20 日の出・後
午前四時三十五分。東の空は白んでいるが、まだ陽は昇っていない。
五分遅刻してしまったが、
「はぁっ、ごめんね、環ちゃん、遅れて」
「大丈夫だよー、スミレんち遠いし。それにほら、日の出までにはあと三十分くらいあるから。ゆっくり準備しよう!」
「うん」
上京祝いのロートバイクを堤防に立て掛けた。
柴崎海岸は、黒い岩がごつごつと並ぶ磯だ。道路から海へ階段が続いている。初めて海につながるこの階段を見た時はひどく興奮した。実際はただの幅の狭い白いコンクリートで、銀色の何も可愛くない手すりがついていて、下の方は緑色に薄汚れているが、なんだかロマンがあるような気がしていたのだ。
階段前にはすでに何人ものダイバーが到着しており、たまに転びながらガシャンガシャンと重いタンクを背負って磯を歩いている。
「なんか、今日は干上がってるね、大潮でもないのに」
「お、ついに月の満ち欠けと大潮の関係を覚えたんだね。でもね、今日は日の出が丁度干潮なんだ。ほら、あそこに忘れ潮がある」
「ワスレジオ?」
「あの水たまり。潮が引いたから、岩と岩の間に海水が残ってる。忘れ潮って言うんだよ」
「じゃあ、あそこに何かおいたら、しばらくしたら海の中に沈んじゃうってこと?」
「うん。満潮になったら、この階段も半分くらい海の中だよ」
「へえ……」
今、階段は完全に磯から露出している。それが半分も埋まってしまうなんて。満潮になったら足もつかなくなるじゃないか。
干満の差は興味深いけれど、やっぱり海は怖い。
「てか、さっきのいいね!」
「何が?」
「忘れ潮に物置くってやつ! タイムカプセルみたいにさ、手紙書いてあそこに埋めよう!」
「え、でも、密封できるようなものもってないよ」
「じゃじゃーん、こんなこともあろうかと、瓶です!!」
「つめたっ」
環ちゃんが私の頬にくっつけたのは、百円ショップなんかで売っている瓶だ・ゴムパッキンで押して、蓋ができるやつ。
中には氷と、水色の液体が入っている。
「ブルーソーダ! 海水で濡れた唇で飲むと甘くて美味しいんだ。これ飲み干した後、手紙入れて、あの忘れ潮の間に突っ込もうよ」
「うん、いいよ。でもよく都合よく瓶なんて持ってたね。ペットボトルならまだしも」
「ペットボトルだと浮力が強くて、手を離したら流されちゃうかもしれないからね。海にポイ捨てはダメ、絶対!!」
そうこうしていると、東の空から細い光が見えてきた。
日の出が近いのかもしれない。
「やばっ、上がっちゃう! 急ごう!」
「うん!」
セーラー服を脱ぎ捨て水着になると、ラッシュガードを羽織りジッパーを上げる。髪は高いところで結んでお団子にした。
そのとき、コンディショナーで髪を保護することも忘れない。これがあるとないとで、海から上がった後の髪のキシキシは雲泥の差だった。
シュノーケルがついたマスクを首にぶら下げ、ゴム製のフィンを手に持つ。私のマスクは白地にピンク、フィンの色は白。環ちゃんのマスクは黒地に青で、フィンは鮮やかなコバルトブルーだ。
家に転がっていたダイビング機材のお古と言っていたけれど、このマスクはきっと買ってくれたんだと思う。だって、使用感が全くなかったもの。
私はマスクとフィンと、私が怖がらないように環ちゃんが膨らませてくれた浮き輪を持って、海へと続く階段を降りた。
さっき見た忘れ潮を飛び越え、磯をしばらく歩く。道は岩が突出していて歩きずらく、シュノーケールをするポイントに着くまでも一苦労だった。
道ゆくおばあちゃん・おじいちゃんダイバーに先を越されながらも、なんとか到着する。
まだギリギリ、日は昇っていないようだった。
「はーー、涼しい! スミレもおいで」
「うん」
環ちゃんはすでに、足がつかないところで私を待っていた。
環ちゃんの手を取ると、そのまま浮き輪まで引き寄せられる。
「大丈夫? ゆっくり息整えていいいからね」
「で、でも、日が昇っちゃうよ」
「いいのいいの、少し昇ってからが綺麗だからさ」
「え?」
水面の際から太陽が登った。
白い球体がひょっこりと頭を出し、あっという間に昇っていく。
水面に太陽の光の道が一直線で走っている。
今日は風も穏やかで、水面は鏡みたいに空と太陽の色を反射していた。
日の出を見るなんて、お正月くらいだ。
けれど、当たり前だけど、毎日毎日太陽は昇るんだということに、私はなんだか感動する。
海に入っているから、水面と視点の距離が近い。視界に入るもの全てが、太陽の光でキラキラしていた。
「しんどいけど、早起きした良かったーって、これを見ると思うんだよね。海と太陽のコラボレーションは最強だよ」
「うん、すごく、きれい……」
「少しは気晴らしになったかな」
「え?」
朝陽から視線を外し、隣の環ちゃんの顔を見る。
海で濡れた肌に太陽の光が当たってキラキラしているし、色素の薄い茶色い瞳は明度を上げ、透けて見えた。
あまりにきれいで、眩しくて、目が
「最近落ち込んでたみたいだからさ。うちじゃ力になれないかもだけど、気晴らしくらいいつでも付き合うからね! 今回はシュノーケルにしちゃったけど、スミレが行きたいところ、やりたいところ、どこでも付き合うよ。落下流水のごとく!!」
「……それ、意味全然違うよ」
「たはっ」
「でも、ありがとう」
そう言うと、環ちゃんはニカっと笑った。
そういえば、私はいつからこの無邪気な笑顔を見ていなかっただろう。
環ちゃんの理解者になりたくて、環ちゃんの一番になるにはどうすればいいだろうってそればかりで、私は環ちゃんという本質を見失っていたのかもしれない。
「んじゃ、無理せず楽しもう! 怖くなったらすぐに上がってこの浮き輪を掴むんだよ」
「え、ちょ、待って、環ちゃん」
「いざ、アンダーザブルーへ!」
「あっ」
環ちゃんはいつの間にか準備をしたのか、海の中へ沈んでしまった。
私もあわててマスクをつけると、息を止めて、ギュッと目を閉じて海に沈んだ。
おそるおそる目を開けると、海底で環ちゃんがおいでおいでと、わたしを呼んでいた。
日の出直後の海の中は薄暗くて、なんだか怖い。それに、いつもは水面
『OK?』
環ちゃんは、親指と人差し指で丸を作って目で聞いてくる。
こんなに深く潜ったことはない。耳もなんだか押されているような感覚がする。
怖い。けれど、怖くない。
環ちゃんはまっすぐ私の顔を見ている。私に何かあっても、きっと環ちゃんは私を助けてくれると思う。その信頼があったからだろうか。
海底に到着すると、環ちゃんは左手で私を抱きしめ、右手で私の手を握ってくれる。
環ちゃんの腰の周りに巻いた
『OK?』
私は再び頷くと、環ちゃんは水面を指差し、再び私の手を握ってくれる。
安心した。
水深二・五メートル。
海底から見る光景に、私の心は震えた。
「——!!」
日中に水面越しに見る太陽も綺麗だった。白い光のカーテンに、水面の形を縁取った海底。でも、これは格別だ。
薄暗い海の中で、太陽の光だけがキラキラ光ってる。
光のカーテンこそないものの、ゆらゆらと乱反射して、白から黄色、黄緑、水色と鮮やかな色彩を帯びて光っている。
小さな泡は下から上へと昇っていく。海は生きているのだ、海も呼吸していると思うと、得体の知れない恐ろしい「何か」は、ようやく「海」になった。
心配するなというように、太陽は確かにそこにあるのだと感じさせてくれる。
ここが海の中であることも忘れて、息ができないことも忘れて、さっきまでの不安が嘘みたいだ。その光は私をひどく安心させる。
涙が出そうなほどに、その光はあたたかかった。
「きれーだね」
「!」
となりでは、環ちゃんが微笑んでいる。
私の体はゆっくりと地上へと舞い上がった。
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