手のホープ、入賞確実と言われて本番を迎えた。当然八木本人もそう思っていたし、そうなると勝手に思っていた。


 しかし結果は惨敗。20位に沈んだ。


 あのレースあと、八木は部屋で一晩中泣いた。何故泣いたのかはわからない。しかし、胸の奥からこみ上げてくる何かが、涙となって溢れ出て、止める事が出来なかった。


 一晩中泣き明かし、大学の授業を1週間サボり、八木はようやくその感情が「悔しさ」だと気付いた。


 八木に競技を通して成し遂げたい目標などはない。今はただ、勝てるから走っている。これからもずっとそうだと思っていた。


 だがしかし、あの日感じた「悔しさ」。あれだけが、八木の心の中に返しのついた針の様に引っ掛かって残っている。


 八木は、朝川にこういう悔しさはあるのか聞いてみたいと思った。八木の何倍もレースを走って、何倍も負けてきた筈の朝川にも、心の芯に引っ掛かって取れない様な敗北感はあるのかと。


 そうしてもし、そのような敗北感があるのなら、何故それでもまだこうして走れているのかを聞いてみたかった。


 レースに出ればまた負けるかもしれない。またあの自分の存在全てを否定されたような敗北感を感じなければならないかもしれない。


 そうした危険を前にして、何故またスタートラインに立てるのか。その原動力が何なのか、聞いてみたかった。


 そして多分その原動力の正体は、八木にはまだ手に入れられていないものであるような気がしていた。



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