第6話 学長ユベール・バイヨ

「久しいな、イフス女史。壮健であったか?」

「ええ、そりゃあもう。あんたも元気そうで何よりだよ、ユベール」


 シホはフィッフスの隣に立ち、緊張で強張った顔を真っ直ぐ前に向けていた。正面には大きな木製の執務机があり、その向こうにある両開きの窓からは、昼下がりの穏やかな陽光が差し込んでいる。

 よく整理され、全体に落ち着いた深い茶色に統一された執務室は、いま、フィッフスにユベールと呼ばれた紳士の部屋だった。見るからに良い木材が使われているの分かる、重厚な執務机の側に立ち、フィッフスとシホに来客用のソファを勧めた五十がらみの紳士は、撫で付けた白髪に手櫛を通しながら、自身も机に向かって腰掛けた。


「あんたが学長になったと聞いて、納得だねえ。飛び抜けて優秀だったからね、あんたは」

「そんなことはない。少なくとも、我輩は試験でそなたにはっきりと勝ったことはないはずだ、イフス女史。それで……」


 ユベールを旧友だとフィッフスは言っていた。年齢もほぼ変わらないのだろう。そのわりに、ユベールの口調は固い。フィッフスの調子がいつも通りなことを考えると、もしかしたらこの白髪の紳士は、もとよりこういう話し方なのかもしれない。フィッフスとユベールのやり取りを見ながら、そんなことを考えていたシホは、ユベールの視線が不意に自分に向けられたことに驚き、再びの緊張に表情を強張らせた。

 白い髪と同じ、白い口髭を蓄え、面長な輪郭に金縁の眼鏡を掛けたユベール・バイヨは、鋭い視線をシホに向けている。しかし、敵意はない。それはより良く観察するための視線だと、シホは思った。


「彼女かね。イフス女史が後見人となって、この王立魔導学院に入学させたいというのは」

「お初にお目にかかります。ミホ・ナカハワにございます、ユベール学院長様」


 シホは両の手で紺色のスカートの裾を僅かに持ち上げる仕草と共に、恭しく頭を下げた。このスカートの丈は、普段身に付けている天空神教会の法衣から比べると短く、膝上までしかない。先程からそれが何となく不安で、シホは悟られないようにしていたのだが、上手く取り繕えていたかはわからない。ユベールの視線の鋭さには、そうした諸々の動揺も、姿、見抜いてしまいそうなほどの力強さがあった。


「あたしもそうだけど、イフス家が後見人になるよ。ミホの才能を育てて上げたいのさ」

「ふむ……確かにイフス家はエバンスの元老院議会の一員でもある家柄。それに加えて女史自らの推薦とあれば、断る理由がないな。それで……」


 ユベールが机の上に視線を落とした。そこには何やら書類が一枚置かれていて、ユベールはそれを確認する。


「……ふむ。百魔剣について学びたい、と」

「あたしと一緒に、少し旅して回っていたのさ。ミホの飲み込みの速さを見て、基礎知識をちゃんと学んだ方がいいと思ってね」

「なるほど……ところで、ミホ・ナカハワ。君は大陸中央の人間ではないね?」


 書類から視線を上げたユベールが問う。シホはどきり、と跳ね上がった鼓動を聞いた。


「美しい金色の髪。だが、君の顔の、いや、骨格の特徴は、明らかに大陸東方地域のものだ。東方地域の骨格的人種特徴は、主に小柄であり、顔の彫りは深くない。これは長い年月の中でも変化はなく、いまもって続いていて……」

「……そういうところは若い頃から変わらないね、あんた」


 早口に捲し立てるユベールを、フィッフスが止めた。ユベールが我に返った様子でフィッフスを見、シホに視線をやった後に、取り繕うように金縁眼鏡のズレを直した。


「いや、すまない。骨格的特徴は我輩の研究課題のひとつなのでね」

「骨格からアヴァロニア大陸に、どのように人が進出したのかを調べる研究、だったかね、あんたの卒論は。いまもそれを?」

「勿論だ。我輩も女史のように発掘に勤しむ、いまもひとりの研究者に過ぎんよ」


 そう言うと、ユベール学長は初めて破顔した。笑うと笑顔が優しく素敵な紳士で、シホは少しほっとする。

 ただ、とシホは思う。シホはこれまで、自分の出自を考えたことがあまりなかった。シホの記憶で、思い出せる限り最も古い記憶は、養父母に引き取られた日の、養父母の笑顔である。戦災孤児として天空神教会に預けられていた頃の記憶は勿論、それ以前の記憶もない。自分がどこで拾われたのか。どこで生まれたのか。どんな親に育てられ、どんなきょうだいがいて、どんな風にその大切な人たちを失くしたのか。そうした記憶の一切がないのだ。

 君は、大陸中央の人間ではないね?

 ユベールの言葉が、シホの頭の中で渦を巻いていた。ユベールとフィッフスの間では話が纏まり、シホが計画した通りの結果が得られた様子があったが、シホはそれを喜ぶ状況にはなかった。

 明らかに大陸東方地域のものだ。

 わたしは、神聖王国近隣の出身では、ない?

 ユベールとフィッフスが握手を交わし、話が終わる。シホはそのやり取りを目に映しながら、全く別のこと……生まれて初めて、自分の出自を想っていた。

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