2−2「飛ぶための翼はある・村井勇利」
3月3日、アラブ首長国連邦、アブダビ。
中東特有の打ち付けるような日光と湿り気を殆ど感じない程乾燥しきった暑さの中、村井勇利は必死に自転車のペダルを踏んでいた。
トライアスロンの世界シリーズレース、その第1ステージであるこのアブダビステージに村井は出場していた。水泳を終え、今は自転車パートへ移っている。村井は総勢17名の第2集団。前を行く5名の先頭集団を追っている最中だった。
世界シリーズレースは、トライアスロンレースの3つのカテゴリーのうちトップカテゴリーのレースのことを指す。年間7レースを世界各地で開催し、最終的なシリーズポイントの合計でシリーズチャンピオンを決める。
実質世界一を決めるレースなので、オリンピックのない年は各国の選手達はこのシリーズレースに調子を合わせてくる。
今回のこのレースはそんなシリーズレースの開幕戦である。例年このレースでの優勝者は、最後までシリーズチャンピオン争いに関わる事が多い。その為シーズンイン1発目のレースにも関わらず、パフォーマンスを最高潮に合わせてくる選手は少なくなかった。
村井の今シーズンの目標は、年間シリーズランキングを20位以内で終える事だ。つまり、出場するレースはコンスタントに20位前後に入る必要がある。
アブダビのカーサーキットをコースとして利用するこのレースは、特殊だった。
実際のサーキットを使うので、自転車の場合、スピードコースである事は事実なのだが、退避レーンを通ったり、ピットの中を通ったりするので、意外とテクニカルな部分が多かった。道幅もコースを目一杯使う訳ではなく、コーンで半分〜3分の1程度に仕切られているので普通のレースとあまり大差ない。
それでも高速レースである事は確かである。村井は集団後方で、遅れない様にするので精一杯だった。高速で突っ込むのは良いのだが、ピット周辺の細いコーナー等になると集団の後ろは前が支えてほぼ止まる。コーナーを抜ける頃には先頭は、もう漕ぎ出しているから、その速度差を埋めるために先頭以上の力でペダルを踏まなければならない。狭いコースでは大集団の方が不利とよく言われるのだが、それはこのためだった。
3つのカテゴリーの内、下の2つのカテゴリーレース、ましてや日本国内のレース等では到底味わえない程の理不尽にも思える力の差を見せ付けられる。現日本チャンピオンの村井でさえ、集団内で振り回されるしか術がない。そして世界トップ選手達はそれだけ高速でハードな自転車の後にランニングを陸上選手並の速度で走る。
レース中盤に差し掛かると集団内の空気が変わり始めた。数名の選手が風除けの為に集団先頭に出る事を拒否しだしたのだ。「このまま全開でこいで、果たして先頭に追いつくのか。」という疑念から出た行動である。
一向に差の縮まらない状況を受けて、集団内の思惑が2分される。1つは「優勝ないし表彰台に上がる為、無理して先頭に追いつきたい。」選手。もう一つは、「ここで無理して前に追い付かず、ランに脚を残して無難な順位でポイントを稼ぎたい。」選手。今、第2集団の殆どの選手の心は、後者へ移ろい始めていた。
集団の先頭で風除けになっていた選手が、集団内の大多数の選手が風除けを交代しない事に痺れを切らし、後ろを振り返りFから始まる4文字の言葉を怒鳴り散らした。数名の選手が慌てて風除けを交代したが、明らかに速度が違う。前に追い付く気概が無かった。先程怒鳴り散らしていた選手は、集団後方に下がりながら、まだ周囲に向かって怒鳴り散らしていた。
第2集団の協調体制が崩壊した。最早、この集団内に本気で前を追う選手はいなかった。そうなると集団のペースは一気に落ちる。先頭で風を受けたくないが為に、今まで1列棒状だった集団の形は、コースの幅いっぱいに広がった横広な形に変わっていた。自ずと選手同士の感覚も狭まり始める。
村井はその密集した集団の中で、自身のポジション取りに専念した。自転車の残りは数キロ。最後飛び降りる際に、丁度良く集団前方に居られるよう、器用に位置を微調整していく。他選手と何度か肩がぶつかったが、ここで引いてしまうと居たい位置を取ることができない。村井は、何度か強引にその肩を入れて位置確保に努めた。手を伸ばせば簡単に触れられる位置に他選手の頭がある。それだけ密集しているにも関わらず、集団内は静かだった。皆、無言で各々の位置確保の為の争いを続けていた。
村井は、自転車終盤になると徐々に位置を集団前方に移していき、第2集団の4人目辺りで自転車を降りた。前に位置取るためにかなり脚を使ってしまったが、やむを得ない。そうしなければ、ただでさえレベル差のあるランニングで初っ端から置いていかれてしまう。それだけは、避けなければならなかった。
自転車を置き、ランニングシューズを履く。手間取る事なく足がシューズの中に収まり、村井は内心ガッツポーズをした。シューズには、足がはいりやすい様に予めベビーパウダーを塗っておいていた。左足の裏にシューズのクッションを感じた瞬間に力強く地面を蹴って走り出す。そのまま第2集団の中ではトップで※トランジションエリア(自転車やランニングシューズなどを付け変える場所)を通過した。ここからリズムを作りつつ、後ろから追い上げてきた選手の背について走る。村井のシリーズレースでの常套手段だった。
とりあえずまずは、20位。その為に、今できる事をするしかなかった。
フィニッシュラインを越え、村井のレースが終了する。順位は25位。昨年のシリーズ初戦は32位だったから良くはなっているが、目標の20位には届かなかった。膝に手を付き、息を荒くしてその場に留まっていると、レーススタッフに※リカバリーエリア(ゴール後の選手控室)に下がるよう指示される。
村井は、極度の疲労でその場から一歩も動きたくない気持ちを抑え、リカバリーエリアに移動する。途中、仰向けになって息を荒くしている選手やその場に座り込み立てない選手等を跨いだり、避けたりしながら、重い体を引きずるようにしてなんとか所定の位置に向かう。
リカバリーエリアへ向かう途中、※ミックスゾーン(メディア取材エリア)の前を通過する。今回の優勝者がメディアのカメラに囲まれて取材を受けている。今回はフランスのリシャールが勝ったらしい。
トライアスロンの公用語は英語なので、フランス人である彼も英語で受け答えをしている。今日のレースで、村井は彼の姿を一度も見ることは無かった。水泳からそのまま第1集団でレースを展開し、ランニングを走りきったらしい。水泳から第2集団に居た村井が、姿を見られなかったのはその為だった。
これは競技だ。勝者と敗者の差は歴然である。勝てば、あのカメラのフラッシュが眩しい程の場所を独り占めできる。そして負ければ、誰にも気づかれぬままにホテルに戻って帰り支度をするしかない。
今日の村井は敗者だ。帰りの飛行機は明日の昼なので、今日はもうホテルに戻って支度をし、寝る。そう決めてリカバリーエリアに差し掛かった時背後から英語で声を掛けられた。
「ユーリ!どうだった?」
振り返るとメキシコのレースウェアを身にまとった選手が居た。彼はアレハンドロと言い、村井が17歳の時に出場した世界ジュニア選手権で初めて知り合った選手だ。
「アレハンドロ!俺は25位さ。良くなかったよ。」
「そうか。まあ、そんな日もあるさ。」
「それよりもアレハンドロ、おめでとう。5位だって?シリーズ戦では最高位じゃないか?」
アレハンドロは、村井と同じ集団に居た。ランニングスタート時も、村井はアレハンドロに追い抜かれるのを確認していたが、あの位置から5位まで順位を上げたらしい。
「ありがとう!でも、目の前に3位がみえてたから少し残念だよ。」
村井とアレハンドロは、世界ジュニアで初めてであった時、殆ど同じ順位に居た。知らぬ間に大きな差をつけられてしまった事に村井は劣等感を感じずにはいられない。
それを象徴するかの様に、アレハンドロのすぐ脇にはドーピング検査員が付き従っている。成績上位者は、ゴール後ドーピング検査の実施を求められる事がある。
ドーピング検査を開始すると、選手は外部との接触が一切出来なくなる。その為、検査室に行くタイミングはその選手の任意で決められるのだが、その間に選手が不正をしたり、逃げ出したりしないよう、検査員が熱心な付き人のように常に付き従うのだ。
本来は、監視の意味を込めてそこに居るのだが、敗者である村井の今の目には、それはまるで家来を従える王のように見えた。一方自分は共などいない下々の者。ただの弱気から来るひがみだと分かっていても、何となくそう思えてしまい、村井はなるべく視界に検査員が入らないようにした。
村井の葛藤を知ってか知らずか、アレハンドロは明るい彼らしい調子で村井の肩を叩いてきた。
「ユーリの帰りは明日かい?良かったら今晩一緒にディナーなんてどうだい?」
村井の帰りの便は明日の昼だ。スケジュール的には全く問題無い。チームスタッフとも、特に食事を合わせなければならないという決まりはなかった。海外のレース後くらい、彼らにも自由過ごしてにしてもらいたい。アレハンドロの提案を断る理由はなかった。
ホテルのロビーのソファでスマートフォンを弄りながら時間を潰しているとアレハンドロが現れた。
「ごめんユーリ!お待たせ。」
「いや。あまり待ってないよ。」
スペイン語を母語とする彼の英語は訛りがあると言うが、村井にはよくわからなかった。アレハンドロと世界ジュニアで知り合って以降、レース会場では頻繁に話すようになっていたし、現地入りした際は練習を共にする事もあった。村井の英語は彼から殆ど教わっていたので、言ってしまえばアレハンドロの使う英語が、村井にとっての英語だった。
2人はホテル近くのレストランで食事をとることにした。席につき料理を注文する。アレハンドロのコーチと村井は知り合いなので、今回彼も同席するかと思ったが、姿はなかった。
「ダニエルは?」
村井はアレハンドロのコーチ・ダニエルの所在を聞いてみた。会場で会う事ができなかったので今回は帯同していないのかもしれない。
「来ているよ。だけど女子のチームメイトがレース中に落車してね。そっちの対応で忙しいって来れなかった。ユーリに会いたいってとても残念がっていたよ。」
「そっか。それは残念だな。またあのジョークを聞きたかったんだけど。」
ダニエルは、かなり快活な性格でよく冗談を言っては選手の気を和ませるような人だった。日本にはなかなか居ないタイプのコーチで、どんな練習中でもチーム内には笑顔と明るい雰囲気を絶やさないよう心掛けていた。
村井が合宿をしにメキシコの彼らのチームもとへ行った時も、期間中チームが暗い雰囲気になるタイミングは無かった。
プロとして活動している中でも、余暇としてのスポーツのあり方を忘れないようにし、あくまで競技は人生の一部に過ぎないと言う事を常日頃からチーム全体が大事にしていた。村井はアレハンドロを通じて当時の雰囲気を思い出しながら、彼との会話に花を咲かせた。
食事も終わり、近くのカフェでコーヒーを飲んでいるとダニエルが合流してきた。村井があまりにも懐かしむものだからアレハンドロが用事が終わり次第来るように連絡を入れてくれていたらしい。彼の粋なサプライズに村井は喜び、ダニエルと固く握手を交わした。
「ユーリ!久しぶり!去年のシリーズ最終戦以来だから丁度半年ぶりか!元気だったか?」
「お久しぶりです。ダニエル。また久々にあなたの指導を受けたいと思ってたところです。」
「ははっ!ジャパンのナショナルチャンピオンが何を言うか!私のチームからはユーリが初めてのナショナルチャンピオンだよ。2ヶ月合宿に来ただけのユーリが勝てたのに、いっつも私の指導を受けてるアレハンドロは、何故か勝ってくれないんだよ。こう見えて心臓が小せえから、タイトルレースは苦手なんだよ。なあ?アレハンドロ?」
ダニエルは村井の記憶にあるままの快活さとひょうきんさで現れた。脇でアレハンドロが苦い笑みを浮かべていた。
「悪いが何か食べていいか?アンナの落車の対応で昼から何も食ってないんだ。餓死しちまいそうだ。」
「コーチは少しくらい食べない方がいいですよ。その腹なら1ヶ月は大丈夫そうだ。」
脇にいたアレハンドロがコーチの裕福な腹をさして言う。そんなアレハンドロを小突きながら、ダニエルはカフェの店員にサンドイッチを注文していた。
そのやり取りを見て、村井の心には寂しさのような、懐かしさのような、どうしようのない感情が湧き上がってきた。村井は、ダニエルのジョークで笑顔を作ることによって、その押し殺すように努めた。
かなり大きめのサイズのサンドイッチを完食して、ダニエルも食後のコーヒーに辿り着いていた。アレハンドロは、サンドイッチがダニエルの胃袋に収まり切る前にマッサージがあるからと言って先にホテルへ引き上げていた。今回アレハンドロのチームはマッサージャーも帯同させていたらしい。このレースにかける本気度が伺える。
コーヒーを半分程まで飲み終え、ダニエルが、唐突に村井の顔を覗き込んできた。あまりの事に驚き、村井は反射的に身を引く。
ガタッと椅子がずれる音がして、店員がこちらに注目してきたが、村井は軽く首を振ることで特に用は無いことを伝えた。
「ユーリ。楽しめてるか?」
ダニエルは、村井の驚きなど気にせずそんな事を聞いてきた。普段であれば冗談混じりに「当たり前じゃないですか。」と返せるのだが、ここ最近感じている不自由さ。主に坪井が持ってくる仕事に対する不自由感が、村井にその問いに対して即答する事を拒ませた。ダニエルは、村井の中の変化を感じ取ったらしい。敏い人である。だからこそ彼は、指導者として大成しているのだろう。
「結果どうこうってわけじゃない。何というか、今のユーリからはうちに合宿に来た時みたいなハッピーさがないと思ってな。チームと上手く行ってないのか。」
ABCドリンクの実業団に入ってからは、チーム事情でダニエルのチームへ合宿へ行く事が出来なくなっていた。その事も相まって彼は心配してくれているのだろう。今の村井の心に彼の問いかけは響いた。知らず、口からポツリポツリと弱気な言葉が漏れる。
「はい。まあ。ちょっと上手く行ってなくて…。別に何か具体的にどうこうってわけじゃないんですが、会社の宣伝の仕事の為に練習時間が大幅に削られたり、合宿や練習も好きなように組めなかったり…。まあ、雇われの身ですから仕方ないんですけどね。」
ダニエルは、それだけ聞いて何となく察したらしい。腕を組んで椅子の背もたれに体を預け天井を仰いだ。
「まあな。スポーツ選手は露出が多けりゃ多いほどいい。認知度が高けりゃ高いほどいい。そういう意味では、ナショナルチャンピオンに2度もなったユーリはうってつけだよな。そして、そこから金を貰ってる以上、文句を言う筋合いは無いよな。」
ダニエルは、村井も理解していた事を再度口に出して言う。彼自身もプロのコーチとして今の村井に似た経験は何度もして来たのだろう。言葉の端々に村井に対する同意の念が感じ取れた。しかし、それが結局選手の我儘でしか無い事もわかっているという口振りだった。
「まあこればっかりは、どうしようも無いな。ユーリ本人の気の持ち用だろう。だけどなユーリ。俺達がスポーツに関わってる上で絶対に忘れちゃいけない事、覚えてるか。」
「楽しむ事…ですか。」
「その通り!わかってるじゃないか!いくらスポンサーから金をもらってるからと言って、夢を与える筈の俺達が夢を見られないんだったら、そんなの無理に決まってる。…もし、どうしても楽しめなくて苦しいんだったらうちに来たっていいんだぜ。ユーリを受け入れるくらいの事はできるさ。ジャパニーズの『ギリ』とか『ニンジョウ』とかが邪魔してんならそんな事考えるな。まずはユーリが楽しめる事が第一さ。そして、それを追い求めていいだけの強さを、ユーリは既に持っているだろう?」
村井は答えられなかった。魅力的な提案だった。きっとダニエルは村井がチームに移りたいといったら、本当に受け入れてくれるだろう。それでも良い気がした。でも、
「ありがとうございます。でも、やっぱりまだこのチームで、日本でやりたいんです。もう少し頑張ってみて、それでも駄目だったらそのときは…」
「ああ!いつでも歓迎するよ!ユーリの思うように思う事ができるようになる事を心から願っているよ。」
村井は思う。自分は人に恵まれている。だからこそ、頑張りたい。まだまだ弱音を吐いたりなんかしたくなかった。
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