1-2憂鬱・村井勇利
都内のとあるスタジオ。
断続的に焚かれるカメラのフラッシュが、その度に前に立つ者の陰影を背後のスクリーンに写し出していた。
カシャッ、カシャッ、と乾いた音が鳴り響くたびに現れる影は毎度微妙に姿を変えていた。手の位置、体の向き、目線、腰の角度、指の位置に至るまで、数センチ単位で変えながら、何度も何度も陰影がスクリーンに打ち付けられていた。
村井勇利。25歳。
株式会社ABCドリンク所属の実業団トライアスロン選手。
一昨年、昨年のトライアスロン日本選手権チャンピオン。
「少し休憩入りましょうか。」
カメラマンからの提案で撮影に休憩が入る。村井は、大きく伸びをして準備されたベンチに腰掛けてストレッチを始めた。
普段、丸1日中練習の為に動いているような人間は、同じ姿勢を維持する事について何か拒否反応でも起こすのだろうか。全身の細胞が動く事を求めている気がする。それくらい、今の村井は疲労していた。主に精神が。
昨年、トライアスロン日本選手権で若干24歳にして2連覇を成し遂げた。それのみならず、出場するレースはほぼ好成績。その為、世界ランキングも鰻登りで今勢いのある若手選手として、海外からも注目されていた。
そうなってからと言うもの、村井自身の見た目の良さもあり、こういったモデルのような仕事が相当の数舞い込んでくるようになった。その殆どがスポーツ用品のメーカーだったりするのだが、店先の広告に自身がスポーツ用品を身に着けてポーズをとっている写真が使われていたりすると内心嬉しかったりする。
しかし、数が多すぎる。オフシーズンとは言え、もう1月だ。トライアスリートのシーズンインは早い。選手によっては、2月に入ると早々にシーズンインをする者もいる。
村井もシーズンインを3月の頭に控えていた。そろそろ本格的な練習に入りたい。その為には、こう言った仕事の回数を減らす必要があるのだが…。
村井は自身の背後を仰ぎ見る。坪井がそこに座っていた。株式会社ABCドリンクの役員であり、実業団トライアスロン部の部長でもある彼は、こうなってからというもの村井のマネージャーの様な役回りを買って出るようになった。
それ自体は非常に有り難い事なのだが、自社の宣伝になるからと言って、ABCドリンクの競合会社でないメーカーからの依頼には、ほぼノーサインを出さないイエスマンと化していた。
今日もこの後に、有名トレーニング雑誌の取材がある。その後開放されるから、練習開始は日が落ちてからになるだろう。
ここのところ、村井は自分の選手としての在り方に疑問を感じていた。
日本選手権を連覇してからというもの、ひっきりなしにこのような仕事が舞い込んでくる。坪井が断らないから余計にだ。
それ自体は良い。選手として、広告塔の役割を果たせているのだから。
しかしだ。あまりにも露骨すぎやしないか。
少し、注目され始めたからと言ってメディアは自分を祀りあげる。世界を目指せる逸材現る!トライアスロンの普及!という大義名分を携えて。
村井は自分の事をまるで客寄せパンダの様に感じる事が増えてきた。
トライアスロンという動物園に客を呼び寄せる為に飼育を開始された新たなアイドル。
スポーツ選手になると言う事は、そこで勝ち上がるという事は、こういう事だとわかっていた。わかっていて、自らそれを望んで必死に練習を積んできた。
わからない。
スポーツ選手として、公人になる事。注目される事に憧れて、自身に適正があると思われ、何よりも楽しみを見出したこの競技で、国内の頂点という座に辿り着いた。ここから更に世界の舞台へと羽ばたいていくつもりだ。
それをもっと大勢の人間に見て欲しい、知って欲しい。
その為には、このような仕事が必要だという事もわかっていた。
しかし、今やそれ自体が飛び立つ村井を縛り付ける枷となりつつある。
わからない。
トライアスロンを盛り上げる為の客寄せパンダは、檻の中で飼われるのが正解なのか。
わからない。
更に上へ飛びたてと、せきたてるその者たちが、村井の鎖を引いている。
わからない。
選手としての自由とは。
もっと強くなって、檻も鎖も意味を成さない程大きな存在になったら、その答えも出るのだろうか。
「撮影入りましょうか!」
今はとりあえず、客寄せパンダの責務を全うしよう。それが自身にとって一番必要な事なはずだ。
今は待て。
時が来れば、檻も鎖もその戒めを解かなければならない時が来るはずだ。自分は飼われるだけのパンダじゃない。
海を泳ぎ、風を切り、大地を駆けるトライアスリートだ。シーズンが始まれば、自分はまた野に放たれる筈だ。そうでなければ、本来の仕事を全うできない。
その時こそがチャンスだ。
自分は人に飼えるような代物ではないと、知らしめるのだ。
それこそが、選手としての真の自由なのではないか?
村井は、再びカメラの前に躍り出る。目線の先には坪井が居る。
客寄せパンダはここで終わりだ。
どんなに見世物として扱われようとも、決して野生の心は忘れない。
隠し持つ牙がカメラのフラッシュで煌めかぬよう、心の奥にしまい込みながら、村井は静かにその牙を研いでいた。
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