2−3「勇往邁進・朝川仁志」

 


 3月末。ニュージーランド。カテゴリーは上から数えて2つ目のレース。日本人選手も多く出場するこのレースに朝川仁志は出場した。


 結果は16位。まずまずの結果だ。欲を言えばもう少し上位をとりたかった。


 オセアニア地域は、北半球と季節が逆なこともあり、年始の早いうちからシーズンが始まっており、3月末のこの時期はオセアニア地域のシーズンがは既に終盤に差し掛かっていた。それだけにオセアニアの選手達は皆、調子が仕上がってきている。2週間後にはオーストラリア、ニュージーランドでそれぞれナショナルチャンピオンシップが開かれるので、今後世界転戦を目指すような若手選手達は、華々しいデビューを飾る為パフォーマンスのピークを合わせてきていた。


 それだけに今回のレースはとてもハードな展開となった。


 スイムからオセアニア勢がペースを上げまくったのだ。力のないものはポロポロと集団から落ちていく。駆け引きなど全く無し。力で力を押し潰す様なレース展開に、日本人選手達は苦戦を強いられた。


 そんな中で比較的善戦したメンバーが朝川以外にもう1人いた。


 10位に入った新谷丈である。


 あまりトライアスロン界内のコミュニティーに入って来ないので、国内でどう練習しているか朝川も詳しい事は知らないが、昨年の夏に合宿で一緒になった際はそこまでの強さは感じられなかった筈だ。


 日本選手権に関しては、第1集団だった朝川はレース中に彼の事を見かけてすら居なかったように思う。


 ただ、その奇行の数々や性格の事などは風の噂で流れてくるので、面白い若手がいる程度には注意して見ていた。これが、伊南の言っていた「若手も伸びてきている」ということなのだろう。昨年のレースでは、絡みもしなかった選手に負けた事に対し、朝川は久々に悔しさを感じた。


 間の抜けた顔で水のボトルを片手にリカバリーエリアのパイプ椅子に座っている新谷を見つけて、朝川はそれに近づき新谷の横に座った。ギシリと朝川が座った事でパイプ椅子が音を立て、それで初めて新谷は朝川の存在に気付いたらしい。ビクリと大袈裟に跳ね上がった。


「あ、朝川さんっ!お、お疲れ様ですっ!」


 何か怒られるとでも思っているのだろうか。新谷は半ばパニックになり掛けながら朝川に挨拶をしてきた。


「おつかれ。10位。良かったんじゃないか?」


 朝川は、新谷のパニックと警戒心を解くようにわざと優しく、温かみを持って健闘を讃えた。


「あ、ありがとうございますっ!朝川さんも16位…えっと、おめでとうございます、です、か…?」


「んー、俺としてはもう少し、それこそ10位くらいにはなりたかったから、おめでとうではないかな。でも、ありがとう。」


 朝川がニコリと笑って答えた事で新谷の警戒心も幾分か溶けたらしい。ふにゃりと力の無い笑みを浮かべていた。そういえば、去年の夏合宿でも最初、変に緊張して接してきていた気がする。何となく、彼はコミュニティーに入らないのではなく入れないのではないかと朝川は思った。


「丈も確か来週と再来週のオーストラリアのレース出るよね?何処泊まるの?」


 朝川の問いに対して、新谷の答えた宿泊先は朝川が泊まる場所のすぐ近くだった。格安のマンスリーマンションで、若い頃は朝川もよくオーストラリアでの連戦の度に利用していた。狭くて設備も十分ではないが、部屋のロックとセキュリティはしっかりしており、近くにスーパーマーケットがあるので長期の滞在でも安心だった。


 この時期、オセアニア地域では毎週のように世界ランキング対象大会が開かれていた。シリーズランキングとはまた別のランキングで、こちらは1年でリセットされることは無い。毎週更新され、獲得ポイントによって世界ランキングが決定される。


「そこだったら俺が泊まる場所に近いよ。良かったら練習とか食事とか合わせようよ。」


「いいですか?!ありがとうございます!」


 おそらく新谷は今回1人で遠征しているのだろう。朝川も今回は、伊南を伴ってはいなかった。


 朝川も若い頃は、活動費のやりくりに四苦八苦していた。伊南が基本的にその辺りの事は各自行わせる方針だったので、朝川は先輩から色々と教わりながら、転戦をしていた。


 新谷は、何処のチームにも属していないと聞く。そして、コミュニティーにも入れていないから完全に自分1人の手探り状態でやっているのだろう。朝川は、そんな新谷を見て何となく手を差し伸べて見たくなった。


 おそらくは、自分が先輩達から受け継いだ事を後輩に伝えたいという気持ちからだろうか。そのような気持ち、若い頃なら絶対に無かった。それが、今こうして若い頃の自分のように四苦八苦する選手をみて、手を差し伸べたいと思っている自分がいる。


 朝川は、そんな自分の変化に気づき、これが年をとるということなのかと、その心の動きを反芻し改めて感じた。


 新谷とのそのやり取りの翌日。朝川は、ニュージーランドを発ち、オーストラリアでの滞在先に到着していた。そのタイミングで、トライピースの若手コーチが合流してきた。名を瀬波と言い、大学院でスポーツコーチングについて学び、この春トライピースに入って来た。今回は、勉強も兼ねて朝川のレースのサポートに来た。


 高校までは陸上選手だったらしく、大学からトライアスロンを始めたらしい。上半身は薄く、ひょろリとした体躯を思わせるが、へその辺りから下がガッシリとしている。陸上競技者の体付きだった。


 レンタカーから荷物を降ろして、夕食の買い出しに行った。新谷と合流するのは明日からだ。瀬波にレンタカーを運転させ、朝川は助手席に乗り込む。


「朝川さん。今回はありがとうございます。まさか初っ端から朝川さんの遠征に帯同させていただけるなんて思ってもいなかったです。」


 瀬波が運転しながら助手席の朝川に礼を言う。少し真面目すぎる気がするが、大学院卒は皆こうなのだろうか?


「あんま固くしなくていいよ。別に俺が出してるわけじゃないし。」


 朝川は、トライピースに所属しながらも個人的なスポンサーをつけていた。指導料を伊南に払っている形だ。なので、伊南を帯同させる際の渡航費は朝川が支払うし、それに見合うだけのサポートを伊南はしてくれる。今回の瀬波に関しては、トライピース側から経験を積ませる為に帯同させて欲しいと申し出があった。その為、彼の渡航費等々は全てトライピース持ちだ。


「国内でサポートの経験はあるだろうけど、海外だと勝手が違う事多いから。英語はわかるんだよね?こっちに知り合いのコーチがいて、その人今度のレースに来るから。瀬波の事言ったら色々教えてくれるってさ。当日はそのコーチに着いて色々勉強してきな。」


「ありがとうございます!」


 瀬波は前を向いたまま、オーストラリアのよく晴れた空に響き渡るような声量で礼を言った。新谷と言い彼と言い、今の若い世代はこういう風に礼を言うように教えられているのだろうかと朝川は思い、しかし自分もこれくらいの時はこうだったなと、彼らの中に昔の勢い任せだった頃の自分をみた。











 若さとは強さだ。ニュージーランド、オーストラリアの計3連戦を終え、飛行機の窓から見えるオーストラリア大陸が徐々に離れて行くのを見下ろしながら、朝川はそんな事を考えていた。


 しかし、それは肉体的にとか体力的にとかそういう事では決してない。言い換えるならば、無知であるが故の強さである。


 こう言っては悪いが、彼らはまだまだ世の中がどのようにして回っているのかを理解してはいない。朝川も理解しているわけではないのだが、しかしプロ選手という立場で長く活動しているうちに、人間1人にできる事には限界がある事を感じるようになっていた。


 しかし、彼らにはまだそれがない。20代半ばならそういう事を知っていなければいけない部分もあるはずなのだが、彼らにはそんなつまらない限界という概念よりも、今まさに飛び込んだばかりの新しい世界で自分という存在を試してみようという気持ちが非常に強かった。


 新谷にしてみれば、それはレース中に勝負所と見れば躊躇せずに飛び込むところであったり、強豪選手やそのコーチに積極的にアプローチを仕掛けていく貪欲な姿勢。


 瀬波にしてみても、着かせてみた朝川の知り合いのコーチから大絶賛されるほど、知識に対して貪欲で、向上心剥き出しで朝川のサポートにかかっていた。


 彼らは自分の能力に限界をまだ見ていない。そしておそらく、その能力の天井を知り、その現実を前に膝を折ってしまうことが「老い」にあたるのだろう。


 自分はどうだろうか。


 朝川は自問自答した。


 ベテランという言葉に何処か妥協を見出そうとしてはいないだろうか。肉体的には確かに以前とは違う。それは生きている以上仕方の無いことである。だが、その事実に対して何か抗う事をしただろうか。


 今シーズンいっぱい、最終的には日本選手権での再びの優勝を目指して活動していくと決めた。しかしそれだけで本当に抗っていることになるだろうか。


 歳を重ねる肉体を若くはつらつとしていた時に戻す事は出来ない。しかし、この思考は新谷や瀬波と言った若人よりも若々しい思い切った考え方を保つ事は可能なのではないだろうか。


 朝川は、過去オリンピックに2度出場したが、その両方ともが最終段階で選考対象からギリギリ外れていた。


 だが、最後の最後。本当にこれが最後というレースで、大どんでん返しを演じて見せて見事代表権を勝ち取っていた。


 あの時は、無理も限界も頭の中には無かった。ただ、できると根拠も何も無くひたすらに自分自身を信じ切っていた。


 そして奇跡が起きた。2度も。


 当時の朝川は、「頭のネジが外れてる」「諦め方を知らない」と言われる事が日常茶飯事な程、何事にも対して恐れが無かった。


 知らなかったのだ。自分の限界を。それこそが強さであった。


 しかし、朝川は思う。それでは、歳を重ねた今、限界を知ってしまい、当時のような強さは失ってしまったのかと。


 答えは否である。


 幸いにして、トライアスロンは記録を競うスポーツではない。どんなに遅かろうが、1番最初にフィニッシュラインを超えたものが勝者なのだ。


 そこには年齢による衰えも、若さによる無知さも関係ない。ただ、純粋にその時1番強かったものだけが勝つ。それだけだった。


 そしてトライアスロンにおける強さとは、速く泳いだり、こいだり、走れる事ではない。


 速さではなく強さ。


 数値で表す事の出来ない強さという要素に限界などあろうはずが無いのだ。


 朝川は若人2人を通して、自身が辿り着くべき選手としての在り方を見出し始めていた。


 速いのではなく、強い選手。


 ただ、ただ純粋に自分自身を信じ切ることができる事。


 過去に2度もできたのだ。最後にもう1回くらいできたっておかしくないだろう。


 朝川の目に明るい光が戻ってきた。この広い世界を前に期待と夢でいっぱいになっている子供のように、キラキラとした輝きが再び宿っていた。


 帰国すれば、時は既に4月も半ばである。次のレースは5月半ば。そして日本選手権は10月。朝川の導き出すべき強さへの回答期限も、もう残り半年を切っていた。


 しかし、朝川に迷いは無い。日本のトライアスロン界を引っ張るベテランは、今一度少年の如き純真さと輝きを取り戻し、自身のまだ見ぬ可能性へと挑戦する心構えを取り戻していた。






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