23 ノーチラス(2/5)

 ストックホルム症候群を発症させて、私はたまきちゃんと甘美な時を過ごしたかった。

 汚らしい犯人との記憶を塗り替えたかった。塗り替えて、上書きして、私が環ちゃんの一番になりたかった。

 一番になって、この経験を経ることで私は環ちゃんの理解者になりたかった。

 そうすることで、私はずっと環ちゃんの側に居られると思った。


 私は環ちゃんに恋をしている。

 けれど、分からなくなってしまった。


 洗面器を二つと、コップを一つ、そして歯ブラシ。

 とりあえず先に歯を磨いてもらおうとしたけど、環ちゃんはそれらを受け取らなかった。

 あの人は磨いてくれたよ。と、そう言うのだ。


 だから私は歯ブラシに歯磨き粉を乗せて、歯ブラシを環ちゃんの咥内に入れて、蹂躙する。

 私は小さい頃に歯科矯正をしていた。衛生士さんにクリーニングしてもらったときのことを思い出す。

 歯ブラシは小刻みに動かして、歯茎の際に当たるように、ブラシは寝かせた。

 環ちゃんの歯は白くて、綺麗な楕円を描いた美しい歯並びだった。磨き残しがないように、歯茎を傷つけてしまわないように、丁寧に丁寧に歯を磨く。

 虫歯だらけの乱杭らんぐいだった私の歯とは全然違う。


「くちゅくちゅ、ぺってして」


 環ちゃんは言う通りに、コップの水を口に含むと洗面器に吐き出した。


「次はべろだよ。あーん」


 環ちゃんは口を大きく開ける。私はそっとブラシで環ちゃんの舌を撫でる。

 味蕾みらいについた白い苔を落とすと、環ちゃんの舌は赤く生まれ変わった。


「うちさ、歯並びめっちゃ良くない?」

「うん、羨ましいよ」

「舌も、赤くて長いでしょう?」

「うん」

「犯人はそれを面白がってね、こうして歯を磨いた後、うちにキスをしてきた。


 キス。環ちゃんと、犯人が?


「舌を絡ませて、うちの歯列をなぞった。訳もわからないのに、体の奥が濡れて、疼いてきた」

「やめて! そんなの環ちゃんの口から聞きたくない……!!」

「知りたかったんでしょ? 再現したかったんでしょ? だからこんなことしてるんじゃないの。さ、早くスミレもやって」


 環ちゃんは目を閉じて、私が動くのを待っている。

 環ちゃんとキス。

 嫌じゃない、私は甘美な時間を過ごしたかった。キスをすることで上書きしないといけない。

 嬉しいはずなのに、身体が動かない。

 恥ずかしいとか、そんなんじゃない。


 私は、恐ろしいのだ。


「遅いよ」

「!」


 環ちゃん私を抱き寄せた。

 左手で後頭部を抑えられ、右手で顎を上げさせられる。


「女の子が大好き、アゴクイだよ。当時のうちは全然ときめかなかったけど」

「た、環ちゃん」


 顔が熱い。その動きは決して早くない。環ちゃんの顔がゆっくり近づいてきて、そっと唇に触れた。

 環ちゃんとキスをした。


「口開けないとできないよ」


 ぺろりと唇を舐められる。生暖かくて、少しぬるぬるしていて、歯磨き粉のミントの香りがした。


「い、いや!!」


 思わず環ちゃんを突き飛ばしてしまった。

 嫌なんかじゃないはずなのに、環ちゃんとキスをしたかったはずなのに、私は何故だか拒絶した。

 目から熱いものがこぼれる。

 意味がわからない。保健室で、私は環ちゃんにキスをされてもいいと、確かにそう思ったのに。


「もう、仕方ないなぁ。今日はここまででいいよ。じゃあ次はお風呂ね。頭のてっぺんから、足の爪先まできれいにしてね」

「む、無理だよ、やっぱりこんなことできない!」


 私は環ちゃんを突き飛ばしたまま、床で丸くなって耳を塞ぐ。

 何も見たくない、何も聞きたくない。

 これ以上、環ちゃんと犯人の間に何があったのか、知りたくない。


 私は馬鹿だ。

 私は逢子ほうこが言う通り、優柔不断で、初めから勝負をしない。汚れ役にならないように、自分を可愛がって、保身してる。

 何もできない、何ももってない私が、こんな大それたこと、成し遂げられるはずもなかったのだ。


 私は犯人を見下していた。抵抗できない幼い環ちゃんを狙った臆病者だと。

 けれど、私はそんな犯人以下の意気地無しだ。

 犯人は最低だけれど、警察が踏み込むその日まで、監禁を成し遂げたのだから。

 意気地無しで、最低だ。


「どうして。簡単だよ? タオルで拭いて、タオルが届かない足の指の間とか体の中は、猫みたいに舐めるだけ。ああ、髪はよく洗うの失敗して床がビショビショになってたけど」

「やめて」

「歯を磨いて、体を綺麗にした後はどうしたと思う? 犯人のベッドで一緒に寝るの。こんなふかふかなベッドじゃなくて、黄ばんで、硬くて、男の匂いが染み付いたベッドで、体をまさぐられながらね」

「やめてよ! 聞きたくない!!」

「じゃあ、やめよっか。こんな馬鹿なこと」


 その声がやけに軽快で、私は顔をあげて環ちゃんを見遣る。


 環ちゃんはゾッとするほど綺麗な顔で微笑んでいた。


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