1-4夢想・八木晃
「ア"ア"ア"ーー!!」
1月15日、午前1時39分。
日付けを跨いでから暫く経ったこの深夜に、学生向けの安アパートの1室でパソコンの画面に向けて唸る人物が居た。
八木晃。20歳。天保大学・経済学部経済学科2年。
昨年の全国大学生トライアスロン選手権の優勝者。
追記。只今絶賛課題レポート制作中。
昨年9月からの後期授業。トライアスロンの練習や遠征などと理由をつけては講義を休みまくり、出席点代わりのレポートばかりが溜まっていった。
その数実に8講義分。提出期限を2日後に控えた今、最後の追い込みをかけていた。
「うるさいよ。晃。近所迷惑だろう。」
そう言ってキッチンの方から友人の赤松博人が手に湯気の立つコーヒーカップを持って現れた。
赤松は八木の大学の友人で、焼肉を奢るという条件で此度の課題レポート作成の為に買収した。八木と同じアパートに住んでいる。
「そうは言ってもやってられるかよ。8つって多すぎだ。マクロ経済の飯沼なんか俺のこと嫌いだから絶対余計に多く出してるって。」
そう言って、八木はこのレポート地獄の一端を担う教授を呪った。
「レポート自体は去年休むっつった時点で出てたんだろう。溜めとくお前が悪い。」
そう言って赤松は八木が座るコタツの一角に身を滑り込ませた。ここに来る直前まで合コンに行っていたとかで、髪はキッチリセットされていたし、洋服も外出用の洒落たものを着ていた。
「合コンどうだった?」
八木は目の前の現実から一時的にでも逃れたくて、赤松に合コンの感想を求めた。
「どうって…。やっぱ女子大のお嬢様なだけあって皆レベル高かったよ。可愛いというか、綺麗な人達だったな。」
「良い子いた?」
「いた。連絡先も交換した。でも絶対お前には教えねぇ。」
赤松はモテる。見た目も良いし、性格もいい。それでいてご覧の通りの肉食系男子なので、八木の知る限りで彼女が途切れた事はなかった。
「そんな殺生な…。教えてくれぇ。」
「落第寸前のバカなんか、女子大のお嬢様達は相手にしねぇよ。さっさと自分のノルマ終えやがれ。俺はもう終わるぞ。」
見ると確かに、赤松はあと少しでレポートを終えようとしていた。八木にはまだ今やっているのともう一つ残っている。
「流石、首席候補は頼りになるなぁ。なあ、東?…東?」
八木は自分の向かい側で作業をしているはずの人物に声をかけた。しかし、返事が無い。不審に思いパソコンの画面から視線をそちらに移すと、居るはずの友人・東臣人が居ない。
「あれ?東どこ行った?」
慌てる八木に余裕の表情の赤松がコタツの下を指差す。
「寝落ちした。」
「東ぃぃ!」
聞くや否や八木はコタツ布団をめくり上げ、コタツ内に鎮座する東の足目掛け蹴りを入れた。コタツ内に充満していた暖気が途端に外界の冷気と入れ替わる。
「フガッ。いたっ。さむっ!な、なんだ!?て、敵襲か!?」
突然の出来事に安眠を妨害された東が跳ね起きる。元柔道選手で大柄の彼が跳ね起きるものだから、安いコタツは彼に突き上げられ、乗せるものを盛大にばら撒いた。
「あーあーあー。晃。手伝ってもらってるんだから。もうチョット寝かせてやれよ…。」
「それは違うぞ赤松。東がやってんのは、俺との共同レポート。既に俺の部分は書き終わってて、あとは東が書き込むだけなんだが、こいつ!提出明日…じゃなくてもう今日の8時だってのに一文字も書いてねんだ!だから書かせてんのっ!」
そう言いながら、八木は絶え間なく東を蹴り続ける。東が書かなければ、八木の単位も落ちる。意地でも寝かせまいという強い意志がそこにはあった。
「起きた!起きたからやめろって!書く書く!もう終わるから!」
八木、赤松、東。やっていることも性格も違う彼らだが、入学以降何となく気が合い、別段何をするわけでは無いのだが、良くこうして八木の部屋に集まっていた。
それぞれにそれぞれの事情があるから、互いに過度な干渉はしないし、かと言ってこう言って誰かが困った時に手を貸さないわけではない。絶妙な距離感を保つこの友人達を八木は心地よく思っていた。
1月15日、午前7時39分。
大学のウェブサイトで東の課題提出が終わり、丸一晩続いた課題の嵐が終わった。ワンルームの6畳間には死屍累々といった感じで、哀れな大学生3名が横たわっている。
「よかったな晃…。これで進級だぁ。焼肉…忘れんなよ…。」
「ホント助かったよ赤松…。マジで有難う…。」
「八木…焼肉なんて聞いてないけど…。」
「東…。お前は自分の課題やってただけだろう…。」
目の下に隈を作ってそれぞれが講義のために大学へ行く準備を始めた。そんな中、赤松がふと何か思い出したのかの様に言った。
「そう言えば晃。卒業後はどうすんの?これで4月から3回生じゃんか。やっぱ選手続けんの?」
徹夜明けの良く回らない頭でそんなことを言われても…。と八木は思ったが、別に良く考えて発言すべきことでもなかったので、半ば反射的にその問いに答えた。
「よくわかんない。でも普通に就職してるイメージは無いかな。このままトライピースにとってもらえたらそこでやるし、そうじゃなくても別の方法でやってると思う。赤松は?」
「俺は…。ちょっとやってみたいことができてさ。もしかしたら起業するかもしんない。」
赤松のその発言を八木と東が理解するのにたっぷり5秒はかかっただろう。突然の告白を受け、その情報が脳に渡り、徹夜明けの良く回らない頭でゆっくりと咀嚼して…、ようやく2人は自分がとるべきリアクションを導き出した。
「「起業!!??」」
「そんな驚く事じゃないだろう。今の世の中。学生だって企業すんだぜ。」
赤松は2人の驚きを他所に、なんてことない風に言う。
「だからさ。もし晃が選手続けて、俺の会社も大きくなったら、いつか広告塔としてサポートする日がくるかもなってさ。」
「へ、へぇー。ほぉー。ふぅーん…。」
あまりの事に八木は生返事にもならない、辛うじて文字の形を保っている程度の反応しか返せなかった。
その2人のやりとりを見て、東がポツリと言う。
「すごいな2人は。やりたい事がはっきり決まってて。」
その言葉に言い様のない遣る瀬無さのようなものを感じ、赤松は慌てて否定した。
「そんなんじゃないさ。俺も晃もこうなったらいいなって事があるだけで、まだ具体的な事が決まってるわけじゃないんだし。」
それでもと東は首を振った。
「それでも十分凄いさ。俺は柔道選手になりたくて、でも結局なれずに諦めてしまって、周りが行くからって何となく大学進んで、でも特にやりたいことってできなくて、多分このまま何にもないまま何となく卒業して何となく就職して何となく生きてくんだろうなって。」
朝日の眩しさに当てられてか、それとも別の何かの感情からか、側から見るだけでは判断つかない様な表情をして、東は言った。
「俺の夢はもう終わっちゃったから。あれくらい情熱を注げるもんをまだ見つけられてないから。だからこそ、今まさに夢に向かってってる2人といると凄い楽しいし、凄い羨ましく思うんだ。」
そうやって笑う東を見て、八木は何だかいたたまれない気持ちになり、明るくなる様にわざと強めに東の背中を叩いた。
「なに言ってんのさ!徹夜のしすぎで変なこと考えてんじゃねーの?ほら!朝飯食いいこうぜ!東の奢りな!」
「何で俺?!」
「変なこと言った罰。」
「いいねそれ!さんせー!」
赤松も乗っかってきて、3人で朝日に照らされる町を大学へ向けて歩き出した。
歩きながら、八木の頭には先程東の言った言葉が残って離れなかった。
(夢、か…。)
何となく面白そうだから始めた。やっていくうちにドンドン強くなって、知らぬうちに『学生最強』なんて呼ばれる様になってしまっていた。
ずっと何となく、流されるままに続けてきたから、きっとこれからもそうやって何となく選手になっていくのだろうと思っていた。
(でも、そうだよな…。)
赤松の様に挑戦をしようとする者もいる。
東の様に夢破れてなお、再び立ち上がろうとする者もいる。
(俺にとってのトライアスロンって何だ…?)
あの2人ほどの熱量を持って取り組めてる自信は無い。しかし、これ以外をしている自分など想像できない。
そして確かな事は、これから先、必ずこの2人ほどの熱量を持った者がトライアスロン界に現れると言う事。自分の前にそれが立ち塞がった時、自分はそれに勝つ事ができるのだろうか。
(夢、目標。いい加減俺もしっかり向き合わなきゃって事なのか。)
1日の始まりを告げる朝日は、それぞれの青年を頭上から照らす。その心に暗いものがあろうとなかろうと、光に照らされる限り影は皆に等しく生まれる。
八木の足元にも影はある。
今まで目を背けてきたそれと、いよいよ向き合う時が来た様だ。
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