21 八丈島
結論から言うと、あの日、私たちはウミガメを見ることはできなかった。
けれど、あんな光景を見せられた後に誘われたら、断ることなんてできない。
私と環ちゃんは来週から二週間、八丈島で遊ぶ。
行きは飛行機、帰りは大型船でなんと十時間もかかるらしいから、伊豆諸島とはいえ遠い島だ。
到着日は体験ダイビングをして、以降はノープラン。
シュノーケルをしたり、浜辺で遊んだり、サイクリングをしたり、気ままに遊ぶ予定だ。
環ちゃんは八丈島に行ったことがある——というか、八丈島には環ちゃんの家の別荘があるらしいので、八丈島にとはとても詳しい。私のためにガイドマップを取り寄せ、たくさんの遊びの予定を立ててくれた。
「環ちゃんは、お母さんと暮らしてるんだよね」
「うん。母子家庭」
「別荘があるなんて、羨ましいなあ。ダイビングの機材もいっぱいあるって言ってたし」
「うん。いやぁ、まあ、……うち、離婚しててさ。それで慰謝料たんまりくれたらしいんだよ。別荘もそのうちの一つ。お母さん弱ってるのに、浮気なんかして、サイテーだよ」
離婚したのは調査報告書で知っていたけれど、浮気だったのか……。
環ちゃんが彼氏を作らない理由の一端には、監禁事件以外にも、お父さんの浮気もあったのかもしれない。
「でも、わからないんだ。うちの両親はスキューバダイビングが大好きで、それをきっかけに知り合って結婚したらしい。でも、父親は浮気していなくなった。それなのに、ダイビングの機材も捨てず、この海岸沿いにある葉山町に引っ越してきた。どうしてなんだろう」
「お母さんは、今でも海が好きなんだよ。環ちゃんと同じように」
「でも、全然潜ろうとしないんだよ。うちだってもう十七で、少しくらい家を空けたって構わないのに。今回の件だって、八丈島をオススメしてきたのはお母さんなんだよ。それなのに、一緒に来ようとはしない。ダイビングだって、うちにはやらせるけど自分は絶対にしないの。海に入ろうもしない。意味わかんなくない?」
「んん……。私もその心の機微はわからないけど……。多分、時間がかかるんだよ。もしかしたら、お母さんなりのケジメなのかもしれない」
「えー」
「環ちゃんが大人になって働くようになったら、お母さんをダイビングに誘ってあげようよ。きっと喜ぶと思うな」
「そうかなぁ」
「そうだよ、だって、環ちゃんのお母さんだもの」
* * *
翌週。
私たちは八丈島に到着した。
船で十時間の旅路も、飛行機に乗れば小一時間で着くのだから、やはり飛行機はすごい。
フィンとマスク、シュノーケルを防水リュックに詰め、足元は環ちゃんおすすめ・葉山住民必携のギョサンで固めた。
環ちゃんはジーンズのスカートに黒いTシャツ、キャップ。私は貝殻柄のワンピースにカンカン帽。遊ぶ準備はバッチリだ。
空港には、本日体験ダイビングをさせてもらうダイビングショップがお迎えに来ている。
「
「はい、日和環です」
「日和ご夫妻はウチの常連さんだったんだよ。大きくなったねえ、昔はこーんな小さかったのに」
「あはは、いえ、その節はどうも」
「女子高校生二人で八丈島二週間だなんて、流石だね! 今日の体験が終わっても、困ったことがあったら連絡してね。この島はほぼほぼ電波あるし」
「はい、ありがとうございます」
この現代日本に電波がない場所など存在するのかと聞きたくなったが、二人は冗談を言っているようではない。きっと、この八丈島以外の伊豆諸島では、電波がない地域もあるのだろう。
LGBTしかり、この世はまだまだ知らないことだらけだ。
「じゃあ、乗って! ショップまで十五分くらいだから」
「はーい!」
ダイビングショップの送迎車は全て防水シートに覆われているし、椅子は木の板みたいだし、窓ガラスの開閉はぐるぐるとレバーで回す回転式だし、車に鍵をかけるという概念もない。ドアも塩害を受けてガビガビだ。
街路樹にはヤシの実が生えているし、伊豆諸島なんていう名前でコンビニすらないくせに、所属は東京都で品川ナンバーが走ってる。
ウミガメがたべられるのは八丈島ではなく小笠原だってことも。
海の世界の美しさも。
夜になると、星がきれいってことも。
知らないことだらけ。
「さーって、やっと到着したね! 自分ちだと思ってくつろいでよ。って、めっちゃホコリっぽいなヤバイ!!」
「あはは、先に掃除だね」
「あっ、でも朗報もあるよ……! ちゃんと電気ガス水道は生きてた」
「それは、本当に、良かった」
そして私はもう一つ、この八丈島で知ることになる。
好きな人を監禁したら、どうなるか。
私は何を思う? 環ちゃんは何を思う?
私と環ちゃんの間に、いったい何が生まれる?
「環ちゃん、携帯充電しとくね」
「ありがとー」
私は、環ちゃんの一番にはなれない。
だって、環ちゃんの一番は、環ちゃんの深層心理に最も深く焼き付いているのは、
——環ちゃんの目の前で自殺した犯人なのだから。
もちろん、私はここで死ぬつもりなんてさらさらない。
痛い思いも、辛い思いもさせないよ。
けれど、環ちゃんをもう一度監禁しなければ、私は環ちゃんの「一番」にはなれない。
ストックホルム症候群。
誘拐事件や監禁事件などの被害者が、犯人と長い時間を共にすることにより、犯人に過度の連帯感や好意的な感情を抱く現象のことを指すのだけれど、環ちゃんと犯人は、きっとこれに近い状態になったんだと思う。
だから環ちゃんは犯人を庇って、最後まで事件の内容を言わなかったに違いない。
私は許せなかった。私の環ちゃんの心の真ん中に、いつまでも居続ける犯人が。
だから私は上書きしようと思う。
環ちゃんを監禁して、私と環ちゃんは擬似的な恋愛関係になる。そして、甘美な時を過ごすの。
ずっとは無理かもしれない。元々の滞在は二週間だ。延ばせて数日。学校も再開するし、一ヶ月は持たないだろう。
それでも、やるしかない。
帰りの船のチケットに力を込める。
これを破いたら、もう後戻りはできない。
でも、これが最初で最後のチャンスなのだ。私はここで、ベストを尽くすしかない。
この八丈島での経験を超えた先で、きっと本当の意味で環ちゃんを理解することができると思うの。
「ごめんね、環ちゃん。許してください」
言霊なんて信じていないけれど、今、自分を震い立たせてくれるのは、幾多の本が教えてくれた物語だけだ。
紙吹雪が舞う。
パーティーポッパーを打ち鳴らした時のように。
→
*ストックホルム症候群/Wikipedia
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