第7話 大丈夫だよ

 力を解放したネージュは、学園長室であった瓦礫の上に無数の氷柱を出現させた。それはフィッフスの立っていた足元も例外ではなく、フィッフスが雷の障壁で身を包んでいなければ、突然真下から現れた氷柱に足を貫かせていた。

 氷が割れる甲高い音が立て続けに鳴り弾く中、フィッフスは身構えた。それは本能的なもので、次に起こる『何か』を予想してのものだった。

 この力は氷柱を作り出すだけではない。『何か』が何なのかまではわからないが、この場で止める。それは研究者としての『魔女』フィッフス・イフスの感覚ではなく、『雷の女帝』フィッフス・イフスとしての研ぎ澄まされた戦闘感覚が判断させた答えだった。

 障壁を張り巡らせたまま、フィッフスは瓦礫の床を蹴り、ユベールと懐へ飛び込む。


「……我輩の勝ちだ、女史」


 しかし床を蹴ったはずの足は、上げることすら叶わず床に張り付いたままだった。


「あんた」

「この場にある『全て』を凍らせた。女史の足元も、靴底までもな」


 氷柱が屹立することは纏った雷の薄布が砕いたが、靴底で起きた微少な変化までは止めることができなかった、ということか。そこに砕けうた氷柱の欠片も加わり、気付けばフィッフスの足元は薄氷に満たされ、そしてフィッフスの足はその氷の床に氷共々貼り付けられていた。

『全て』とはつまり、この場にある全ての水気をネージュの魔法で氷へと転換させた、ということだろう。範囲はこの瓦礫になった部屋だけという限定的ではあるが、『百魔剣』に相応しい能力展開であった。


「女史には死んでもらう。このまま我輩が退いても、追ってくるだろうからな」


 ユベールの手元で魔剣ネージュが冷たい輝きを放つ。ゆらりと持ち上げられた氷の刃を見たフィッフスはしかし、笑った。


「元よりそのつもりじゃあなかったのかい。誰に言い聞かせているのかねえ」

「……すまない」


 ネージュの切っ先が動き、魔法の煌めきが放たれる。フィッフスは雷の障壁を展開して防ぐが、身動きが取れない状態では棒立ちのまま受けることしかできず、反撃の一手を放てない。苛烈に打ち付けられる無数の魔力の光線を防ぎ続けるには、障壁に『媒体』の全魔力を注ぐしかなく……やがて限界を迎えた障壁すらも砕けるように消えた。

 青白い光が伸び、『媒体』を握ったフィッフスの右腕を打った。痛みはなかったが打たれた位置から手先までが緩やかに凍り付き、再び障壁を展開しようとしていたフィッフスの手は『媒体』共々氷結し、動きを封じられた。


「さらばだ、女史。そなたが学院にありつづければ、あるいはこんな場面はなかったかもしれんが……」

「甘ったれるんじゃあないよ」


 次の一撃を避ける術はなく、それがわかってもなお、フィッフスは笑った。


「学長になったのは、あんたの力だ。その後何を選んだにしても、それはあんたの選択だ。あたしがいたらこの学院の、あんたの人生の何かが変わった、なんてことがありえるものかね。起こったことは全て、あんたの結果だ」

「……その女史の強さが、この学院には必要だったのだ。我輩にも……」


 ユベールが何かを言いかけた時、フィッフスの視界に影が差した。フィッフスには。差し込んだ影がユベールの姿を包み、そして弾き飛ばした。


「歳を考えろ」


 が振り向いて言った。今更になって重たく、鈍い痛みを伝え始めた右腕に左手を添えてフィッフスはやはり笑ってみせた。強がりと照れ隠しが半々といったところの、複雑な笑みだった。


「悪いねえ、リディア」

「……下がっていろ」


 黒い外套を纏った人影は、漆黒の長い髪を靡かせてフィッフスに背を向けた。ぶっきらぼうでとりつく島もない雰囲気を放ちながら、それでいて「守ってやる」と言っている背中が、不思議なほど大きく見えた。大きくなったのだ、と思った。


「なるほど……そなたがイフス女史の……」


 よろめきながら、どうにか、といった様子で立ち上がったユベールが言う。フィッフスにはその動きが速すぎて見えなかったが、影から何らかの打撃を受けたのだろうことは想像できた。

 そのユベールの姿を確かめ、影……リディア・クレイが腰に佩いた剣に手を掛ける。『紅い死神』の異名の象徴たる、紅蓮の刀身を持つ剣。


「リディア!」


 フィッフスは思わず叫んでいた。百魔剣は全て破壊する。リディアは自身が生きる意味としていること……もしくは呪い……であるその達成を目の前にして、迷うことはない。それを知っているからこそ、フィッフスは叫んだ。それはかつての級友との死別を恐れたからではない。ラザール同様、ここでリディアやシホたち……フィッフスの『子どもたち』の求める手掛かりを失ってしまうわけにはいかない。

 一拍の間を置いて、リディアが走った。制止の声を上げることは、フィッフスにはできなかった。

 黒い影になったリディアの姿がユベールへと直進する。そして接触する三歩手前で影は速度を落とし、舞い踊るように直進しながらも回転して進行方向に背を向けた。

 あまりの速さに対応できていないのはユベールも同じだった。それはそうだろう。戦闘訓練を受けているとはいえ、戦いを生業としているリディアとはその実力差は歴然。まして親子ほども歳は離れている。身体能力にも大きな隔たりがある。

 背を向けた人影が宙を舞った。ユベールに背中側から突進する形で、左脚を軸として回転した反動をそのまま活かして振り上げられたのは、後ろになった右脚だった。細く長くしなやかなリディアの脚が高速で旋回し、棒立ちのユベールを逆袈裟に斬り落とすように撃った。悲鳴も呻きも漏らさず、崩れ落ちユベールは、その一撃で意識を失った様子だった。


「……生きてるかい?」

「手加減くらいはする」


 体を浴びせる豪快な蹴りを放ちながら、自身は倒れることなく瓦礫の上に立ったリディアは、背中に聞いたフィッフスの言葉に応じる深いため息を吐いた。死神の二つ名の通り、何にでも誰にでも死を振り撒く野蛮人だとでも思ったか失礼な、とでも言いたそうな雰囲気を放っていたが、フィッフスの知るリディアはそういう人間である。手加減という発言はもちろん、手を掛けた剣を抜かなかったことすら意外であった。


「手加減……? 回し蹴りがかい?」

「胴回し回転蹴りだ」

「蹴りの種類は何でもいいんだけどねえ」

「せめてそれくらいはさせろ」


 そこでフィッフスは初めて、リディアが怒りを抱いていることに気付いた。何に、という疑問が過ったが、そこはリディアのことだ。百魔剣を持つ全てにであり、それを破壊する選択肢を選ぶことができなかったいまであるに…… 


「『母』を傷つけられたんだ」


 聞き間違いかと疑うような言葉が死神から飛び出し、フィッフスは息も言葉も呑んだ。そのまま何も言えず、ただ気恥ずかしさと、『息子』の成長を感じ、胸が熱くなる時間を味わった。

 この子は変わった。おそらくは、よい方へ。この世界が争いに満ちていない時代であれば、この子が戦災孤児になることも、その後に百魔剣に出会って自らに呪いを掛けることもなく、リディアではなくアルバという、親から与えられた名前で、元々の性質の通り、優しい青年に育ったはずだ。だから、変わった、というよりは、戻った、というべきなのかもしれない。

 リディアをアルバへと、フィッフスも知る正義感に満ちた優しい少年に引き戻したのは、きっと……


「フィッフスさん!」

「死神殿、お怪我は!?」


 瓦礫と化した学院長室に、二人の気配が駆け込んで、ひとりがフィッフスのすぐそばに跪いた。凍り付いた右腕に、躊躇なく自身の両手を添えたのは、フィッフスを『母』と慕う、もうひとりの人物。


「やれやれ……あたしも歳かねえ」

「いま治癒します。……よかった、フィッフスさんが無事で」


 世界でただひとり、百魔剣も『媒体』も持たず、人の傷を癒す力を持つ少女は、『奇跡』と称されるその力を惜しげもなく使う。フィッフスは久しぶりに間近に見たその力の発動に、やはり何らかの魔法であることを感じはしたが、その力がどこから来ているのかは未だにわからない。

 少女の『奇跡』によって徐々に右腕に感覚が戻り、同時に本来感じるべきはずであった痛みが突き刺さる。フィッフスは小さな苦痛の声を噛み殺して俯いた。


「フィッフスさん!?」

「大丈夫……大丈夫だよ」


 フィッフスは俯いたまま、添えられた少女の手に自分の左手を添えた。小さく華奢な、温かい手に触れた瞬間、フィッフスの両目から涙が溢れた。嬉しくて、堪らなかったのだ。


「ふぃ、え、ふぃ、フィッフスさん!? 本当に、大丈夫ですか!?」


 慌てた顔でこちらを覗き込む、陽光色の髪に縁取られた顔が、フィッフスには堪らなく愛くるしかった。

 大丈夫。この子がいてくれれば、あの子は大丈夫。


「本当に……あたしも歳だねえ」


 少女……シホ・リリシアの言葉には直接応じることはなく、フィッフスはひとりごちた。

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