2章

2-1鍛錬!春先の猛特訓・新谷丈



 高い湿度と塩素の匂い。広大な空間にポッカリと空いた縦25m横15m深さ平均120cmの穴。そこに満たされるのは塩素の濃い匂いを混ぜ合わせられた水。コモドスイミングクラブのスイミングプールである。


 日も落ち、夜が訪れて間も無いこの時間帯、このコモドスイミングクラブでは、競泳選手の小学生から高校生までの子供達が25mプールを行ったり来たりしていた。


 子供達が水面を叩く音とプールサイドに居るコーチの声が、壁に反響し、木霊する。生半可な声量では、目の前の人間にさえ声が届かない。そんな騒音が響くする環境の中、新谷丈は、そこに泳ぐ他の選手達と同じようにして、水面を叩く音をプールサイドに響き渡らせていた。


「丈!9秒5!」

 

「はいっ!」


 新谷が、壁にタッチし泳ぎ終えるとプールサイドに居た者がタイムを読み上げる。

 コモドスイミングクラブ、選手Aコースコーチの多古三四郎である。


 コモドスイミングクラブのコーチとして長年在籍する者で、新谷も高校生の頃に世話になっていた。大学生になり、トライアスロン部に入部してからは帰省の際に顔を出す程度だったが、3年前にプロ化した折にまた水泳の指導を仰ぐこととなった。


 歳は50代半ば。元競泳選手で、世界選手権出場経験もある。指導対象が高校生と言う事もあり、「競技力よりも人間力」をモットーにしているコーチである。

 しかし、その手腕は本物であり、今まで何人もの強豪スイマーを排出してきたやり手でもある。その分指導が厳しい事でも有名だが、新谷は寧ろその厳しさを求めて再びこのクラブに舞い戻って来た。


 午後6時からの2時間の練習を終えて、新谷はプールサイドに上がった。これをもって1日の練習が終了する。体が空っぽになるような感覚を覚え、しっかりと追い込みきれた事を知る。腹も空いている。帰ったらすぐにでも夕食だ。


 そんな新谷が荷物を片付けていると多古が話しかけてきた。


「丈。おつかれ。今日はなかなか良かったんじゃないか。体が浮いてる感じがあったよ。」


「ありがとうございます!最近、なんだか体の使い方がわかってきたような気がして。他の2種目も調子がいいんですよ。」


 新谷は多古の問いかけに対し、嬉しくて仕方ないと言った様子で腕をグルグルと回しながら自身の調子の良さについて説明した。


新谷のその様子を見て、多古も嬉しそうに目を細め、もう一つ問いを投げ掛けてきた。


「そっか。そういえば今はバイクとランはどうしてるんだっけ?」


「はい!バイクはお世話になってる自転車ショップの伝手で、プロロード選手達と週2で練習させてもらってます。ランも週2で、大学の駅伝部に混ぜてもらっています。どちらの方々にも凄く良くしてもらってます。」


 新谷の話を聞きながら、多古はその言葉を噛み締めるように2.3度深く頷いた。


「良かったね。本当に人との縁っていうのは大事になってくるから、感謝の気持ちを忘れないように!それで、もうプロなので恩返しはしっかりと結果で出来るように!」


 高校生の時に年少のクラスから多古のクラスに上がってきた時、まず最初に言われたのがこの感謝の気持ちだ。当時の新谷は正直イマイチ感謝ということに対して、ピンと来ていなかったが、プロ3年目にもなるとその印象は変わってくる。


 プロとして独立して活動を始めるようになって、まず最初にした事は練習環境の整備だった。1から10まで全てを一人でやる事は流石に難しいと新谷も理解していた。


 ましてや新谷は、指導者をつけていない。その為まず、新谷がそれまでに培ってきた人脈をフル活用し、それぞれの種目のプロフェッショナル達の元へ練習をさせてもらうお願いに回った。


 幸いな事に無下に追い返される事や、練習参加を許可してもらえないなどの事は無く、何処のチームも新谷の参入を快諾してくれた。


 次にスポンサー企業だ。活動費の援助を願うのだが、こちらもとても良い縁に恵まれた。おかげで新谷はプロ初年度から活動に十分な資金を援助してもらえる事になったし、2年目以降も良縁が多々あった。


 それまでは、人への感謝など、結局は上っ面の形だけのものでしたかないと斜に構えていた新谷も相次いで現れる良縁に考えを根底から改めた。


 世の中には本当に良い人達がいて、その人達のおかげで自分の様な仕事は回っている。その人と人を巡り合わせるのは間違いなく縁の力で、それは常日頃から感謝と尊敬の念を絶やさないものの所にしか巡ってこないと。


 カルト的な考え方に走るつもりは無いが、しかし「笑う門には福来たる」という言葉を新谷は本気で信じるようになった。なぜなら身を持って知ってしまったのだから。


 新谷はここに至るまでに良いも悪いも両方の自分を経験してきている。それらの経験を省みて、結局良い自分でいる方が良い縁が巡ってくることに気付いた。だからこそ、新谷は感謝を忘れないようにする。


 しかし、その中で新谷は偶に不思議に思うことがある。この良い状態の自分でいようとしていること事態はいいが、果たしてそれだけで、スポンサードや練習受け入れなど、新谷に対するいわゆる「投資」の根拠になり得るのだろうかという疑問だ。


 間違いなく、スポンサードは損して得とれの投資であるし、練習受け入れに関してもいくらかのネガティブなリスクの可能性を受け入れなければならない。


 それこそが新谷の人柄であると多くの人は言ってくれるが、新谷にしてみれば自分は残念ながらまだまだそんな素晴らしい人間にはなれていない。かと言って、自分にプロ選手としての価値が十分にあるかというとそれはNoだ。


 それどころか自分は、実業団チームを僅か一年で辞め、トライアスロン界内では変人扱いをされているいわば異端児である。


 広告塔としての役割や、影響を与える人物としての能力はあまりにも低い。


 では一体何なのかといつも考えるのだが、結局ここから先は考えが同じ所をグルグルと回るだけなので、大抵疲れて思考を辞める。


 そしていつも最終的には、とりあえず今ある縁に対して最大限の感謝と恩返しをする事を考え、自分自身の野望達成への階段を確実に踏みしめていくという事に辿り着くのだった。



 着替えを終え、コモドスイミングクラブを後にする。持てる全てを出し切って、力の一片も体内に残っていないかのような疲労感。しっかりと1日の練習をやりきれた事に対する幸福感を感じながら帰路につく。


 新谷のシーズン初戦は約30日後の3月末を予定している。

 

 今年こそは、トップカテゴリーのレースに出場してみせる。そこに辿り着くことができれば、自分は何かを掴む事ができる気がすると新谷は確信を持っていた。


 あと30日。今すべきことは、到達点を見据えながらも足元の一段を確実に登っていくことだ。


 明日の練習は、スイム、バイク、ラン共にそれぞれのチームとの練習で非常にハードになっている。


 新谷は武者震いした。毎日毎日クタクタになるまで練習し、翌日も自分が強くなる為に最大限必要だと思う練習を積み上げる事ができる。こんな幸福、普通なら有り得ない。


 新谷はそんな現状に最大限の感謝をし、まだ寒さの残る3月初頭の暗い夜道を街頭の灯りを頼りに家路を急いだ。


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