35 スミレ色のライラック・後

 このままセナに甘えたくなるが、寸手のところでその手を振り払う。


「ごめん、もう一つある。これが、婚約を解消したい本当の理由」

「なんだよ、もう何を言われても俺は」

「他に好きな人がいるの。スミレが、好きなの」


 時が止まったようだった。

 セナは意味がわからない、という顔をしたままピタリと静止している。

 それもそうだ。つい最近まで、行方もわからなかった高校時代の親友を好きになって、それを理由に婚約破棄。


 その静寂はほんの数秒だったのかもしれないし、もしかしたら一分くらいあったのかもしれないけど、セナの表情は「驚愕」から「無」へ緩やかに変わっていった。

 怒りや悲しみに切り替わらないところがセナらしくて、苦しくなる。


「どういう意味? スミレってはしばみ? 高校の時同級生だった、はしばみ純恋すみれだよな? ついこの間まで連絡取れないって……」

「うん。でも伝手つてを頼って見つけたの。まだ話はできてないけど、確信した。うちはスミレが好き。恋愛的な意味で」

「ハシバミさんと付き合ってる、わけでもないんだよな?」

「うん。話もしてない」


 セナにとっては晴天の霹靂へきれきだろう。

 うちだって、まさかこんなことになるなんて夢にも思ってなかった。


 でも、予感はあったんだ。

 入籍する前に、どうしてもスミレに会いたいって。理由はわから無いけど、その想いだけはずっとあった。

 セナの顔は、呆れに変わった。


「お前、どうかしてるよ。さっきのこととか、将来のこととか色々あって混乱してるんだよ。だからいきなり、そんな突飛なことを言い出したんだ。相手は女だぞ。それに、話もしてないって……」

「うちもそうだと思ってた、マリッジブルーの延長線だって。スミレは女だし、親友だし、セナのことを大切にしたいって本気で思ってた。でも、セナには抱かないドロドロした感情を、スミレには抱くの」

「なんだよ、それ」

「ごめん、セナ。これがうちが考えられる、今の最善なの。自分にとっても、そしてセナにとっても最善であると信じてる」

「ふざけるな!」


 セナの右手がカッと上がる。けれど、ついぞその手が振り下ろされることはなかった。

 右手はセナの瞳を覆い、その指の隙間からは雨漏りした水がぽたぽたとこぼれ落ちる。


「俺は、全てを知った今でも、環のこと愛してる。環と生涯を共にしたい。俺と結婚してください……」


 セナの目は涙に濡れてキラキラしていた。

 頭を下げ、濡れた右手を差し出す。


 どうして?

 うちは少女誘拐監禁事件の被害者で、心が読める化け物で、婚約中にも関わらず女に浮気をする不埒者で、そして、——なのに。


 胸が苦しい。

 なぜ、うちなんかを。

 なぜ、こんなにも優しい彼を幸せにしてあげることができないんだろう。

 なぜ、この手を取ることができないのか。


 セナは、例え嘘でも、うちを受け入れてくれたのに。


「冷静になって考えて欲しい」

「環っ」

「うちは今からスミレにも同じことを伝える。受け入れてくれるかもしれないし、受け入れられないかもしれない。どっちの結果に転んでも、うちはセナと結婚することはできない」


 婚約破棄、させてください。

 うちはそれだけ言って、外に飛び出した。


「環、待ってるから!!」


 後ろの方から、セナの叫び声が聞こえた。

 嬉しかったと、ありがとうと伝えたかった。

 あのままあの部屋にいたら、うちはきっとセナに甘えてしまう。


 セナを人殺しの花婿にするわけにはいかない。

 スミレに邪な感情を抱いたまま、セナと夫婦になることはできない。

 この気持ちは嘘じゃない。

 うちのことを好きになってくれて、生涯で一人だけの「特別な人」に選んでくれてたまらなく嬉しかった。心が安らいだし、セナと潜る海は楽しかったし、愛しいと思った。

 これは、うちなりの感謝の可視化で、罪滅ぼしだ。

 長い目で見たら、きっとセナはうちと結婚するより幸せになれる。


 セナには意味がわからないだろうけど、うちはスミレに思いを告げる前に別れを切り出したのには理由がある。同じてつを踏まないためだ。

 スミレと関係を築くために精算したかったんだろうと言われればそれまでかもしれないけど、少なくとも、高校生の時のように、大切な人をキープしておくような、そういう行動だけは取りたくなかったのだ。どうしても。

 それが、うちに残った最後の正義だから。


 南から北の方向へ、夏に相応しい熱い風が吹いた。

 風上の方に目を向けると、雲は風に乗って北へ北へと逃げていく。やがて、南の空は雲ひとつない青空になった。

 そう言えば、もうすぐセナの誕生日だったことを思い出す。

 青に南で、青南せな。セナが生まれた日も、きっとこんな空だったのだろう。


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