豆井さんの話
柿尊慈
豆井さんの話
人魚に、ドロップキックされた。今思えば、本当に意味がわからない。私は人魚をその時に初めて見たものだから、予想できなかったのだ。人魚の攻撃方法など、せめて尻尾ビンタだろうと思っていた。
気晴らしに海に行き、遠くの方に見える名前も知らない島を眺めながら、何となく転がっていた小石を空に目がけてぶん投げた。届くわけもないのに。
そして、空どころか左斜め前方に――そこにあった岩場を目がけて投げたかのような放物線を描いて石は飛んでいき、数秒後にはパリンと音がした。もちろん、岩の砕けた音ではない。小石で岩が砕けるはずがなかった。
私はその「ものが砕けた音」への好奇心と罪悪感から、うっかり岩の方へ忍び足で近づいてしまったのである。
岩の裏からひょいっと顔を見せた美女に怯む。彼女に脚がなかったことでさらに驚いた私は、そのグロテスクながらも美しい尾による華麗な跳躍から繰り出されるラ○ダー・キック、もといマーメイド・キックに対応できず、顔面にドロップキックを受けたのである。
私の体は大きく仰け反って、砂浜に倒れた。頭をダイレクトにぶつけなかったので、意識はハッキリしている。じゃりりと、不快な音がした。ああ、服が砂まみれになっただろうな。背中に砂が入った気がする。空がとても青く見えた。
「――何してくれんのよ!」
声が聞こえる。おそらく、人魚のものだろう。何してくれんのよ? こっちのセリフだ。初対面でドロップキックしてくる人魚がいるかよ。というか、人魚っていたんだな。
数分間の気絶から目が覚めると、例の人魚は波打ち際で何かを手探りで探しているようだった。バシャバシャと飛沫が上がる。
「……何を、探してるの?」
仰向けになったまま、首だけを向けて話しかけた。
「あんたのせいでどこかに行った、20万円よ」
20万円、ですか。
人魚からお金の話が飛び出てくるとは思わなかったので、私はしばらく言葉が出てこなかった。「宝物の真珠を探しているの」とかそういうのを想像していたけど、20万円とは随分俗っぽいな。人魚の世界にも貨幣が必要ということか。どこに行ってもお金は必需品だというわけだ。
振り返った彼女の顔を、改めてまじまじと見てみる。美人だが、気の強そうな目をしていた。ゆるくパーマのかかった赤いロングヘアーは、水滴と砂粒が光って幻想的な雰囲気をかもし出している。あんな岩場にいたのだから肌は日に焼けているのかと思ったが、そうでもないらしい。シミや傷ひとつない、美しい肌。こちらも、砂粒のせいで遠目にはキラキラと光っている。
対して私の方は、シンプルに砂まみれだ。遠目に見たって綺麗ではないだろう。どういうことだ。光る砂粒だけが意識的に彼女の方を選んでいるようではないか。私は、砂にさえも選んでもらえない女……。
「ちょっと」
などと悲観していたら、彼女はいつの間にか私の頭の近くで四つんばいになっていた。上から、覗きこむように話しかけられる。胸に張り付いた貝殻は、水着扱いなのか下着扱いなのか。そんなどうでもいいことを考える。
「あんたも探しなさいよ、20万円」
「――ちょっと、何言ってるかわかんないです」
砂を投げつけられた。目と鼻と口に侵入する。
「何をするだァ!」
砂を吐き出しながら、私は抗議の言葉を発した。味はしないが、ひたすらに不快である。ほとんど目を瞑った状態で、波の音がする方へほふく前進した。水にありついた私は、顔をつっこみ手で砂を洗い落とす。しょっぱい。
「あんたのせいでなくなったんだから、20万円」
「私はただ、石を投げただけじゃないの」
「その石のせいでボトルメールが割れたって言ってるのよ!」
びしょびしょの成人女性と人魚が四つんばいのまま言い争う、奇妙な光景。
「……ボトルメール?」
私が疑問符をつけて言葉を反復すると、彼女はこくりと頷いた。
「私はご覧の通り人魚で、普段はうまく変装して生活してるの。脚を隠すロングスカートを履いて車イスに乗っていれば、注意深く観察されたり触られたりしない限りはバレないというわけ。あなたがこの街の住人なら、もしかすると知らず知らずのうちに、今まで私とすれ違ってるかもしれないわね。
でも、人魚の姿で誰かに会ったのはあなたがはじめてかもしれない。こんな体だから街で働いたりできないし……。街に行くのは、食料を買いに行くときだけ。
どうして働けない私が食料を手にするだけのお金を持っているのかというと、それはさっきのボトルメールがあるから。潮の流れから考えるに、たぶんあそこに見える島から流されてると思うのね。1万円札が20枚分丸められて、1枚のメモみたいな紙も一緒に同封されているの。美しい人魚へ。そんな言葉が書かれているわ。
それが毎月、流れ着いてくるわけ。このあたりの人魚は私しかいないから、宛て先も私だろうなってことで、ありがたく頂戴してるのよ。そしてさっき、それが流れ着いてきて、いざコルクを抜こうという段になったんだけど……」
私の投げた石がビンを割り、中身は海へ沈んでいく……。
「そういうわけで、私のここ1ヶ月の生活費は海の藻屑と化したわけ」
「……はあ、それはご愁傷様です」
私は踵を返す。瞬間、すさまじい衝撃が右の腰を襲う。私の体は、左方向へ無様にすっ飛んでいく。再び、砂粒にまみれる。
「少なくともあなたには、私の生活を1ヶ月支える義務があると思うの」
尾ひれをしならせながら彼女が言う。あれか。あれが私の体を吹っ飛ばしたのだ。
「そうしてあげたいのは、山々なんだけど……」
私はスーツの砂を叩き落としながら言った。
「実は私、今失業中なの」
「は?」
人魚は不服そうな顔をする。
そんな顔されても。怒りたいのはこっちだよ。
「ジュエリーショップに勤めてたんだけどね」
私は、あの悲劇を思い出す。
「昨晩、そこに強盗が入ったわけ。酷い話よ。入口のガラスは粉微塵。警察が駆けつけたときには、もうもぬけの殻って感じ。被害総額は計算したくないほどで、最近このあたりで活動してる強盗グループの犯行に違いないだろう、ってことになったのね。
ただ、昨晩私が戸締りを担当していたんだけど、たまたま1ヶ所施錠が不十分なところがあったのよ。そこに目をつけられちゃって、強盗に遭ったのはあなたのせいですよってクビにされたわけ。酷いと思わない? 鍵なんか閉めててもガラスぶち破られたらどうしようもないじゃない」
で、突然の失業に行き場のない怒りを覚え、海に来てみたんだけど。まさか、人魚に怒られることになるなんて。なんて日だよ、本当に。
人魚の顔がより曇る。しかしその表情には、先程に比べて少しだけ同情の色が混ざっているように見えた。
「そういうわけで、多少貯蓄はあるけど私自身あなたの面倒を見切れるかわからないのよ」
「関係ないわ。気合でどうにかしてちょうだい」
「どうにかできるといいなぁ」
私はため息混じりに言う。
「――でもとりあえず、あなたが安心して生活できるように努力はしてみるから。何となく、心当たりはあるしね」
ここで私は、ひとつのことに気づく。
「そういえば、名前を聞いてなかったわね。私は
私が尋ねると、人魚は腕を組んで自信たっぷりに答えた。
「――
「豆井ね。よろしく」
「違う。豆井さん。【さん】が大切だから。……豆井さん。はい、どうぞ」
「豆井さん」
「よろしい」
「マーメイドの豆井さんか。……変な名前」
尾ひれが飛んでくる。豆井さんの強烈なビンタが、私の左側頭部に炸裂した。何度目かの、砂浜ダイブ。
私はそのまま、数分間気絶した。豆井さんの話によれば、私は「宝石を返せ」と恨み言をずっと呟いていたようである。
このガラスが破れたら、宝石ではなく海の動物たちが盗まれてしまうだろう。いっそ例の強盗たちも、今晩あたりここに忍び込んでペンギンでも盗んでいってくれないものだろうか。
「――ちょっと」
車イスに腰かけているせいで先程よりも幾分か可愛らしく見える豆井さんが、私を見上げながら目を細めた。
「何ですか?」
仮にも豆井「さん」なので、私は敬語を使うことにしている。
「ここ、どこよ?」
「……水族館ですけど?」
海沿いの、私の住む街。この街が誇る魅力のひとつが、この水族館だ。
豆井さんは首を振る。
「そういうことを聞いてるんじゃないの。どうして、ここにいるのかってことよ」
「ここなら、人魚の面倒も見てくれるんじゃないかなって」
脇腹にパンチが飛んでくるが、大したことはない。尾ひれの威力は相当なものだったが、上半身だけはただの成人女性と変わらないのだろう。豆井さんのパンチは私を吹き飛ばすことなく、私はかよわい彼女を見下ろしてにやりとする。
例の20万円で衣料品なども揃えているらしい豆井さんは、脚を隠すためにどうしてもロングスカートを履かなければならなかった。美人ではあるが、気の強さはどうしても隠せないので、スカートの色によってはスケバンに見えなくもない。というか、本人はスカートが嫌いということである。
白いブラウスがよく似合うが、これを何着も持っているらしい。人魚にオシャレも何もないでしょうと彼女は言ったが、なるほどたしかに、私も仕事のときのスーツ以外はどこに行くにもスウェットなので、そのへんは気が合うかもしれないな。
豆井さんは人魚なので、普通の魚には興味を示さなかったのだが、自身がほとんど海面に住んでいることもあって、やたらと深海魚には目を光らせていた。そんな調子で、水族館を満喫していく。
施設をほとんど回り終わって、あとはお土産屋さんというあたりまで来る。そこで私は、最後の展示物に目を向けた。
「この街に伝わる人魚伝説、ですって」
水族館の青い壁に、白い文字で書かれている。これまでの展示に比べればかなり小さい物で、普段だったら目もくれないものだったが、今日ばかりは違った。その人魚が、隣で車イスを漕いでいるのだ。
ふと、その展示物の向かいのベンチに、姿勢のいいおばあさんが座っているのに気づく。そして彼女が、おそらくはその人魚伝説を読んでいるのだろうことにも気づき、私は少しだけ体をズラす。その距離で、この文字が高齢の方に見えるかはわからないけれど。
この街の海から見える小さな島には、かつて人魚が住んでいたという。
ある日、そこへひとりの男が流れ着いた。男は記憶を失っており、自分が何者かもわからない。人魚たちは人間を恐れていたが、ひとりの人魚だけは彼を献身的に看病した。男と人魚の仲は深まり、やがて愛し合うようになる。
人魚族には人間になる方法――満月の夜に、
しかしある時、人魚の島に海賊たちがやってきて、島のいたるところで乱暴を働いた。人魚たちは島の外へ逃げていく。男を愛した人魚は、最後まで添い遂げるつもりだったが、男は彼女を海へと突き落とし、逃がしてしまう。
男は海賊たちを振り返り、死を覚悟したが、海賊の船長の言葉は次のようなものだった。
「――待たせたな、助けに来たぜ」
男は、自分が海賊であることを思い出す。海賊たちは、航海中に海へ落ちた彼を探していたのである。
しかし男は、人魚のひとりを愛していた。どこかへ逃がした彼女といつか再会したとき、海賊として会うわけにはいかない。海賊を抜けさせてくれと、男は懇願した。
海賊たちは反対したが、最終的に船長は彼の脱退を許した。記憶を失っていては、海の世界に戻っても足手まといになるだけだ、と。
そして船長は、餞別として宝の一部を島に置いていくことにした。いつか彼が恋人と再会したとき、ふたりの生活に役立つようにと。男は感謝した。海賊は去っていく。そして島は、男ひとりだけになった。
いつ彼女が戻ってきてもいいように、男はひとり、恋人を待ち続ける……。
恋人に逃がされた人魚は、この街に辿り着いた。
人魚が突然現れたとなればどんな目に遭うか、海賊の暴力を見たばかりの彼女には容易に想像できる。人魚は人間になることにした。人間社会に溶け込んで生活し、落ち着いた頃に恋人に会いにいけばいい。
満月の夜、人魚は変化の歌を歌った。見る見るうちに、彼女の体は人間のものへと変化していく。彼女は人間として生活した。いつかまた、あの島へ帰るために。
しかし人魚は、人間になる副作用のことを失念していた。海に愛された人魚という種族。それを捨てるということは、海の怒りを買うことであり、海に憎まれるということであった。
彼女は海に脅えるようになる。恋人に会いに行くべく砂浜に立っても、脚がすくんで動かない。代わりに腕で這おうとしても、腕が海に浸かる直前で震えが止まらない。どうにか水に入っても、今度は呼吸がうまくできない。何度も溺れ、何度も死にかけ、何度涙を流しても、彼女は海に許してもらえない。猟師に船を出してもらっても、必ず船が転覆する。そして戒めるように、彼女だけが生き延びてしまうのだ。
男は待った。いつかふたりで暮らすための財宝と共に。いつまでも、恋人を待ち続けた。
女は待った。自分を憎む青い海。その向こうの島に想いを馳せて。いつまでも、恋人を待ち続けた。
ふたりは今も、待ち続けている。時代が変わっても、愛は変わらずとも、ふたりは決して、再会することはないのだ――。
20代半ばになった私の涙腺は、多感だった青春時代よりもかなり緩くなっており、人魚伝説を読み終えた頃には、水族館の床に涙のシミをつくるほどであった。
「そんなことがあったんですね、豆井さん……」
私が涙声で言うと、彼女はバッサリと言い放つ。
「私じゃないわよ、これ」
「――え?」
「私は人間になってないでしょうが」
……たしかに、そうだ。
じゃあ、何なんですか、このお話は。
「あくまでも伝説、ってことでしょ」
豆井さんはため息混じりに言う。
「たしかに、人魚が人間になる方法なんかは、私が聞いていた通りだけど。でも、人魚と人間が愛し合ったとか言われても、何かむず痒い感じがするのよね。そりゃ、話としては面白いでしょうけど、お涙頂戴的に受け取ってしまうというか……。私、人間の男に惹かれたことないし」
お涙頂戴とは、随分な言い様だ。まるで、まんまと涙を流している私がバカみたいではないか。
ふと、私は彼女のある発言が気にかかる。
「人魚が人間になれるのは、本当なんですね」
豆井さんは頷く。
「副作用については、聞いたことなかったけどね。それに、人間になれるといっても人魚だって最初から人間に近いんだから、両脚が生えるとかそういうレベルの変化でしょ? 人間になっても、たまにウロコが体表から落ちるって聞いたこともあるわ。見かけ上は人間に見えるけど、人魚であることから完全には逃げられないのね。こうやって、時折脚を隠して陸で生活しなきゃいけないのは確かに窮屈だけど、かといってずっと陸で生活してる方がいいとは思えないわ」
豆井さんは、お土産屋さんの方へ車イスを進めた。
さすがに、海の生き物だから水族館、という考えは安直過ぎただろうか。
よく考えたら、もしこの水族館に豆井さんが引き取られたら、彼女は明日からガラスの向こうで展示されることになるのだ。私は少しだけ反省した。
相変わらず、おばあさんは座っている。これだけのんびりとした、穏やかな環境の中に、人魚なんてものが入り込んだら大変な騒ぎになるかもしれない。
1ヶ月の、辛抱だ。この1ヶ月間、豆井さんの世話をすれば、きっと来月にはまた20万円の入ったボトルメールが流れてきて、彼女は自分で生活できるようになるだろう。それまで、少し我慢すればいいだけじゃないか。
月の綺麗な夜である。
水族館デートを終えた私たちは、豆井さんの住んでいる海へ戻って来た。
私の両腕には、ジンベイザメのぬいぐるみが抱えられている。豆井さんが水族館のお土産屋さんで気に入ったもので、2時間ほどハンメーヘッドシャークの方がいいかもと悩んだ挙句、こっちに決まった。
豆井さんは飽きもせず、ジンベイザメのぬいぐるみを恍惚とした表情で見つめ続ける。私はというと、改めて大きな海を前にして、明日からの自分の生活を想った。収入を得られる仕事からは追い出されている。職を探しながらも、この哀れなマーメイドの面倒も見なければならない。なんて理不尽。どうかボトルメールを送っている誰か。私の分の給与も、ボトルに詰めてくれませんか。
ぼんやりとしているうちに、あたりは真っ暗になる。空腹を忘れ、時計を見るのも忘れていたが、おそらくは日が替わったころなのではないだろうか。黒い海が、恐ろしさのようなものを纏い始める。
突然。
穏やかな浜辺に騒々しい足音が響いて、私たちは岩場の陰に隠れた。豆井さんの姿を見られてはまずいというのもあったが、何だか不穏な気配がしたからである。
真っ黒い服装に身を包んだ二人組の男たちが、服と同化するような黒いバッグを抱えて海の方へ走ってきた。何が入っているのかはわからないが、どちらのバッグもはち切れそうなくらいに膨れていて、落とさないように抱えるのが大変そうである。彼らが普通の人の格好をしていれば「持ちましょうか?」なんて親切心を働かせてもよかったのだが、どう見ても身なりが只者ではなかったので、私はしばらく様子を見ることにした。
「――こんな欲張ったら持てねぇよ!」
男のひとりが、やや自棄になって荷物を砂浜に投げ出す。乱暴に扱ったので、ガチャリと音がする。おそらく、バッグの中身が音源だろう。
「雑に扱うな! 価値が下がったらどうしてくれんだ!」
もうひとりの男が、バッグを大事そうに抱えたまま叫んだ。サングラスのせいで、その表情は全く見えない。真正面から顔を覗きこんでも、今の彼らなら私たちに気づかなそうな気もしたが、さすがにそんな勇気はないので、私は彼らの言葉により耳を傾けることにした。
「どうせまたどこかから盗んでくるんだからよ! 1回の量を減らそうぜ! これじゃ重すぎてロクに動けねぇ! 捕まるリスクが高まっちまうよ!」
荷物を投げた男が叫んだ。窮屈そうにしていたサングラスを外す。眼光は鋭いが目が細く、逃亡犯のような雰囲気の顔立ちだった。
もうひとりの男が、頭を掻きながら返す。
「何回も何回も盗んだら、それこそ捕まる可能性が高まっちまうだろうが。俺の計算によれば、あと2~3回成功すれば俺たちが一生暮らしていけるだけの額になる。楽するために量を減らして、回数増やしたせいで捕まったら本末転倒だ。手抜きはダメだ。常にベストを尽くすんだよ」
私は、この時には何となく、彼らふたりの正体のようなものに気づき始めていた。ベストを尽くす、か。真っ当じゃない人が真っ当なことを言っていることがおかしくて、つい私は鼻で笑ってしまう。
「――おい、今何か音がしたぞ」
そしてその空気の音が、未だサングラスをつけている男の耳に入ってしまったらしい。今更、私は口元を押さえる。
「ボートをこのあたりまで漕いで来い。島に荷物を運ぶついでに――誰かに聞かれちまったなら、そいつらを海の真ん中で捨てちまおう」
物騒な言葉に、私は冷や汗をかく。
男たちは、善良なる市民ではない。これは間違いなかった。そんな彼らが人魚を見つけたらどうするだろうか。
――逃げて。
豆井さんに伝えようと思ったその時、私は彼女の姿が近くにないことに気づく。
豆井さんは、どこに行ったんだ? まさか、私を置いて逃げたんじゃ――。
などと考えていたら、低い呻き声が聞こえてきた。豆井さんのものではない。ばたりと何かが砂浜に倒れる音がして、私は恐る恐る岩陰から様子を窺う。
そこには、華麗に跳躍したかと思うと、空中で前方向に1回転し、勢いのついた踵落としを男性に喰らわせる人魚の姿があった。既に倒れていた男に加えて、今さっき踵落とし(厳密には踵ではなく、言うなれば尾ひれ落とし)を受けた目の細い男も、顔面から砂に突っ込む。
見事な着地を決めた豆井さんが、私の方を振り返って親指を立てる。
人魚のコスプレだと言い張って、女子プロレスラーとかになった方がいいんじゃないだろうか。そんなことを思う。
そして、私は倒れるふたりの男に、少しだけ同情した。いや、同情というのは少し違うかもしれない。なんだか、仲間意識のようなものを感じたのである。
痛いよね、その人のキック。人じゃなくて、人魚だけど。
人魚に出会ったのも、ドロップキックされたのも初めてだったわけだが、そういえばこれも初めての経験だな。そんなことを考えながら、私はひたすらに砂を固めていく。夏の昼時なら絵になっただろうが、冬の夜にこれをやると、やたらと事件性が増してしまうような気がする。
不審な男をふたり叩きのめした豆井さんだったが、このままにしておくと目が覚めたときに手痛い反撃を受けることになるだろうということで、私たちは、地面に倒れた男たちに砂風呂をプレゼントすることにした。要するに、身動きが取れないよう大量の砂を被せているのだ。
「こいつら、強盗よね?」
豆井さんが、細目の男に砂を被せながら言った。窮屈なスカートを脱ぎ捨てて、のびのびと尾ひれを伸ばしている。
「まあ、そうだろうね。バッグの中を見た感じだと……」
もうひとりの男に乗せた砂を手でペシペシと叩く私は、離れたところで転がっているバッグを見ながら答えた。
中身は、大量の現金。バッグいっぱいに1万円札が詰め込まれているのを見た私の感想は、これだけあるとあまりありがたみを感じられないな、というものだった。ビンに20万円が入ってた方が、よほどありがたみを感じられるだろう。
「――豆井さん。私の推理、聞いてくれますか?」
十分過ぎるほどの砂を被せた私は、砂山に手を置いたまま、彼女に尋ねた。
「ええ、どうぞ」
彼女は妥協せず、まだまだ砂を固めていく。私はそれを見ながら、今日の出来事を整理する。
「まず、豆井さんは毎月、現金の入ったボトルメールを受け取っている。ここから見える、遠くのあの島から。そしてこのあたりでは、あれ以外に島は見えない。誰から送られているのかもわからないし、その現金がどのようにして得られたものかも想像つかない。たくさんの人が住んでいるようには見えないから、貨幣が流通しているとも思えないし。
そしてこの――ロクな生き方をしていないだろうふたりの男は、あのバッグを島に運ぼうとしていた。バッグの中身は、大量の現金。もちろん島っていうのは、今も見えるあの島以外に考えられない。
そこから導き出される、ひとつの推理は――」
私は少しだけ、言葉を溜める。
「――ふたりの男のうち、どちらか、あるいは両方が、豆井さんにボトルメールを送っている張本人じゃないか、ってことなんですけど」
「……この男たちが?」
豆井さんは、驚かない。
「じゃなきゃわざわざ、あんな島に大量の現金を運んだりしないじゃないですか」
「――何のために?」
「だから、豆井さんに現金を届けるため――」
「その行為の理由の話をしてるの」
食い気味に言われ、私はむっとした。
顔を上げる。月明かりに照らされた彼女の横顔は美しく、暴力的な尾ひれさえなければ、とても絵になると思った。
「誰が、何のために、私に、ボトルメールを――」
「うわっ!? 何だよ、これ!?」
私たちの会話は、目を覚ましたグラサン男の叫び声に掻き消される。
その声がきっかけになったのか、細めの男も目を開くと、自分の置かれている状況に気づき、ジタバタともがき始めた。しかし被された砂の量は相当なもので、成人男性が動いたところでビクともしない。
「お前、何だその脚!? まるで人魚じゃねぇか!」
細目が言った。その言葉に、グラサンも驚く。私はちらりと豆井さんを見る。少しだけ、彼女の瞳が曇ったような気がした。
私は、文字通り手も足も出ない男たちを見下ろす。ひとつ、気になることがあった。
「――ねぇ、あんたたち。昨晩、この街の宝石店で強盗した?」
私の言葉に、細目が反応する。
「ああ、そうだ。俺たちは昨晩の宝石強盗。そして、この頃この街を騒がせている、連続強盗犯さ!」
自棄になったように、細い目の男は堂々と言った。その様子に、グラサンが何か言いたげに口を開く。それ以上は止めろ、とでも言うつもりだろうか。
私は砂をひと掴みすると、細目の口の中にもっさりと落としこんだ。細目はひどくむせ返るが、仰向けになっているせいでうまく砂を吐き出せない。
プロポーズするには、最高のロケーションだ。
月の浮かぶ水面を、ふたりを乗せたボートがゆらゆらと、波に揺れている。まるで、外国の映画のワンシーンのようではないか。海の生き物たちが、歌でお祝いをしてくれそうな雰囲気である。
「あいつら、私を見て驚いたわ」
オールを漕ぐ労働を私に任せ切って、豆井さんは目を瞑って言った。
「――落ち込むこと、ないですよ」
慰めるように、私は言ってみる。彼女は首を振った。
「いや、あんな奴らの言うことを気にしてるんじゃなくてね。青海の推理では、あの男のどちらかか両方が、あの島から私にボトルメールを送っているってことだったんだけど、あの様子だと、それはありえなさそうね。ビンの中には、美しい人魚へ、って書かれた紙が入ってるんだから」
――島に盗んだもんを隠せば、海賊の宝が眠ってる伝説のおかげで怪しまれないと思ったんだよ。
私は、グラサン男の言葉を思い出す。相方が口に砂を詰め込まれたのを目の当たりにし、素直に白状したのだ。
――海賊なんか伝説に過ぎないだろうし、人魚なんかもっとありえないと思ってたのによ。まさか、こうしてお目にかかれるとはな。
話を聞き出すという用件を終えて、豆井さんはグラサン男の口にも砂を詰め込んだ。今頃、私の通報で駆けつけた警察が、砂に埋まって身動きが取れなくなっている、黒い服を着たふたりの男を、不思議そうに見下ろしていることだろう。彼らが「人魚に埋められたんだ!」と証言したところで、すぐには信用してもらえないだろう。
砂浜から見ると遠くに見えたその島は、いざ舟を漕いでみると、すぐ近くにあった。
漕ぎ方は予想できたものの停め方はわからなかったので、私たちのボートは島の浜辺に乗り上げた。無様な停め方だが、仕方あるまい。
「あっ」
私は声をあげる。車イスを持ってこなかった。これじゃあ、豆井さんと島を回ることができないじゃないか。
豆井さんもそれに気づいたらしく、舟のふちに腰かけて、不服そうに頬杖をついている。
「――こう、転がって移動できたりしませんか?」
私はその場で回転してみせた。
却下と口で言ってくれればいいものを、彼女は例によって尾ひれをしならせ私にぶつけてくる。私はドボンと音を立てて水辺に落ちた。
「何をするだァ!」
「もっとマシな案を思いつきなさい」
日差しがある日中ならまだしも、水分を吸ったスーツが、夜の浜辺で乾くわけがない。
どうしようか。誰もいないから、脱いでこの辺に置いてもいいのだが……。もし人が住んでたら、随分と情けない姿を晒すことになる。プロポーションが悪いわけではないという自負はあれど、いかんせん隣にいるのが人魚となれば、見劣りすること必至。
「――なんと、これは驚きだ」
突然、背後からしゃがれた男性の声が聞こえたので、私は服を脱がなくて正解だったなと思う。
振り返るとそこには、少しだけ白髪を残した――顔立ちの整った素敵な紳士がいた。着ているものは布切れのようであったが、妙な清潔感を漂わせている。
「まさかもう一度、この目で人魚を見る日がやって来ようとは……」
もう一度と、彼は今言った。
ということは、まさか……。
伝説は、フィクションではなかった。人魚の島、そこに漂着した記憶喪失の男、人魚と人間の恋、そしてそれが、海賊の来訪によって終わりを告げたことも、本当のことだったようである。
「竜宮城から帰ってきた浦島太郎が、カメを助けて海の底に連れられた男の話を聞いたとしたら、ちょうどこんな気分かもしれませんな」
老人は少し背伸びをして、私たちの街の方を見ていたが、彼の目は深い闇しか捉えることができなかった。私たちですら、この時間では自分たちがどこから来たのかわからなくなっている次第である。本当に迷ってしまったんじゃないかという錯覚に陥りそうなほど、島の外は何も見えなかった。
「ではあなたは、自分の恋人に向けて、ボトルメールを送り続けていたということですか?」
男性は頷く。文字通り生ける伝説である彼は、姿勢がよく、人生を諦めた様子など微塵も感じさせない。今でも、辛抱強く、人魚の恋人を待ち続けているその心持ちに、私はただただ感心するばかりであった。
「まさかそれが、別の人魚のところに流れ着いていたとは……」
男性の言葉に、私たちは俯く。特に豆井さんは、いつもの気の強さはどこへやら、ひどく落ち込んでいるようだった。
「そんな顔をしないでください」
遠くに目を向けたまま、微笑を浮かべて老人は言う。
「私の送ったお金が無駄になったり、どこかの悪党に使われたりするよりは、あなたのような人魚の糧になった方がよほどいい。あなたは、私の恋人ではないようですけれど……」
豆井さんが、思いついたように顔をあげる。
「どんな人魚か、わかりませんか? もしかすると、私の知り合いかもしれませんので……。人魚の見かけは老いません。きっとあなたの知っている姿のままで、今も生活しているかもしれません。何か、身体的な特徴を……」
男性は少しだけ考えた。恋人との別れを思い出しているようだ。
「逃がそうとしても、彼女は必死で崖の岩場を強く握っていましたから、きっと右手の平には、岩で抉れた傷が残っているんじゃないでしょうか。彼女の手を解こうとしたこの手に、その血が少しついていたのを覚えています。最も、何十年も前のことですから、私の脳が勝手に、記憶を美化しているかもしれませんがね」
その言葉に、豆井さんは自分の右手を確認した。もちろん、彼女の手にそんな傷は残っていない。
私は男性に質問する。
「長い間ずっと、ボトルメールを送っていたのですか? 伝説の通り、お金は海賊が置いていったものなのですか?」
ゆっくりと、首が横に振られた。
「ぼんやりと彼女を待ち続ける日々が続いて、いつのことかも覚えていませんが――ある時、大きな船がこの島にやってきて、私の守っていた財宝を現金で購入していきました。船長が置いていったのはほとんど宝石でしたから、それ自体では何にも交換できなかったのです。その時支払われた、山のような現金から、毎月20枚ずつボトルに込めていたのです。愛する彼女に届くように。そうでなくても、どこかの誰かの役に立てばと、思いましてね。メモが噂になれば、彼女も気付いてくれるかもしれませんから……。
ボトルメールについては、始めたのはつい最近のことです。あなたたちの街とは反対方向になりますが、ある時から浜辺に、ゴミが漂着するようになったのです。おそらくどこかの国が、ゴミの処理に困って海に捨てたものが、この島まで流れてきたのでしょう。打ち上げられた空きビンを見て、私はこの奇行を思いついたのです。
いつ彼女に会えるかもわからない。体は日に日に衰えていくばかり。山のような現金も、先の短い老人には何の役にも立ちませんからな」
私たちは、黙り込んでしまう。かろうじて、そんなこと言わないでくださいという、呻くような声を絞り出す。
それに反して、伝説の男は笑う。
「人魚の元に届いていたのなら、こんなに嬉しいことはありません。もしかするとあなたは、私の恋人や、昔この島に住んでいた人魚たちの子孫なのかもしれないんですから。そしてそんなあなたが、何の縁かこの島にやってきた……。私の胸は今、幸福感で満ち溢れています。私のせいで散り散りになった人魚――人の世に適応できず、絶滅してしまったかもしれないと考えていた人魚が、こうしてまだ生き残っているのですからね。
この世はひどく生きにくいでしょうが、どうか幸せになってください。現金はまた、波に乗せてお届けします。何なら、いくらか持って行ってくれても構いませんよ」
男性は自分の冗談に自分で笑ったが、私たちの胸は切なく重苦しい感情でいっぱいだったので、彼に笑顔を向けることができなかった。
結局、島から現金を持ってくるようなことはせず、豆井さんは元・人魚の島から送られてくるボトルメールも、手をつけないで保管するようになる。今までの分は使ってしまったが、これからの分だけでも、いつか彼の恋人に渡せるように。
さて、私の恐れに反して、豆井さんは強盗を退治した人魚および街の英雄として扱われるようになった。海辺に、彼女の像が造られたほどだ。街の内外を問わず、定期的に彼女に求婚する男性がやって来たが、彼女の好みはジンベイザメ、次点でハンマーヘッドシャークであったので、全て玉砕に終わっている。
私はというと、像を造られるようなことはないにしても、豆井さんと並んで街の英雄――人魚と人間の交流を仲立ちした人物として、ちょっとした有名人になってしまった。私をクビにした宝石店からは「もう一度雇いたい」と声をかけられ、手の平返すようなところは止めなさいと豆井さんに言われたけれど、どうにか私は復職を果たすこととなる。
街のアイドルとして振る舞ったり、漁業に協力したりで収入を得た豆井さんは、以前よりも幾分か暮らし振りがよくなった。基本的には元通りの私とはえらい違いである。
「人魚でも、堂々と生きていけるものなのね」
嫌いなスカートで脚を隠さずに暮らせるようになったが、彼女は時折、悔しそうに、悲しそうに、そんなことを呟く。私には、その暗い気持ちが理解できた。
人魚が、堂々と生きていけたとしたら――伝説の人魚も人々に歓迎され、かつての恋人を忘れてしまったとしたら、今でも恋人を待ち、ボトルメールを流し続けるあの老紳士が、ひどくかわいそうではないか。
もはや親友となった私たちは、定期的に水族館にやってくる。気の強そうな外見に反してかわいいもの好きな彼女が、新作のぬいぐるみを欲しがるからだ。魚を見に来ているというよりは、お土産屋さんが目的になっている。人々に認められたからといって、脚のない体じゃ街中は歩けない。そのため、例の車イスは今でも使っている。
そして彼女が買い物している間、私は例の人魚伝説の、小さな展示を見ていた。最近それが「豆井伝説」と入れ替わりそうになったのだが、どうにか水族館に頼み込んで、この悲しき恋の物語を残すようにしてもらっている。
いつもベンチに座っているおばあさん。彼女の隣に腰かけて、私は水槽や展示、お土産屋さんで目を光らせる豆井さんなどをぼうっと眺める。会話はない。名前も知らない。ひょっとしたら彼女は、毎日ここにいるんじゃないだろうか。それすらも聞けないでいる。
しかしその日は、どういうわけか謎の勇気がこみ上げてきたので、私は彼女に、こんな風に話しかけたのだった。
「――魚が、好きなんですか?」
私の問いに、女性はゆっくりと振り向く。高齢であるが、若い頃はさぞ美しかっただろうことが想像される、気品のある顔立ち。
「私は好きなんですけどね。どうにも私が嫌われてるもんだから、こうして水槽越しじゃないとダメなんですよ」
はあ、そうですか。
そう言いかけて、何か妙な引っかかりを感じた。私が嫌われている? 何に? 魚にか?
「こうして長いこと水族館にいますけれど、最近はあの文字すらロクに読めなくなってきました。きっとそろそろ、寿命なんでしょうね」
ハッとして、私は体ごと女性に向き直る。
「そんなことありませんよ! まだまだ若いじゃありませんか。よろしければ、右手を見せてください。生命線を見たいのですけれど……」
もちろん、私は占い師でもなければ、生命線を読む能力も知識もない。私の目的は、そこじゃなかった。
「ええ、いいですよ」
快く、女性は右手を出す。皺だらけになっているが、手の平に少し色の変わった線があった。
「昔、崖から落ちたことがありましてね。その時必死に岩を掴んでいたものですから、深く食い込んだ傷ができてしまったんですよ」
ああ、なってこったい。
私はもう、気が気でなかった。生命線なんかどれかわかりゃしない。っていうか、左手じゃなかったっけ、生命線。いや、どうでもいい。それよりも、彼女だ。
何と声をかければいいか迷っていると、お土産屋さんの方から声が聞こえた。
「ごめん、青海~! お金貸してくれな~い?」
豆井さんが、レジでもたついている。
「はいはーい」
私は女性に「生命線、長いですよ」と適当な嘘をついて、お土産屋さんのレジに向かった。サイフを開けて、お札を数枚豆井さんに渡す。
ベンチの方を振り返ると、そこにはもう、おばあさんはいなかった。
「いや、助かったわ。お金下ろすの忘れててさ」
だいぶ俗っぽくなってしまったマーメイドが、車イスを運転しながら上目遣いで言う。仲良くなった今でも、彼女は豆井「さん」だ。
「お金、返さなくていいからさ。ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど」
ベンチの方へ歩きながら、私は言った。豆井さんがついてくる。
「何よ、改まって。……っていうか、何してんの?」
さっきまで、彼女が座っていたあたり。あった。間違いない。これは――。
床に落ちていた光り輝くウロコを指に乗せて、私は豆井さんに言った。
「悲しい恋の伝説に、ハッピーエンドを書き足したいの」
(おわり)
豆井さんの話 柿尊慈 @kaki_sonji
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