第5話 再会

 シホが振り返ると、そこには見知った姿が立っていた。但し、その声を聞いたのはいまが初めてだった。


「ミホ・ナカハワさん……」


 帽子付きの外套を纏った姿が立ち歩いているのも、シホはいま初めて目にした。この二日、彼女は常に講堂の端で机に突っ伏しているだけだった。それが立ち、歩いて、机の間にある通路を下ってくる。

 ノーマの指定制服として生徒に支給されているものとはやはり形が違っていた。彼女はいま、外套と一体となった帽子をかぶっているが、それからは耳の長い獣のような、一対の膨らみが伸びている。必要性があるものではなく、純粋な装飾のようだ。濃紺の色は制服と同じだが、仕立ても違うようで、踝まで隠れるほど長い。


「あなた……」


 シホは彼女の名前を口にしようとしたが、彼女はそれを、自分の口に指を立てる仕草で止めさせた。外套の帽子の首元から、彼女の長い錫色すずいろの髪が意思あるもののように流れて揺れる。冬の凍り付いた湖のように冷たく透き通った青い瞳。月明かりに照らし出された肌は陶器のように白く、この朽ちた講堂の中では死者か、幽鬼じみて見えた。


「なぜここへ来たの?」


 声もまた、覇気がなく、闇の底から響いてくるような、亡者を思わせる。なのに容姿は美しく、いっそ幻想的ですらある。


「……なぜって」

「ここに来たら」


 ふっ、と風が吹いた。無風の講堂内に、唐突に。いや、これは……


「わたしはあなたを殺さなければいけない」


 シホの前、五歩の距離を置いて立ち止まった彼女が顔を上げる。吹いた風が彼女の外套の前を開け、翻る。いや、違う。風は吹いたのではない。

 顔を上げた彼女の、冷たく透き通った青い瞳の片方、右の瞳だけが、色を変える。青とは真逆の真っ赤な色に染まり、強い光を放った。


「ルネさん!」


 シホは腰の後ろに隠すように下げてきた短剣を抜いた。間違いない。幽鬼を思わせる彼女、愛らしい動物のような外套を纏う彼女、日中はただただ教室の片隅で寝ているだけだった、それでも優秀過ぎると噂せれていた彼女、ルネ・デュランから吹き出されているのは風。それも強い魔力を帯びた風!

 応じるには、相応の力がいる。例えばいま、シホが抜いた魔剣ルミエル……百魔剣のような力が。

 ルネが放つ魔力の風は、本能的にそう思わせるに足る力の強さだった。『媒体ミディアム』ではない。おそらくは……百魔剣。

 シホはルネの姿を改めて見た。風に翻る外套の下には、薄い肌着しか着ていなかった。戦うには動きやすそうだが、防寒という意味では役に立ちそうにない。外気が暖かいわけではない夜のいまにしては、不自然な格好に思えたが、それ以上に、シホは彼女が無手であることに違和感を覚えた。

 そう。彼女は何も持っていなかったのだ。百魔剣のような武器の類いを、なにも。


「ごめん。死んで」


 ルネが短く言うと、一瞬、風が止む。まずい、とシホの背筋を戦慄が這い上がり、シホはその感覚に正直に動いて、その場を飛び退いた。

 だが、そこで予想外なことにシホは思わず短い悲鳴を上げた。横合いに飛び退いたその背を、誰かに抱き止められて、そのまま宙を舞ったのだ。

 長い髪が、シホの頬を擽る。この香り、腰に回された腕の、抱き締められた背のぬくもり。忘れるわけがない。


「リディアさ……!」


 シホが弾んだ声を上げたが、それは直後に起こった爆音に掻き消された。

 炎を伴わない純粋な音の炸裂が、ルネから流れ出る風を上回る、まさに爆風となってシホの身体をなぶる。だが、しっかり抱き止められた身が弾き飛ばされることはなく、シホはそのまま、ルネから離れた机と机の間に降ろされた。


「……すまない。遅くなった」

「やはりいらしていたんですね」


 シホを抱き締めて軽々と跳躍した黒い影は隣に並び立ち、シホに視線を向けていた。


「あれは……」


 シホはルネの様子を見た。つい先ほどまで自分が立っていた講壇とその背後の魔石板が、跡形もなく砕け散っていた。もしリディアに抱えられてここまで離れなければ、巻き込まれていた。想像以上の破壊の力に、シホは身を引き締める。


「百魔剣……ですよね」

「ああ……そのはずだ」

「シホ様!」


 ルディの声が近づく。それに合わせて、ルネが纏う魔法の風が強くなった。


「ルディ!」


 シホが叫ぶ。そこはルディも百魔剣の持ち手である。ルネの変化には敏感に気付き、油断なく意識を向けながらも、近づく足は止めなかった。

 そのルディを狙い打つように、ルネから風が打ち出された。並ぶ机を弾き飛ばしながら、暴風が旧講堂を薙ぎ払う。


ソンブル!」


 走りながらルディが叫ぶ。腰にした刺突剣を抜き放つと、その刃の動きに合わせて黒い霧が周囲に広がった。ルディの持つ百魔剣の能力だ。


「シホ様、お早く!」


 これだけの大きな音が出れば、外を警戒している生徒会の生徒たちも踏み込んで来る。この場にいたことを見られるのはまずい。ルディはシホを逃がそうと、自身の魔剣の力を使ったのだった。魔法の黒い霧は目隠しになる。

 だがその霧を、ルネの風は吹き飛ばしてしまう。ルディ本人は巧みに避けたが、百魔剣の力を吹き飛ばすほどの風の魔力。百魔剣の中でも上位のものとシホは確信した。だが、それだけにシホは疑念が深まる。あれだけの力を、ルネはどこから引き出しているのか?


「行け。……ここは引き受ける」


 声に振り返ると、そこに影はなかった。気配を追ってシホが視線を向けると、そこにはまるで空中を飛ぶことができるかのように軽々と、リディアの黒い影がルネに向かって飛んでいた。リディアの手元で紅い煌めきが光を放つ。


「リディアさん!」


 シホの叫びに応えたのは、リディアが振るった愛刀の紅い剣と、ルネが手にした長い得物がぶつかる金属の音だった。ルネの得物は、彼女の背丈と同じほどの長さの槍だ。だが、一瞬前までそれは彼女の手元にはなかったはずだ。


「シホ様!」


 ルディの声がシホを促す。そこで首を振るほど、場慣れしていないシホではなかった。冷静に、いま置かれている状況を判断する。

 いまだ戦うリディアとルネに背を向け、シホは旧講堂を後にする。去り際、聞こえたのは、烈火のごとく猛々しい、生徒会長の笑い声だった。

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