36 砂浜に埋もれる

 セナは今ごろ、うちの部屋で打ちひしがれているだろうか。

 それとも、怒りに任せて部屋中のものを壊して回っているだろうか。

 それでもいい。

 それで少しでもセナが楽になるのなら、あの部屋にあるどんな大切なものを壊しても構わない。そんなものよりずっと大切なセナとの関係を壊してしまったのだから。

 とはいえ、このまま言い逃げするつもりはない。セナが納得してくれるまで、何度でも対話をする。


 それでも、やっぱりうちはセナとは結婚できない。

 別れを告げた反動で、うちの中にくすぶっていたドロドロはさらに勢いを増している。


 セナに宣言した通り、この足でスミレに会いに行こう。

 しばらく無我夢中で走っていたつもりだったが、駅に向かっていたはずの足は無意識のうちに逗子海岸にゴールを変更していたらしく、砂まじりの風が髪に絡みついた。

 無意識とは名ばかりで、本当は怖気づいて、あえて意識しなかっただけだけど。


(うち、こんな臆病でうじうじしたヤツだったっけ)


 週末になると、普通の服の人よりウェットスーツを着ている人の方が多いんじゃないかと思うくらい、多くの人がマリンスポーツをしにやってくる。

 逗子海岸は南に面した湾だ。だから、南から風が吹くと死ぬ。死ぬと言っても、ダイバーにとってはだから、ウィンドサーファーとしてはいい風なのかもしれない。知らないけれど。

 逗子海岸はウィンドサーフィン発祥の地で、今日もカラフルな羽が海面を滑っていた。

 南風の影響で波の色は黒くなっているけれど、この景色を見ていると落ち着く。


 高校生の頃、うちは思い切りが良い方の人間だったと思う。

 けれど、大人になり、いろいろなことを知って、うちは変わってしまった。

 スミレはうちに「高校生のころのうち」に幻想を抱いていると思う。つまらない大人になっていると知ったら、スミレはガッカリするかもしれない。

 スミレはどんな大人になったのだろう。

 早く会いたい。けれど、いろいろなことが怖くて、この海岸で地団駄を踏んでいる

 ——正確には、砂浜に埋もれていた。


たまきさん、でしたよね」

「!」


 振り返れば、そこには初老の男。柔和な笑み声には覚えがあり、どこかであったことがあるような気がするが、思い出せない。


「『ツナ・キャニング』の店長をしております、遠野とおのと申します」

「ああッ、『ツナ缶』の!」

「いつもご贔屓にしていただきありがとうございます」


 初老の男は、逗子海岸に面したバーテラス『ツナ・キャニング』こと『ツナ缶』の店長だった。贔屓というが、まだ数えるほどしか行っていない。何度か一人で行ったことはあるが、今シーズンは逢子ほうこに会った時が一回、トウヤマに会った時が一回、それだけだ。

 接客業とは言え、数回しか訪れていない客を識別し、名乗ったことのない名前まで覚えているなんて、これがプロフェッショナルか。店長の記憶力には舌を巻いた。


「何かお困りごとですか?」

「あ、いえ、ちょっと海を見てただけです」

「熱中症になってしまいますよ。ウチでお茶でも飲んでいってください」

「え、でも」

里暮りくくんからお代は先に頂戴しておりますし」

「リク?」

橙山とうやま里暮りくくんです」


 トウヤマ、そういえばあいつそんな名前だったな。

 こんなこと——は、まさか想定していなかっただろうけど、うちがスミレ関連で悩んだり苦しんだりする時のことを想定してあらかじめ金を払っていたのか。もしかしたら、店長にその相談相手までお願いしていたかもしれない。

 本当、どこまでもキザったらしいやつで、好きになれない。


「どうぞ、いらっしゃってください」


 店長は柔和な笑みで、けれど拒否することはできない不思議な物腰でうちを『ツナ缶』までいざなった。

 テラスでは可愛らしいポニーテールの女の子が配膳をしている。まだ垢抜けていない。高校生だろうか? 高校生はアルコールの店では働けない? から、大学生?

 正確な年齢はわからないけれど、小麦色に日焼けした垢抜けない女の子を見ていると、否が応でもスミレと過ごした高校時代を思い出させた。


 今思えば、高校生の頃の自分は幼かった。


 誘拐監禁事件があって、人の心が読めるようになって、まるで全知全能の神になったような気分だった。人の心を読むことで、ある程度人を操れるようになった。女の子の友達もそれなりにいたし、ぶっちゃけ男子にもモテた。

 でも、一番身近にいたスミレの心には気づかなかった。いや、もしかしたら気付いていたのかもしれない。でも、気づかないフリをした。結果は同じだ。


 あの八丈島でスミレに「個性」がなんだ、「好き」がなんだと説いたものの、一番それにすがっていたのは自分自身だ。

 普通の高校生とは違うのだと、おごっていた。

 個性は、外からつけるようなものではない。趣味という個性はわかりやすいけど、元来、個性というものは内から滲み出るものだ。誰しもが個性的で、一人一人違う思考回路があり、心がある。

 そんな簡単なことに、うちは気付いていなかった。


 スミレと会ったら、まず何を話そう。

 何から話そう。


 冷たいコーヒーを飲みながら、考えをまとまらせていく。

 沸騰し、湯気でくもった頭は徐々に冷却され、クリアになっていく。

 頭の中には結露だけが残った。


 目標は、このコーヒーの氷が溶け切る前に、この店を出ること。

 早く、スミレに会わなければ。


 『不退転だよ』


 高校生のころ、スミレは一時期ウェブ小説にハマっており、その小説に頻繁に出てくる「不退転」という言葉を好んで使っていた時期があったっけ。

 不退転。今がまさしくその時だ。


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