1-5転向・海老原颯人
「それでは、海老原選手はご自分であればこの競技で世界一になる事も夢では無いと。」
スポーツ雑誌の記者がそれまでの話を総括する様に質問を投げかけてきた。
質問をされた人物、海老原颯人は気持ち椅子に浅く腰掛け、非常にリラックスした様子で答えた。
「はい。トライアスロンのランは世界的に見てもまだまだ陸上の世界記録には遠く及ばないタイムで決着がついています。それはつまり、日本人でも十分通用する可能性があると言う事です。しかし、今の日本トライアスロン界にはランニングを得意とする選手はいません。僕は駅伝選手として実業団を経験済みですし、幼い頃は水泳で全国大会に出た事もあります。僕のランの10kmのベストタイムは、前回のオリンピックのトライアスロンの最後のラン10kmのタイムより速いです。それはつまり、ランニングを一緒にスタートすれば僕は勝つ事ができると言う事。それが、僕がこの競技でなら世界一になる事も十分可能だと思った根拠です。」
海老原颯人。28歳。
元新日本開発実業団駅伝部所属。大学・実業団と駅伝のトップ大会に数多く出場。
今年からプロトライアスリートに転向。
都内にあるカフェで海老原は記者と打ち合わせを行なっていた。オフィス街の一角にあるこのカフェは、平日の昼間となると周辺のオフィスで勤務している少し洒落た若いサラリーマン達がテイクアウトの品を受け取るためにひっきりなしに出入りしている。
海老原もまた、ブランド物のジャケットを羽織り、そのカフェの小洒落た雰囲気に負けない雰囲気を身に纏っていた。側から見れば彼がスポーツ選手であるなどとはわからないだろう。
海老原は、昨年末まで実業団の駅伝チームでランナーとして活躍していた。日本代表などの経験こそないものの、駅伝界でその名を知らないものは無く、その時代に則した整った顔も相まって多数のファンを抱えていた。
そんな彼が、駅伝界を去りトライアスロンという競技に転向するというニュースが流れ、駅伝界、トライアスロン界双方ともちょっとしたパニック状態になっていた。今回は駅伝選手時代から馴染みのあるファッション誌とトレーニング誌を混ぜ合わせた様な雑誌の取材だ。
「そうですか。それは楽しみですね。…しかし、一部では『トライアスロンと普通のランニングは違う。そんな簡単にいくはずがない』と言った意見も出ていますが、それについてはどうお考えでしょうか。」
相変わらずこの記者は、こういう事を平気で聞いてくる。
海老原は表情を崩さぬままそんな事を思ったが、それも彼と自分の信頼関係があってこそ。この記者と海老原との付き合いは長い。おそらく次に海老原が答える事に関しても何となく予想がついているだろう。
「はい。そういう意見があるのは知っていますし、僕もその通りだと思います。でも、少なくとも僕は条件さえ揃えば、オリンピック優勝タイムを超えられる実力を既に持っているのですから、後はその条件に合ったランニングのスタートを切れる様にスイムとバイクを調整していくだけです。方向性は決まってますから、後はやってみなくちゃわかりませんよ。」
海老原は堂々と答えた。言いたい奴には言わせておけばいい。自分は既に先を見据えている。そんな批判、最初から無いものと同じだ。
「やはりそうですか。心強いですね。有難うございました。取材は以上になります。」
そう言って記者は机の上を片付け始めた。丁度昼食時に差し掛かってきたらしい、カフェ内も混雑してきた。スーツ姿の人々が今度はカフェ内に止まるので、店内は一気に賑やかになった。カフェの雰囲気も相まって、ちょっとした催し物でも開かれているかの様な陽気な雰囲気がそこにあった。
海老原も荷物をまとめる事にした。今日はこの後練習を予定している。まずはスイムを何とかしなければ。ランは、しばらく力を入れなくても他のトライアスリートに遅れを取るほどになる気はしなかった。
「そういえば、これは取材とかじゃ無くて個人的な質問なんですが…。何で駅伝を辞めたんですか?噂ではチームとの不仲とか囁かれてますけど…。」
それはこの記者の純粋な興味だった。そういえばと海老原はまだそこのところを誰にも話していない事に気づいた。
「不仲とかじゃ無いですよ。チームからはそろそろ引退を仄めかされていましたし、僕自身駅伝でこれ以上は無いなと思っていたので。そんな時にトライアスロンの事を知って、自分でもできるんじゃ無いかと思って、世界一も夢じゃ無いと確信して、それで決断したんです。」
海老原にとってそれが全てだった。
陸上選手時代は、常に自分の前を誰かが走っていた。海老原が走るのは必ず誰かの後ろだった。それはおそらくこの世の多くの人間がそういう立場なのだろうし、そういうものだと理解もしていた。例え世界一になったって、結局そこは、前世界チャンピオンの後塵でしか無い。人類に歴史がある以上、最早誰も通ったことの無い真っ新な場所など、そう多くは残されていなかった。
しかし、『駅伝出身のトライアスリート』という肩書にはまだ誰の足跡もついていなかった。それどころか、それで本当に世界一になろうものなら、『前人未到の』という誰にも侵されない先駆者としての肩書を手に入れる事になる。
端的にいうと、歴史に名を残せるということだ。
どんな小さな世界であれ、第一人者となれば歴史に名が残る。そのことを想った時、海老原はトライアスリートへの転向を決断していた。
(この競技の歴史に自分の名を残す。自分が選手として生きた証を刻み付ける。)
陸上競技という何千年もの歴史がある競技に身を捧げてきた海老原にとって、それができるという事は何事にも変えがたい程の幸福だった。
記録は塗り替えられる。
記憶は忘れ去られていく。
しかし、起源というものは、絶対に無くならないものだ。
この世に自分の名前を刻み付ける。
自分はそういう存在になりたい。
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