44 私はきっと、恋がしたかった・後
「でもね、それでも足りなかった。
「上書きって、自殺する気だったのか?」
「まさか。私は環ちゃんとずっと一緒にいたかったんだもの、死んだら意味ないよ。死んで心の中でずっと一緒にいれれば、なんて殊勝な心は持ち合わせていない」
「じゃあ、なんでそんなことしたんだ」
「……私はきっと、恋がしたかったんだと思う。ストックホルム症候群って知ってる? 監禁された被害者と犯人の間に恋愛感情に似た何かが芽生えるっていうアレ」
「ああ、聞いたことはあるよ」
「私の目的は"環ちゃんとずっと一緒にいること"だったはずなのに、いつの間にか"ストックホルム症候群を発症させること"にすり替わっていた。発症させたら、私は環ちゃんと甘美な時間を過ごし、犯人との記憶を塗り替えられるって、当時の私は本気で思ってたの。ちゃんちゃらおかしいよね」
たとえ、ストックホルム症候群を発症させても、記憶の塗り替えなんて出来ないし、それは恋でもなんでもないのに、私は「環ちゃんの理解者になりたい」「環ちゃんの辛い記憶を塗り替えたい」なんて
「でも、本心は嘘じゃないの。私は環ちゃんとずっと一緒にいたかった。あの楽しい時間がずっと続いてほしいって、それだけだった。歪んで、狂ってしまったけど、それだけだった。それだけのために、私はここまでした」
七戸くんには、こんなことできないよね。だから、七戸くんより私の方が環ちゃんのことを愛してる。
言葉にはしないが、七戸くんは私の言葉を受け取ったらしく、右手を硬く握りしめていた。
「……それは、昔の話だろ。俺だって、できたよ。きっと」
「じゃあ、環ちゃんが犯人を殺したって言った時、七戸くんはどうしたの? どうせ、環ちゃんのことを受け入れただけでしょ?」
「どうせってなんだよ。環は犯人を殺してなんかない。本当に環がやってたらとっくに警察が動いてるよ」
「あーダメダメ。本当にわかってない。『人殺しなんかしてない』っていう前提条件の上で環ちゃんのこと受け入れたんでしょ。そんなの受け入れたに入らないよ。それに、事実がどうあれ環ちゃんにとっての真実は『犯人を殺した』なの。それを信じてない。イコール、受け入れてない。七戸くんは環ちゃんの殺人を受け入れてなんかない」
なんて、厳密に言えば私も「環ちゃんが人を殺した事実」は信じていないわけだけれど。環ちゃんにとって真実でも、やっぱりそれは事実ではない可能性が高いし、それに何より、そんなことどうでもいいのだ。
「仕方ないだろう、それは! そもそも、環が人を殺しているかどうかも不確かな状態では受け入れられない。俺は環の盲言だと思ってるし、存在しない罪で苦しんでほしくない。だから環の目を覚まさせるべきだ。それの何が間違いなんだよ……!」
「間違ってなんかない、それが正解だと思う。でも、環ちゃんが求めてるものはそれじゃなかった」
「!」
「私はね、心の中はドロドロで、平気で邪魔者を排除して、陥れる汚い人間なの。私の知らない誰かが死んでもどうでもいいって思ってるヒドイ人間で、人は攻撃するくせに、いざ自分が攻撃されたら
ごめんね、七戸くん。
七戸くんは、私よりもずっとずっと素晴らしい、素敵な男の人だと思う。
どちらがより正しい人間かなんて、火を見るよりも明らかだ。
「十年も経ってるのに、今更何って感じだよね。でもね、今更じゃないの。私はずっと環ちゃんのことを探してた。あの人の目、環ちゃんに似てるな。この人の言い回し、環ちゃんに似てるな。肌の色、髪の色、歯並びの良い歯。環ちゃんの欠片はあちこちにあって、胸が苦しくなった。私にとっても、環ちゃんは特別な人なの」
私は狂ってる。そして、環ちゃんも狂ってる。
恋愛って、誰が正しいわけでも、何が正しいわけでもない。
当人が恋し、愛し合っていれば、それが他人からみたらどんなに歪んでいても、きっとそれは正しく、
これが、この十年、世界に飛び出し、いろんな人の話を聞いて、いろんな物語を読んだ、一つの学び。
友情も愛情も、考えも、好きって気持ちも、人それぞれだってこと。
「七戸くん、私に、環ちゃんを譲ってください」
七戸くんは、微かに頷いて、静かに泣いた。
私も何も言わない。
黒猫がにゃあと泣くだけだ。
愛してるだなんて、生まれて初めて言った。
環ちゃんのこととはいえ、それが七戸くんだなんて最悪だ。
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