34 スミレ色のライラック・前

 午後になり、うちはセナを呼び出した。

 本当はうちがセナの部屋に行くべきなのかもしれないが、あえて呼び出した。

 だって今から、うちはセナとの婚約解消の申し出をするのだ。そんな思い出は、自分の部屋にはいらないだろう。


「セナ、結論から言う。うちとの婚約を解消してほしい」

「え……?」


 左の薬指から婚約指輪を外す。指が震える。重い。

 けれど、外さなけばいけない。


 指輪を置くと、コツンとやけに軽快な音がした。


「え、ちょっと待ってよ。いきなり何? え、俺なんかした?」

「何もしてない。セナに何か問題があったんじゃない」

「じゃあなんなんだよこれ!?」

「うちには、セナに言ってないカクシゴトがある。それを隠したままセナと結婚することはできない。でも、セナがそれを受け入れてくれても、婚約解消の意向は変わらない。それでも、うちのカクシゴト、聞いてくれる?」


 婚約解消の最大の理由は、うちが心変わりをしたからだ。

 本当はそれだけ言えばいいのかもしれないけど、この期に及んで、まだうちはセナに受け入れてもらいたいと思っているのか。

 それとも、この秘密を知ってうちのことを嫌って欲しいのか。——なんて、あまりにも偽善が過ぎるね。これは単なる、うちのワガママ。


「分かった」


 ありがとう、セナ。

 うちは心の中でお礼を言って、セナに隠してしてた秘密を吐露した。


 一つは、うちが「少女誘拐監禁事件の被害者」であること。

 誰も信じてはくれないが、身体は穢されていないこと。あの監禁の日々を、そしてその後両親が離婚した過程まで、なるべく詳細に話をした。セナは驚いていたけれど、最後は笑って受け入れてくれた。それでもオレの好きなたまきであることは何も変わらない、気持ちは揺るがない、と。嬉しかった。


 一つは、あの事件をきっかけに人が考えていることがわかるようになってしまったこと。もちろん、頭の中に直接声が聞こえてくるわけではない。あの生活を契機に、犯人に対しても両親に対しても、うちを取り巻くすべての人に対して「洞察」するようになった。何を言えば自分が最も望む方向に動くか。カウンセラーを騙し通すために、独学で心理学も学んだ。その結果、うちの洞察力はメキメキと上がり、中学生の時なんかは「心を読まれる」と友人から嫌厭されたほどだ。

 だから、今セナが何を思っているかわかってしまう。うちと暮らすのは生きにくいと思う。

 そう言っても、セナの気持ちは変わらなかった。それでも好きだと告げるセナの心は真実で、うちはこの人を大切にしたい、と強く思った。


 けれど、三つ目。セナは受け入れてくれなかった。

 言葉では気にしない、構わないと言ってくれた。涙を流しながら、うちを抱きしめてくれた。

 でも、分かってしまうのだ。うちは人の心が読めるから、これはセナの優しさで、

 うちがこんなにも真剣に話をしても、信じてくれないことがショックだった。ある意味拒絶された方がマシだ。


「……聞いてくれて、ありがと」

「ま、待って環、違うんだ。少し驚いただけで……、だから」

「ううん。今まで黙って、ここまで来てしまって本当にごめん。もっと早く言うべきだった。今が、取りつかえしがつなくなる前の、最後のタイミングだったから」

「もう取り返しなんてつかないよ! 俺は環のこと、本気で好きになってしまったんだ! さっきのことだって、もう時効じゃないか!!」

「時効なんてないよ。うちは今でも犯罪者だ」

「でも、あんな、半年も監禁されたら魔が差して当然だ! それに、あの頃の環はまだ子供だったし、大体、本当に環がやったのか? そうだったら警察がとっくに動いているはずだ。環の思い込みだよ……!」

「わからない、そうだったのかもしれない。でも、うちはずっとそう思って生きてきて、それを隠してきた事実は変わらない」


 セナは机に置いた婚約指を手にとり、うちの手をぎゅうと握った。

 暖かい、少し乾燥したセナの手。


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