30 つまらない海の話・前

 元二〇八号室の住人だと思しき人は、意外にもすぐに見つかった。

 少し心苦しいが、ネット上で男性のフリをして、SNSを検索。セナの免許証を拝借して男性同士向けのマッチングアプリを登録し、新宿二丁目のバーに通い詰めた。


 そうして出てきた名前が「トウヤマ」。

 なんだか聞き覚えがある名前で、うちはすぐにその人に連絡を取った。


『日和環(ひよりたまき)と申します。急なご連絡で恐れ入りますが、榛純恋(はしばみすみれ)という女性をご存知でしょうか。もしご存知でしたら、彼女のことを教えていただけないでしょうか。彼女に、どうしても会いたいのです』

 そんなメッセージを送ってから、二日。

 ついに、SNSのポップアップはトウヤマからの着信を表示した。

 はやる気持ちを抑えきれず、仕事はほっぽりだして通知をタップする。


『知っていますよ。貴女のことは彼女からよく聞いていました。貴女はどうして今になって、スミレちゃんに会いたいと思ったのですか?』


 ビンゴだ!

 そう喜んだのも束の間、次のメッセージが飛んでくる。


『スミレちゃんは、貴女に会いたくないと言っています』


 スミレ。

 やはり、うちのことなんてもう嫌いになってしまったんだろうか。


 うちのことが好きだと、ずっと待っていると、そう言っていたのに。スミレは嘘つきだ。


 * * *


 木曜夜、二十時、バーテラス『ツナ・キャニング』にて。

 店の前でトウヤマがやってくるのを待っていると、約束の一分前、やや小走りで一人の男がやってきた。こちらに向かって手をあげている。


「すみませんお待たせして、トウヤマです」

「いえ」


 トウヤマは、至って普通の男だった。ゲイの友人はいないが、言われなければわからないと思う。

 トウヤマは、品の良さそうな洒落たスーツを着て、ポケットにチーフまでいれている。まるで結婚式帰りのようだが、これが普段着らしい。キザったらしい男だ。


「すみません、呼び出した上わざわざ来てもらって」

「気にしないでください。ここ、学生の頃行きつけだったんですよ。ね、トーノさん覚えてますよね!」


 店長は柔和な笑みをトウヤマに向けた。

 この人も、スミレのように人との距離感を取るのがうまい。トウヤマのように話したがりには雑談を交わし、うちのようにあまり話すのが好きではないタイプは放っておいてくれる。

 潮騒しおさいに混じる店内の喧騒はいつ聴いても心安らいだ。

 トウヤマは店長と少しだけ話をすると、海が見えるカウンター席に腰を下ろし、うちの隣に座る。つい先日逢子ほうこが座っていたところに、トウヤマが座っていた。

 スミレはうちとトウヤマが似ていると言っていたが、この男とうちのどこが似ているのか、皆目検討もつかなかった。

 この人は初対面で、メールでも今でも柔らかい物腰だが、なんだか気に食わない。この男の所作の全てが鼻につく。スミレに言ったら、同族嫌悪だと笑われそうだけれど。


日和ひよりさんですよね。スミレちゃんから噂はかねがね。当時聞いていた通りだ。今でも海は好きなんですか?」

「ええ、まあ」

「いいですね! インストラクターとかになったんですか? シュノーケルとか、スキューバとかの」

「ただの会社員ですよ」

「そうなんですか、まあ、そうですよね。僕はホストをしています。ゲイ専門の!」


 ああ、なんだかそれっぽい。


「冗談ですよ。これ、名刺です。ただのしがない営業です」


 差し出された名刺には、うちでも知っているメーカー会社の営業部と書いてあった。名前は橙山とうやま里暮りく。こんな名前だったのか。

 頂戴します、と言い慣れないビジネス言葉を使って、名刺を受け取った。


「ホストって言った時、すんなり受け入れましたね」

「髪こそ黒いですけど、服装がイキっましたので」

「結構、グサってくる、それ」

「そんなことより、本題に入らせてください。スミレはどうして私に会いたくないのでしょうか」


 時刻はもう二十時。トウヤマがどこに住んでいるか定かではないが、当時のように鎌倉には住んでいないだろう。どうでもいい世間話に時間を使って、スミレの件がなあなあで終わるわけにはいかないのだ。

 トウヤマは一つため息を着くと、店長に向かって「いつもの」と、いつもの何かを注文した。


「まあ、注文くらいしましょうよ。日和さんは何を飲みますか?」

「じゃあ、スクリュードライバーで」


 トウヤマは店長にうちの分の注文もすると、居住まいを正して体を少し傾けた。

 しまりのない顔が、急にキュッと引き締まる。


「スミレちゃんは『会いたくないから』会いたくないんだと思いますけど、そこに理由は必要ですか」

「必要です。どうして会いたくないのか、私にはわかりません。納得できません」

「スミレちゃんは、貴女は踏みこんでもいいラインをわきまえている方だと言っていましたが、結構鈍感なんですね」

「分かっていても、踏み込まないといけない時もある。それが今です」

「スミレちゃんは今……、貴女に会えるような状況じゃないんですよ」


 会える状況じゃない?

 どういうこと? もしかして入院とか……!?


「スミレ、病気なんですか」

「ええっ違いますよ、スミレちゃんはピンピンしてます。そんな、ドラマじゃないんですから」


 ハハハ、とトウヤマは悪びれずに笑う。

 スミレに大事がなくて安堵したが、なんとも小憎ったらしい男だ。


「じゃあ……、遠くの海外にいる、とか?」

「去年まではそうでしたけど、今は僕と墨田に住んでますよ」


 去年までは海外に居たのか。学生のころも海外の大学に進学していたし、うちらが疎遠になった原因にはやはり物理的な距離というのもあったのかもしれない。

 けれど、今、聞き捨てならないことを聞いた。


「トウヤマさんは、今スミレと暮らしているんですか」

「はい」

「それ、どう言うことですか」

「え?」


 ぎゅう、と自分の手を強く握る。

 注文したスクリュードライバーと、トウヤマの「いつもの」のスコッチウイスキーはいつの間にかテーブルに置かれていた。


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