32 そうでなければ、この感情は何なのだ。
ここで大人しく引き下がることができれば、きっとうちは思慮深い良い大人になったという証左になっただろう。
けれど、あんな話を聞いて、そのままおめおめと
先に店を後にして、夜凪に紛れてトウヤマが店を出るのを待つ。トウヤマの家は、確か墨田にあると言っていた。墨田に行って、二人の住む家まで尾行したら、逗子に戻るための終電は確実になくなっているだろう。今日の宿も、明日の仕事もどうでもいい。
これは、スミレと話ができる最初で最後のチャンスだ。
きっとトウヤマは、スミレが会っても良いと言わない限り、二度とうちに会うことはない。
今日は新月で道も暗い。
うちは強運なのだ。勝利の女神はうちに微笑むに違いない。
「じゃあねー店長。また来るよー」
「今度は
「うん、必ず」
距離は五十メートル。
尾行をするのは、生まれて初めてだ。
うちはスミレのことをヤバイやつだと思っていたけど、うちも相当ヤバイやつだと思う。普通の人としてのうちは、小学生の頃に監禁されたあの日に死んでしまったのだろう。
* * *
横須賀線に乗り、新橋で都営浅草線に乗り換える。到着したのは押上駅だ。
そこにはスカイツリーがあって、スカイツリーの中にはすみだ水族館がある。すみだ水族館では小笠原の海の展示コーナーがあって、そこにはシロワニという大きなサメが展示されているのだが、すでに水族館は閉館している。
先端が雲に隠れた禍々しい塔を背に、ひたすらトウヤマの背中を追った。
彼は一度も振り返ることなく、ザクザクと進んでいく。
途中誰かに電話をすると、コンビニで何かを買って行った。
そうして歩くこと十分。小さな一軒家の前でトウヤマは足を止めた。
彼の目の前の家には、明かりが灯っている。あの中にはスミレが居るのだろうか。
うちは曲がり角の影に隠れ、じっと彼を見つめた。
ピンポーンとインターホンを押す。数秒すると、聞きなれた声が聞こえてきた。
『はい』
「オレー」
『はーい』
聞き間違えるはずもない、スミレの声だ。
玄関前の電気が点灯し、がちゃりとドアがあいた。
「おかえりー。飲んできたの?」
「うん」
「今日はお持ち帰りできなかったんだ、残念だったね。リクさんももうオッサンなのかなぁ、悲しいね」
「こら! シッ!! アイス買ってきたから機嫌直してよ、昨日から仕込んでたステーキ、食べれなくて悪いと思ってる」
「ふーんだ。もうぺろりと完食しちゃったから」
「エエッ!?」
「うそだよー」
そうして、二人は光の中に消えた。
卒業してから九年ぶりに見るスミレ。化粧もしてなくて、眼鏡もかけてスッピンだったけど、垢抜けていた。
長かった黒髪は、少しアッシュのような色合いをしていて、胸あたりで切りそろえられている。パーマをかけているのか、毛先が内側に回っていた。
スッピンだけれど、吹き出物一つないスミレの肌は綺麗で、少女から、大人になっていた。
うちも二十七歳で、スミレも二十七歳。
周りには子供が二人いる子もいるし、結婚していたり、妊娠中だったり、そんな子が多い。うちもセナにプロポーズされたし、もしかしたら、スミレとトウヤマもいつか結婚するのかもしれない。
昔スミレが読んでいた『きらきらひかる』の主人公たちのように、二人が助け合い、分かちあい、性行為のないプラトニックな愛を貫くのかもしれない。
トウヤマは、うちの知らないスミレをたくさん知っているのだろう。
トウヤマはあの八丈島の夜のことを知っている。ならば、おそらく
うちが知らないスミレの九年間を、トウヤマは知っている。
高校を卒業した後、スミレは海外の大学に進学した。そこにはトウヤマがいたのかもしれないし、去年日本に帰国してきたらしいけど、それだってトウヤマかスミレのどちらかの赴任の影響で、一緒に日本に帰ってきたのかもしれない。
恋人でなくても、もしかしたら体の関係だってあるのかもしれない。
うちが知らないスミレの恥じらいを、あいつは知っているのか。
全ては憶測に過ぎないが、トウヤマがうちの知らないスミレを知っていることは確かだ。
(ああ、なんでこんなにイライラするのかな)
スミレはうちのことが好きで、好きすぎて危ないやつだった。
スミレは誰よりもうちに執着していた。執着し続けると思っていたし、うちはそれを当然だと思っていた。
だからセナと付き合って、婚約した。
うちの立場がどう変わろうと、スミレはうちから離れないと思っていたからだ。
けれど、時が経てば、人が変わるのだ。
うちが変わったように、スミレも変わってしまった。
執着していたのはきっと、うちの方だった。
ああ、ムカつく。うちからスミレを盗んだあの男に苛立って仕方がない。
あいつはスミレを大切にしているけれど、スミレの「唯一」でもなければ、あいつにとってのスミレも「唯一」ではないのだ。
スミレは、うちの「唯一」の人なのに。
終電はもうない。こんな住宅街の真ん中で行く宛もない。
けれど、今日ここに来て本当によかった。
この激しい嫉妬心のことを何て呼ぶか、十年前のうちは分からなかっただろう。仲の良い友達に彼氏ができて、寂しいのかなって、きっとそんな風に思ったに違いない。
でも、今ならわかる。これは「恋」だ。
そうでなければ、この感情は何なのだ。
かつて一度だけセナが浮気した時も、私はこんなにも激しくドロドロとした感情は抱かなかったのに。
→
*『きらきらひかる』江國 香織著/新潮文庫
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