Section4

19 日の出・前

 私は、小説をたくさん読んだ。

 主人公が監禁する側、監禁される側、主人公が自殺する小説、目の前で誰かが自殺する小説。

 そして私は気づいてしまった。

 私は環ちゃんの理解者になれるかもしれない、けれど、たまきちゃんの一番にはなれないということに。


 * * *


「春の帰るところたずねんと欲し、春に問ふも春語らず。流水と落花と、悠然として人にそむきて去る。——春はどこへ行ってしまうのかと、春に問うても春は答えない。流れる水と散る花とが、悠然として人を見捨てて行ってしまう。——これが、李白の『山中問答』の一節です。『落花流水』という四字熟語は、この漢詩が語源ですね。『落下流水』の意味は——」


 今日は夏季講習で、私は夏休みにも関わらず登校していた。今は古典の時間で、漢詩の授業。席替えがないこの学校では、去年の春からずっと、私の後ろの席には環ちゃんが座っている。


『環:ねースミレーひまーー』


 後ろの席からSNSの着信。

 環ちゃんはよくこうして、授業に飽きるとSNSを送ってくる。


『環:今ちらっと画面見たでしょ! 既読既読〜〜』


 逢子ほうこはあの日以来、本当に私と決別したようで、昼食を一緒に取ることもなくなった。環ちゃんも気にはしていたようだけれど、特になんのアクションもなく、いつしか私たちは去年までの「二人きり」に戻った。

 私は環ちゃんを理解するために、出来る限りの行動をした。売春だってした。気持ち悪かったし、心も体も痛かったけれど、これで環ちゃんのことを少しでも理解できるのなら構わなかった。

 あれだけ物事を決めるのが苦手だった私が、環ちゃんのためならと、逡巡さえもしなかったのだから、「恋」というものはすごいと思う。

 よく小説では、好きな人が車にねられそうなると身を呈して庇うシーンがある。あんなものは虚構ならではの演出だと思っていたけど、私も環ちゃんが撥ねられそうになったら、きっと車道に飛び出すと思う。


『環:こらー! 無視すんなー!!』


 そんなSNSと共に、背中を指先でツンとつつかれた。

 前までは喜んで返信をして、後ろを振り返ってよく先生に怒られていたものだ。でも、最近は構って攻撃をする環ちゃんが可愛くてつい無視をしてしまう。

 観念して振り返ると、とても嬉しそうに笑うのだ。


『環:画像を送信しました』

『環:枝毛見つけました。』

『環:画像を送信しました』

『環:割きました。』


「やめなさい」

「へへーー」

「もう……」


 ああ、なんて可愛いんだろう。

 環ちゃんは優しくて、強くて、かっこよくて、私の王子様だった。でもひとたび「恋」を自覚すると環ちゃんが愛おしくて、可愛くて仕方がない。

 退屈な学校だって、環ちゃんに会えるのが嬉しくて、この夏季講習に至ってはむしろ待ちわびていた。


 恋は素晴らしいものだ。


「よーーし、帰ろっかスミレ! 帰りにアイスでも食べて行こうよ」

「いいよ」

「明日はシュノーケルしよう! 風向きもいい感じなんだよね、ほら」


 風向きと風力の強さを示したアプリの画面では、ここ、葉山町の陸から海の方へと矢印が向いていた。今日も、明日も。

 環ちゃんに何度説明されてもよくわからないが、良いコンディションらしい。

 夏より冬の方が海の水は澄んでて綺麗だそうだが、最近の海はかなりマシな透視度であるとか。

 海の話をする環ちゃんは今日も生き生きとしていた。


 正直、私は海があまり好きではない。

 見るのならともかく、入るのだなんて……。それは日焼けするとか、髪が痛むとか、そんなことじゃない。水が怖いし、南国と違って葉山の海の色は濁っていて汚い。

 環ちゃん曰く「春濁り」が残っている影響で、冬は綺麗らしい。春濁りの正体は大量のプランクトンで、それを食べに魚が来るから、透視度は悪いけど魚影が濃いし生き物も多い——らしいけれど、私は魚になんて興味がなかった。

 ウミウシとかいう海の中のナメクジも気持ちが悪い。私が好きなのはせいぜい、ピカピカひかるウコンハネガイとかいう貝くらいだ。

 口から得体の知れない微生物が蔓延している海水が入ってくるなんて、考えただけでもきたならしい。

 私がシュノーケルに付き合うのは、環ちゃんが嬉しそうな顔をするからに他ならない。


「うーん、明日はなぁ」

「おおお!? しかも今、ウミガメ出てるらしいよ! 速報きてる!」

「ウミガメ? そんなバカな」

「葉山では珍しいけど、ウミガメ自体は珍しくもなんともないよ、伊豆で遊ぶとよく見るし。あと、ウマイ!!」

「ええ〜」

「ウミガメ、おいしいよ! そうだ、夏休みだし八丈島行こうよ。あそこのウミガメグルメめっちゃ美味しいしさ、ウミガメの手とか親指と人差し指で押すとぱかっと開くんだ。ん? いや、食べれたのは小笠原だったかな? とにかく、八丈島なら竹芝から船で一晩でつくよ! 船が嫌なら飛行機もあるし! 体験ダイビングにも持ってこいだし!!」


 話がどんどん進んでいく。

 好きなことに一直線な環ちゃんが好き。楽しそうに話をしている環ちゃんを見ているだけで幸せだった。


「えっと、とりあえず明日のシュノーケルだけど」

「行こうよーーー!! ウミガメみたらスミレもおおってなるからぁ多分! 楽しいからぁ多分!」

「んんん……」

「お願い、お願い! 一人じゃつまんないよースミレと遊びたいの!」

「も、もう……ずるいなぁ」


 そんなことを言われたら、断れない。これが惚れた弱みというやつなのだろう。


「いいよ、じゃあ明日ね」

「よっしゃ!!! じゃ、朝四時半に柴崎海岸集合ね!」

「えっ、学校の前に?」

「当たり前じゃん! 海は早朝が一番! 海から見るサンライズはめっちゃ綺麗だよ〜! じゃあ明日ね!!」

「えっ」

「八丈島の件も考えといて! 絶対後悔させないから!!」


 そう言うだけ言って、環ちゃんは教室から走り去った。

 いつもは駅まで送ってくれるのに。私がやっぱりノーという前に、言い逃げして帰ったと言うことだ。環ちゃんの常套じょうとう手段で、なんだかにくめない。


 本当はどうやったら環ちゃんの一番になれるか調べたいところだけど、環ちゃんのシュノーケリングに付き合うしかないようだ。


「四時半に柴崎海岸って……バスも電車も走ってないよ」


 私の家の最寄駅は鎌倉。葉山町・柴崎海岸のある逗子駅の一つ先の駅だ。自転車で三、四十分走れば行けるが、明日はいったい何時に起きれば良いのだろう。

 環ちゃんと遊ぶのは楽しみだけれど、ため息を零さずにはいられなかった。


 →


 *『山中問答』解説/http://www.shodo.co.jp/blog/miya/2009/04/post-117.html

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る