1-3進退・朝川仁志



 冬晴れの快晴の空の下、東京に程近い場所にあるこの巨大テーマパークは、季節外れの暖かさが訪れる週末という事で多くの客でごった返していた。


 子供向けエリアの一角。そのエリアに併設されたテーブルベンチとパラソルの下に、そこに居る他の父親達と同じ様にして我が子のはしゃぐ姿を微笑ましく見守る男がいた。


 朝川仁志。34歳。トライアスロンクラブ、チームトライピース所属。

 

 プロとしての活動歴16年。オリンピック出場2回。日本選手権優勝回数3回。自身の世界ランキング過去最高順位は28位。名実共に日本のトライスロン界を引っ張る大ベテランも一度競技を離れれば、2児の父である。オフシーズンを利用して家族との貴重な時間を過ごしていた。


 4歳の息子の孝志と2歳の娘の理恵は、色とりどりのカラーボールで溢れているプールの中をそれがまるで本当の水の中であるかの様に泳ぐ真似をして遊んでいた。


 午前中は子供達にあちこち引っ張り回されて、体力に自信のある朝川もくたくたになってしまったのだが、子供の体力とは恐ろしいものがある。昼食を取り終えるや否や今度は親を置き、2人して遊びに行ってしまった。


 先程暑がって上着のコートを脱ぎ捨てていたので、2人とも季節外れの薄着だ。しかし、今日は暖かい。それこそ季節外れに。

 誰に似たのか息子、娘ともに割と暑がりだ。あのはしゃぎ様だと、もう一枚洋服を脱ぎ出すかもしれない。


 そこへ先程2人が脱ぎ捨てた上着のコートを回収し、朝川の妻、理子が朝川の向かい側に座った。今年で結婚5年目になる妻の理子と朝川は、今から15年前に現在も朝川が所属するチームトライピースで出会った。


 高校を卒業すると同時にトライピースとプロ契約を結んだ朝川は、自身の練習の傍ら、トライピースで一般会員のスクール指導も行っていた。理子は、そのスクールに通っていた会員で、朝川の2歳年上になる。大学のトライアスロンサークルの活動が殆ど無かった為、個人的にトライピースで練習をしていた。競技志向というよりは趣味で楽しんでいたので、大学卒業後はトライピースを退会し就職をしたが、退会後も朝川のレースなどには度々応援に来てくれていた。

 その後世間一般によく言われる、いわゆる大恋愛を経て、交際・結婚をするのだが、ここでは割愛する。

 一つ付け加えるなら、朝川は未だにその話を出されると赤面する。


「2人とも、いくら暖かいからって脱いじゃって…。ほんと誰に似たのかしらね。」


 理子が兄妹のコートを畳みながら先程朝川が考えていた事と同じ事を口にする。


「理子じゃないか?」


「私は絶っっ対、仁志だと思うんだけど。」


「そうかなぁ。」


 兄妹はいよいよヒートアップしてきたのか、プールの縁からカラーボールの海に向かってダイブして遊び始めた。飛び込む度に色とりどりのかなり大き目な水飛沫が周囲に飛び散る。固形物の海に顔面から飛び込むのだからそれなりに痛いはずなのだが、兄妹はボールの底から起き上がるとケラケラと笑っていた。そしてまた2人して縁から飛び込む。何かに取り憑かれたのかの様に何度も何度も飛び込んでは、ケラケラと笑い合いながらプールの淵に上がりまた飛び込んでいく。


「うわ…。何やってんのあの2人。」


 理子が引き気味に兄妹の奇行に対する感想を述べた。


「夏場はプールとか、連れてってやれないからなあ。」


「そういう事じゃないんじゃない…?」


「別に今他に誰も使ってないから、まあ大丈夫でしょ。」


「まあ、そうね。他の子が来たら辞めさせなきゃ。」


 よく晴れた空の下。のんびりとしたどこにでもある日常。しかし、朝川にとっては、「今」しか味わえない特別なもの。傍らに理子。目線の先には我が子達。朝川はなんて事ない日常の幸せを噛み締めていた。




 いくら暖かいとはいえ、季節は冬。日が傾き始めると途端に気温が下がる。朝川家は夕焼けが空を覆い始める頃、テーマパークを引き上げ、家路についた。

 ファミリータイプの車の後部座席では、丸一日遊び倒して疲れ果てた兄妹が安らかな寝息を立てていた。カーラジオからは、残り少ない日曜日を少しでも盛り上げようとするパーソナリティの妙に明るい声が聞こえる。

 

 車内は静かだった。兄妹の寝息。少し小さめのラジオの音声。そして規則的に訪れる車が高速道路のつなぎ目を踏む鈍い音。それらをBGMにして朝川は黙々と運転をしていた。先程から理子もやけに静かだった。


(寝てしまったのだろうか。今日は子供達をずっと追いかけ回していたからな。)


 朝川がチラリと助手席の理子の方を伺い見ると、理子はじっと朝川の横顔を眺めているところだった。理子が起きていたことに朝川は一瞬驚く。


「ど、どうした…?」


 進行方向を向き、運転に集中しながら朝川は理子に問いかけた。


「いや、やっぱりシーズン中と違って、表情がリラックスしてるというか、頬の曲線が緩いというか、太った?」


 ニコッと笑って(いる様に感じた)理子はそんなことを言う。


「毎晩毎晩出てくる料理が美味いからどうも食べ過ぎみたいでさ。」


「そりゃどうも。」


 そんな軽口を言い合い、車内に再び静寂が訪れる。


 休憩のためにパーキングエリアに訪れた。変わらず兄妹は寝息を立てている。朝川がトイレから戻り、車を発進させようとすると、それを遮る様に、ポツリと理子が言った。


「…コーチの話、来てるんだって?伊南さんから聞いた。」


 彼女にしては珍しく、こちらを慮る様に聞いてきた。朝川は、それが何だか可笑しく思えてしまった。


「ハハ。あのじいさん、外堀から埋めてきたか。」


 トライピースの創設者にして、朝川の指導者。伊南正一郎は、昨年の日本選手権後に朝川へ自身の後任にならないかと話をしてきていた。


「引退しないかって言われたの?」


 年を跨いでも朝川がYesかNoかさえも言わないものだから、伊南も朝川が決めかねていると思い、助け舟を出してくれたのだろう。人選としては最適解だ。流石の手腕である。


「すぐに引退って訳じゃないけど、プレイングコーチとして指導の方にも徐々に入っていってみないかって。ウチには有望な若手が多いしね。」


 ゴオォとそれまで気にもしなかった暖房の音が、やけに耳に入る様になった。


「第一線は退くってこと…?」


「…そうなるな。」


 そういうことだ。伊南は朝川に引退を勧めたわけだ。


 正直ここ数年、朝川も自身の体力の衰えは感じていた。具体的にどうというわけではないが、確実に限界は近い。疲労の残りも大きいし、回復も遅い。トップ選手として、いつもギリギリのところまで身体を追い込んできたからこそわかる、僅かな歯車の劣化。


 自分の身体は確実に全盛期を終えている。ここ数年は、その残滓に頼ってなんとか踏みとどまっている。伊南もそれをわかっていた。わかっていて、せめて苦しまぬ様にとトドメを刺してくれようとしている。


「どうするの…?」


 理子は、答えを求めてきた。いつだって彼女は、物事を決めかねがちな自分の背を押してくれた。ギリギリまで朝川の答えを待って、最後の最後のタイミングで背を押してくれる。


 彼女が答えを求めてきた。つまりはそういう事なのだ。


 自分は決断しなければならない。


「正直、選手としてさらに成長できることはもう難しいと思う。」


 朝川の独り言にも似た告白を理子は傍らでじっと聞いくれていた。


「コーチになれば、遠征は減るし、スケジュールも規則的になる。収入は…わかんないけど、講演会の依頼とかであまり変わらないか、寧ろ増えるくらいかもな。」


 理子がうなずき、先を促すのを感じた。


「何よりも家族みんなで過ごせる時間が増える。子供達にとっても大事なことだ。理子の負担も減るし、伊南さんにも楽させられるな。恩返しもそろそろしなきゃ。それに…」


「仁志はどうしたいの?」


 彼女のその言葉に、反射的にそちらを向く。


 理子は沈む夕陽に顔を照らされながら、真っ直ぐ浅川の眼を見てきた。


「私は仁志の妻で、家庭の事も一緒になって考えなきゃいけない。伊南さんにも朝川家として返すべき恩が沢山ある。でもね、」


 理子の視線が真っ直ぐに朝川を捕える。強くて純粋なその視線は、朝川を離さない。


「そういうもの全部の前に、私は【プロトライアスリート朝川仁志】の大ファンなの。この世の誰よりも貴方のファンなの。出会った時からずっと。


 …だから、そんな私としては、貴方には他の誰の為とかじゃなくて、貴方自身がこうしたい!っていう道を選んでほしいの。


 そのせいで周りになんと言われようとも、私だけはずっと貴方の味方。最後まで貴方のファンでいるつもり。


 すごく無責任かもしれないけど。私は妻として、そんな貴方を支える準備はできてるし、そんな貴方だから一緒になりたいって思ったの。


…ねぇ。仁志はどうしたいの?」




 後日、トライピースのクラブハウス。2階の伊南のデスク前に朝川は居た。

 この日の為に卸したスーツを着て。


「腹ァ決まったのか?」


 伊南が朝川に声を掛ける。


「はいっ。」


「で?どうすんだ?」


 朝川は一度目を伏せ、理子がそうしていたように真っ直ぐに伊南へ視線を向けた。


「引退します。今年末の日本選手権を以て。」


「目標は?」


「優勝。それ以外有り得ません。」


「キツイぞ。」


「わかってます。」


「若手はドンドン伸びてる。」


「それも知ってます。」


「遠征は?」


「例年通り。海外・国内しっかり周り切ります。」


「何故?キツイぞ。」


「全部やりきって、強さを証明したいんです。」


「強さ?」


「はい。労いの拍手はいりません。純粋に勝ちに行きます。」


「思い切ったな。」


「ええ。」


「理子は?」


「『わかった。』と。」


「強いな。」


「はい。」


 そこまで言って、朝川はニッと口角を上げた。その笑顔だけは、16年前から変わる事はない。


 「俺の最後の我儘を聞いてくれた。強い女ですよ。アイツは。」




 朝川仁志34歳。プロ生活最後のシーズンが幕を上げた。


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