37 大ッキライ
セナからの連絡はなかった。ホッとしたような、少し寂しいような、なんとも言えない感情になるけど、今は浸っている場合ではない。
昼食を適当に済ませ、うちはスミレとトウヤマが住む場所へ向かった。
もしかしたら留守かもしれない。それなら、帰ってくるまで待つ。
* * *
いざスミレの家の前に到着すると緊張で冷たい汗が吹き出た。
しかも、リビングの窓が開いている。
話の内容はわからないけど、どうやらトウヤマとスミレはそろって家の中にいるらしい。
ドアホンを押したら、始まってしまう。
スミレに会ってしまう。
あんなにも会いたかったのに、そのボタンは死刑囚を首吊の刑に処すスイッチに思えてくる。もちろん、首を吊られるのはうち自身だ。
『不退転だよ』
再び、スミレが好きだった言葉を思い出す。
スミレが読んだその小説の中身は知らない。けれど、その小説は、その言葉は、スミレを介してうちに勇気をくれた。
読書なんて全然興味なかったけど、何か読んでも良いかもしれない。それこそ、スミレのおすすめの本を読んで、スミレを形成した一部を知りたいと思った。スミレがうちの監禁を追体験しようとしたのも、こういうことだったのかもしれない。
ピンポンという軽快な音のあと、前に尾行した時と同じように「はい」とスミレの声がした。
『えっ!?!?』
名前を告げる前に、スミレの驚嘆の声が聞こえた。
どうやらモニターも付いていたらしい。良い家だ。実家にもついていたし、一軒家なら当たり前なのかもしれないけど。
「
『
『環ちゃん、すぐ開けるね』
開いた窓からはトウヤマとスミレの口論のようなものが聞こえてきたが、程なくしてそれは消え、ガチャリとドアが開いた。
「お待たせ、こんなところまでわざわざありがとう」
「いや、これ、手土産。一応」
「わぁ、懐かしい。これ逗子駅前に売ってたお菓子だ!」
「今でも逗子に住んでるからね」
「やっぱりそうなんだね。ちょうど今空気の入れ替えしてて暑いんだけど、レモネードでも飲みながらコレ食べよう」
困ったように眉を下げた笑顔。瞳が大きくて、二重の幅が大きくて、ちょこんと伸びた下の八重歯が可愛らしい。懐かしい、スミレの笑顔だ。
スミレは、つい先日会ったばかりの友人のような親しさでうちを出迎えた。前回見た時と違って、スミレは軽く化粧をし、白の清潔なワンピースを着ている。もしかしたら今から出かけるところだったのかもしれない。
いくつになっても、スミレには白いワンピースが似合う。八丈島でも白いワンピースを着ていたっけ。あの時は少女としての可愛らしさがあったけれど、今は垢抜け、上品な大人としての可憐さがそこにはあった。
「十年ぶりくらいだよね、なかなか連絡しなくてごめんね」
「いいよ、そんなの」
「懐かしいけど、環ちゃんはあんまり変わってないね。スポーティーな服も似合ってるし、あの時と同じで凛としてる。健康的に日焼けしてて、髪も茶色くて、今でも海が好きなんだね。安心した」
「毎週末ダイビングばっかりしてるよ」
「素敵だね、海の話、いっぱい聞かせてよ」
――また、うちのつまらない海の話をきいてよ。
うちはそう願った。それはあっさりと叶いそうだ。
このまま、うちはスミレと友人として再び時を刻むことができるのかもしれない。
セナに謝って、もう一度プロポーズを受けるという選択もあるのかもしれない。
けれど、そういうわけには行かない。うちはスミレと雑談をするためにここまでやってきたわけではないのだから。
「いらっしゃい」
トウヤマは不機嫌を丸出しにしてうちのことを出迎えた。
玄関を抜け、リビングに入る。L字型のソファで、目の前には大型のモニターが
「僕のこと、つけてきたんですね」
「『僕』だなんて、『オレ』でいいよ、いつもみたいに」
「!」
「それから、お茶、ごちそうさまでした。美味しかったけど、あんたのキザったらしいところ、大ッキライ」
「え? 二人とも、会ったことあるの?」
心が
セナとの婚約を契機に爆発して、増殖して、うちの心を蝕んでいる。人はコレを「彩られる」というの言うかもしれない。
うちの心を蝕む何かは、スミレと再会できた喜びであり、拒絶されるかもしれないという恐怖であり、ローテーブルに並んだレモネードの嫉妬であり、焦燥であり、憧憬であり、恋慕だ。
けれど、これらの勘定の全てはうちを「蝕んでいる」と、そう思ってしまう。
うちはスミレのことが好きなのに、どうしてこんな風に思うのだろう。
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