22 ノーチラス(1/5)

 タイトルは『変身』。

 朝起きたらムカデになっていた男の話で、今のところ奇天烈な発想ではあるが、なぜ傑作と呼ばれているのか私にはわからない。

『変身』の主人公グレゴール・ザムザに与える不条理。最後はその不条理に打ち勝って人間に戻ってハッピーエンドになれば良いと読み進めていたが、残りあと三ページでハッピーエンドになるとは到底思えなかった。

 救いのない話は、今の私に相応しくない。


「スミレ、おなかすいた」

「うん。今作るね。何がいい?」

「肉、食べたい」

「待ってて」


 カラカラ、とプラスチックの鎖が擦れる音がする。

 たまきちゃんが好きなコバルトブルーの鎖は、環ちゃんの足から南京錠を経由し、剥き出しの水道管につながっている。

 窓は閉め切っているが、誰もいないこんな場所で叫んだところで誰も助けには来てくれないだろう。


 監禁三日目。環ちゃんは私の部屋で寛いでいる時のように大人しくなった。

 でも、不思議だ。抵抗こそしたけれど、環ちゃんはどうしてこんなことをするのか私に一度も聞かなかった。

 私がなぜこんな行動をするのかわかっているのだろうか。

 それとも、一回目の監禁で、問うたところで欲しい回答はもらえないと諦めてしまったのだろうか。


 海にも行かず、星も見ず、私たちはもう丸三日もこのエアコンの空調の中で生きている。

 お風呂はまだ入れていないけど、食事も与えて、ふかふかな寝床も与えて、涼しい空調もあって、——これじゃあ、ストックホルム症候群を発症させることなどできない。

 ただただ不快で、私の不可解な行動に底知れぬ恐怖は感じでいるだろうけど、命の危険があるだとか、痛めつけられるだとか、そういう即物的な恐怖は感じていないのだと思う。この部屋に緊張感などほとんどなかった。

 これじゃあ、監禁じゃなくて軟禁だ。


 だったらもう少し、危機感を持ってもらわないといけないかもしれない。


「ねえ、環ちゃん。……私は本気だよ。遊びで、こんなことやってるんじゃない」

「遊びだよ、こんなの。鎖だってプラスチックじゃん」

「でも、そう簡単には千切れないよ。今はご飯を出してるけど、私の気まぐれでいつ食事が出なくなるかわからない。鎖をもっと短くにして、身動きできなくなるようにするかもしれないよ。そうしたら、水も飲めず、トイレにも行けず、蒸し暑いこの密室の中で死んじゃうかもしれないよ」

「スミレはそんなことしない」

「ここが自分の別荘だからって安心してるの? 私はもう後先のことなんてどうでもいいかもしれない。そしたら、私の気まぐれで環ちゃんを殺してしまうかもしれないのに」


 私と環ちゃんはしばし見つめ合う。

 環ちゃんは嘆息すると、馬鹿なこと言ってないで、早くご飯。と、歯牙にも掛けない。


「環ちゃん!!」

「うるさい」


 私は完全にナメられている。

 こんなんじゃ、ストックホルム症候群だなんて程遠い。

 私と環ちゃんは、まだ「被害者」と「犯人」の関係にすらなれていないのだから。


 * * *


 監禁五日目。

 八丈島に来てから六日目。


 体験ダイビング後に寄ったスーパーで買った食材が尽きかけていたので、私はレンタサイクルをした自転車で食料の買い出しに行った。

 八丈島を含む伊豆諸島名物の島寿司を二パック買う。島唐辛子を醤油につけた島醤油の漬マグロのお寿司だ。

 それから、八丈島産のカンパチのお刺し身とアジフライ、あとは適当に日持ちしそうな肉や魚、飲料水を買うと、自転車のカゴはパンパンになっていた。

 八丈島は坂が多い。カンカン帽なんかじゃ島の夏の太陽熱は全然防げなくて、別荘に戻った頃には身体中の穴と言う穴から汗が噴き出ていた。


「買ってきたよー」


 もしかしたら、環ちゃんはこの隙に逃げたのではないかと思ったけれど、家から出た時と寸分変わらぬ体制で環ちゃんは空を見上げていた。

 脱走する気もないらしい。私たちの関係は相変わらず「被害者」と「犯人」未満の何かで、甲斐甲斐しく食事や冷たい水を持っていっている。空気が悪くなったら窓を開けて換気して、その間は扇風機を環ちゃんに譲って、特にやることのない私は別荘を掃除したり、洗濯物をしたり。環ちゃんは日がな一日、別荘に置いてあった海の雑誌をぺらぺらとめくり、つまらなそうな顔をして眺めていた。

 本当は、海で遊びたいのだろう。

 少し坂を下れば、きれいなビーチも、ダイビングポイントも、シュノーケルポイントもある。潮騒しおさいこそ聞こえないけれど、窓をあければ確かに都会とは違う草と潮の香りがしていた。


「風呂、入るの?」

「え?」

「うちもそろそろ入りたいんだけど。コレが始まってから一度も風呂に入れてないし、歯も磨いてない」

「……ダメだよ、その鎖はお風呂場まで伸びないもの」

「じゃあスミレがやってよ」

「で、できないよそんなこと」

「あの人はやってくれたよ」

「!!」


 環ちゃんは、不適に笑っている。

 そうか、そりゃ気づくよね。こんなの、環ちゃんには「ゴッコアソビ」にすぎないんだろうけど、環ちゃんの過去を知ってないとできないって。


「やってよ。こんなんじゃ全然、あの時の再現になってない」


 環ちゃんはわかってるんだ。

 理由は分からなくても、どうして私がこんなことをするのか。


「これじゃあ、スミレの目的は果たせないよ」


 私の目的だって。きっとわかっている。

 わかった上で、この五日間私を泳がせて様子見していたのだろう。


「あの時の再現をしたいんでしょう。教えてあげる、うちがあの時、あの人に何をされたのか」


 環ちゃんはそう言うと、黒いTシャツを脱いだ。その下には、いつもつけている黒レースのナイトブラ。

 見慣れているはずなのに、身体の奥の何かがじわりととろけた。


 →


 *『変身』フランツ・カフカ 高橋義孝訳/新潮文庫

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