第8話 学友

「ミホちゃん!」


 不意を付いた呼び掛けに、シホは一瞬、反応できなかった。自分がいま、シホ・リリシアではなく、ミホ・ナカハワであることを飲み込み、応じるまでに、僅かな時間があった。


「あなたがミホちゃんでしょう? 転入生の?」


 大きな講堂の中、整然と並んだ机に向かい、講義を受ける準備をしていたシホは、突如視界に入り込んできた女性の顔を見た。歳は同年代。橙の髪色は、旺盛な好奇心に輝く瞳と相まって、とても活発な印象をシホに与えた。


「え、えっと、はい、そうです。ミホ・ナカハワといいます」

「わー、やっぱり! わたし、アズサ・ユズリハって言うの。同じノーマだよ!」


 言いながら、アズサと名乗った少女は、シホの隣の席に付き、手にしていた筆記用具を机の上に広げた。講義を受けるに当たっての席次はないので、彼女はこのままシホの隣で講義を受けるつもりなのだろう。


「ノーマに転入生が来るって聞いて、名前がわたしと同じイツキ国出身者っぽかったから、すごく楽しみにしていたの。イツキ国出身は、今年度のノーマでも、わたしとユカくらいだから、何となくね。ほら、イツキ国って、ああいう国だからさ。ただでさえ少ないのよ。だから、ミホちゃんに会えたら、すぐ声かけようと思ってたの!」


 アヴァロニア大陸の東端に位置する帝政国家イツキ国は、さらに東の海に浮かぶ諸島連合を併合する大国であるが、大陸内の他国との交流は乏しい。特に国を閉ざしているわけではないのだが、活発な交流を国民に推奨していないと聞く。この為イツキ国出身者を他国で見かけることは稀だった。それは大陸の西方に行けば行くほど顕著であり、西端の神聖王国カレリアで見かけることはほぼ皆無と言っていい。大陸中央部のここエバンスであっても、同じような様子であった。


「あ、えと、はい。ありがとう、ございます……」


 シホはそう言うと、やや大袈裟に頭を下げた。反動でずれ落ちた眼鏡を両手で押さえて顔を上げ、笑顔を向ける。普段、教会の公務で身に付けている金縁細身の眼鏡より、一回りは大きく重い、黒縁眼鏡を掛けているのは、変装の為だ。性格や話し方も、公務で努めて屹然と振る舞う姿からは真逆のものを演じることにしたのだが、思い起こせば自分は、本当はこういう人間だったな、とシホは思う。


「この講義終わったらお昼だから、一緒に食べよう? 食堂行くでしょう? ユカも来るから三人で、ね?」

「は、はい……ありがとうございます……ところで、あの」


 年齢相応の無邪気さで接してくるアズサという女性の態度を、シホは好意的に取った。多少強引さは感じるが、その言葉も表情も、全て年齢相応の好奇心に彩られていて、嘘がない。表層で笑顔を交わし、その裏では相手を出し抜く為に手を回すような教会内部の勢力争い、政治的闘争の中に身を置き続けているシホに取っては、こういう好奇心に引き摺られた強引さは、寧ろ新鮮だった。彼女となら、仲良くなってみようか。そんな風に思った。


「アズサさん、ルネさんという生徒さんは、どなたでしょうか?」

「ルネ? ルネ・デュランの事かな?」


 そう言うと、アズサはこっそりと講堂の正面向かって左端の、一番後ろの席を指差した。

 講堂の左端には窓が並んでいて、明るい陽射しが差し込んでいる。教師が話す講壇から最も遠い左端の席も、陽の光に明るく照らし出されているが、そこに何か、暗い色をしたものが踞っていた。よく見ると、それは濃紺の帽子付きの外套で、ノーマの指定制服として生徒に支給されているものとは、少し違うようだった。踞って見えるのは、それを着ている人物が机に突っ伏しているからで、さらにその状態で帽子まで被っているので、余計に濃紺の布の塊が机の上にあるようにしか見えない。


「……あの方が……」

「ルネ・デュラン。ちょっと変わった子で、誰かと話しているところを見たことがないのよね。というか、いつも大体寝てる」

「寝てる……」

「うん、そう。大体あの位置ね、席も。いっつも寝てるから、声かけたいな、と思っても、なんか悪くって、できないのよね。でも

あの子、成績は悪くないのよ。不思議でしょう? 『媒体ミディアム』の実践授業でも、凄く上手に使うし。もしかしたら、来年はエクセルに上がるかも知れない、って、みんなで話してるんだ」


 なるほど、ルディの集めた情報の通りだ。

 シホは昨日、ルディから聞いた話を思い出す。

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