ハートビート
大
1章
新年・新谷丈
年が明けた。
年越しを神社で迎える為の人でごった返す関東のとある神社。
冬場特有の乾いた大気にその音を響き渡らせる除夜の鐘は、先程丁度108回目の音を鳴らし、新年が訪れた事を告げた。
この時、東京の気温氷点下2度。しかし、この神社の境内は集まった人々の熱気で、そこまでの寒さは感じられなかった。ところ狭しと立ち並んだ出店の屋台の明かりが、今が深夜である事を忘れされる。年を跨ぎ、今やピークとなった人々の盛り上がりが、そのまま温度となって神社周辺を温めているかのようだった。
そんな年越しに浮かれる人波の中で、一人神妙な面持ちで賽銭箱の前を陣取って必死に手を合わせるものがいた。
新谷丈。26歳。男性。
職業、プロトライアスリート。
次々と参拝者が入れ替わる賽銭箱の目の前で、ただ一人先程から微動だにせずジッと手を合わせている。
賽銭の5円玉を108回目の鐘の音と同時に放り込んでからゆうに3分は経つ。念ずる強さが、何か湯気のように頭の上から立ち昇り、可視化できるのではないかと言うほどの集中力。その鬼気迫る雰囲気から、誘導員も声を掛けることができずにいた。
流石に周囲の人々も異変の眼を向け始めた頃、新谷は唐突に構えを解いた。そしてボソリと何か呟き、何事も無かったのかのようにその場を去った。
「今年は、特にキツイ1年になると思いますが、よろしくお願いします。」
新谷丈。プロ3年目。
大学卒業後、国内でも有数の強豪トライアスロン※実業団チーム(1つの会社が所持・運営をしているチーム。会社の1部署として組み込まれている事が多い。)に入部するも、僅か1年で退部。その退部理由が
「競技に対するチームとの価値観の相違」
今日日売れないロックバンドの解散理由でもなかなか聞かないような理由を平然と会社側に進言するものであるから、その噂は瞬く間に日本中のトライアスリートの耳に入る事となった。
ジュニア時代から何かと素行の奇妙さが目立つ選手であったが、ここ数年は特に酷い。
そんな奇妙極まりない彼が、全身全霊を持って祈ったのは、今シーズンの益々な発展。
奇妙な彼にしては、至極普通な願いであるが、それ程までに今年の彼には【成績】というものが求められていた。
その行動の珍味さとそのキャラクターで、新谷はトライアスロン界内でもそれなりに認知度の高い選手であった。その為、独立を発表するとそれを面白がった企業がスポンサードに名乗りを上げ、比較的すぐにプロとしての活動の目処がたった。
それから3年。スポンサードの打ち切りや新規スポンサー企業の獲得など、それなりに変化のあるシーズンを送ってきていたが、彼は選手として、どうしても腑に落ち無い点があった。それは、
トップカテゴリーのレースに未だ出場を果たせていない事。
である。毎シーズン毎シーズン目前まで迫るその出場権を既の所で逃していた。スポンサー企業の面々は、「まだ若いから」や「日本人選手としては、なかなかに好成績だ」など、労いの言葉を掛けてくれるが、新谷は満足しない。
何か何でも今年中にトップカテゴリーのレースに出て、選手としての価値を示してみせる。
新谷は、普段は絶対にしないような「神へ祈る」という行為を用いて、文字通り藁にもすがる思いでこの年越しを迎えていた。
境内を離れ、隣接する幹線道路に行くと少し先に停車する車からクラクションが鳴らされた。
新谷がそこまで行くと、助手席の窓が引き下げられ、中から新谷の数少ない友人の顔が現れた。
「遅いよ丈!いつまで祈ってんだ。日が昇っちまうぜ!」
丈は、このままこの友人の車で初日の出を拝みに行く約束をしていた。
「いや、ここの神様。なかなか俺の願いを聞き入れてくれなくてさ。」
「知ってるか?勝利の女神って、色男にしか微笑まないんだってよ。」
「じゃあ俺は心配無いな。祈らなくても向こうから微笑みを寄越してくる。」
「その自信があるなら神様の力に縋る必要も無いだろうよ。」
呆れつつも友人は助手席のドアを開けてくれた。新谷はスルリとそこに入り込むとそのままシートベルトを着け着席した。
「アッキは?」
「論文書いてる。丈との友情より次の学会での発表だってさ。」
「じゃあ、未来の大先生を迎えに行きますか。」
「引っ張り出すか!」
「もちろん!」
若手とベテランの狭間に居る青年は、年明け直後のまだ暗い幹線道路を日の昇る方に向かって走り出した。
彼の一年が始まる。
↓【次回予告】
スポーツ選手は広告塔だ。それも俺はわかってる。競技をする以外にも公人として人々に注目される事も大事な仕事だ。でも、なんだろうか。この息苦しさは…。
次回、【ハートビート】1-2「憂鬱・村井勇利」。よろしくお願いいたします。
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