17 だから私は、逢子が嫌い。
「スミ、ちょっといいかな」
「
逢子はこくりと頷いた。
先日までの不遜な態度とは打って変わって、まるで借りてきた猫のようだ。
放課後、私は図書室を訪れていた。本の返却と借りる本の選定で、ここ最近は週に二度は訪れている。
できない経験は本から得ればいい。
私は環ちゃんのこの言葉を信じて、恋愛小説を読み漁っていた。私に足りない恋愛経験を補うために。
逢子はひどく神妙な顔をしている。
場所を変え、連れられてきたのは屋上に続く階段だった。私が逢子をどうにかしてやろうと画策していた、あの階段。
あの日は西陽が背中を焦がしていたが、今は曇天に覆われ薄暗い。
「スミ、あの時は本当にごめんね。不慮の事故だったとはいえ、階段から……」
ああ、やっぱり私は逢子が嫌いだ。
私は階段のことなんかどうだっていい。逢子の言動が気に食わなかったのだ。それに、今だって「不慮の事故」をアピールしてくるのがうざったい。私は悪くないんだと、そればかり。
「いいよ、怪我もしてないし」
「それだけじゃない。あの後もあたしのことハブかないでくれて、嬉しかった。ありがとう。絶対次の日から一人になると思ってたから」
「……あはは、これは、びっくり。そんなことしないよ」
あんたじゃあるまいし。という言葉をなんとか飲み込む。
もっとも、私は環ちゃんに嫌われたくないから逢子を仲間外れにしなかっただけだけれど、まさかこんな殊勝な態度をとるようになるとは想像だにしていなかった。
あの行動は正しかったのだ。自らを犠牲にし正義の鉄槌を与えることで、逢子を改心させることができたのだから。
「あの、だから、怒らないで欲しいんだけど、モヤモヤするのってあたしの
「……それは、どういうこと?」
「自作自演——とは思ってないけど、落ちるのを止めなかった。そうだよね」
「また、私が悪いって言いたいの?」
「そうじゃない。だけど真相がどうしても気になるの。どうして落ちるのを抵抗しなかったのか。そこまであたしを恨んでたの? 怪我することも厭わないほどに?」
ああ、これだから、逢子はイヤなんだ。
逢子は、言葉尻がきついし、すぐ私のことを馬鹿にする。すぐに怒って、その怒りを
でも、陸上に真摯に向き合って、打ち込んでるところはすごいと思う。
逢子は臆さず、自分の気持ちに嘘をつかず、こうして真っ直ぐに体当たりしてくる。
だから私は、逢子が嫌い。
嫌いで、どうしようもく
「否定、しないんだね」
「逢子ちゃんは、それを聞いてどうしたいのかな」
「どうもしないよ。真相が気になっただけ」
大した行動力だ。
あの時点で否定できなかった時点で、私の浅ましさは逢子にバレてしまっただろう。
そう、アレは自作自演だと言ってやろうかと告白してやりたい衝動に駆られるが、ぐっと抑える。
逢子は怪我をすることも厭わないほどに恨んでいる、ということに
「ねえ、逢子ちゃん。私も前から気になってることがあるの」
「なに?」
「それ」
指先を真っ直ぐに逢子に向ける。正しくは、逢子の右手首。
——ガンバレ、と下手くそな刺繍がされた白いリストバンドに。
「前もここで聞いたよね。それ、誰からもらったの? 県大会の時にもらったって言ってたよね。誰から?」
「それを答えなかったから、スミはあたしを恨んでるの?」
「ただ気になっただけ。あの時もそうだったよ」
「……これは、陸上部のコーチにもらったの。刺繍もコーチがしてくれた。私あたしの、初恋の人」
初恋の人にもらったから、逢子はリストバンドを大切に扱っていたのか。
でも、それだけ?
それだけで、ただ触れようとしただけで激しく拒絶するだろうか。
「あのね、あたしの右手首には生まれつき切り傷みたいなものがあるの。リストカットの跡、みたいな。あたしはそれを
「逢子、ちゃんが……? 嘘、まさかそんな……」
「それに唯一気づいたのがコーチで、これをくれた。あたしの片想いだったけど、いつしか学校であらぬ噂が流れ始めた。あの時のあたしは愚かで、好きな人と噂になることが嬉しかった。それであたしのこと、意識してくれればいいって。馬鹿だよね。あたしが強く否定しなかったから、コーチは他の学校に飛ばされることになってしまったの。あたしは恩を仇で返した。だから、これはあたしへの戒め」
あれだけ悩んでも、私は怖くて手首を切れなかったというのに、逢子は切れたというのか。
逢子の話を聞いて一番最初に思ったのがソレだった。
私はつくづく自分が嫌になる。
「告白ついでに、もう一個告白していい?」
「う、うん。何かな」
「あたし、あんたのこと嫌いだったの。最初から。どうしてだと思う?」
「えっ……」
「あんたの負け犬根性がイライラするのよ。いつも自分ってかわいそう、みたいな顔している。それがムカつく。いつもタマに縋って、タマに頼り切っているところもムカつく。優柔不断なのもムカつくし、初めから勝負をしないところもムカつく。汚れ役にならないように、自分を可愛がって、保身して、そのくせあたしや他のクラスメイトを見下しているのがムカつく」
図星だった。
気づかれてたんだ。私の浅ましさを、全部。だから私は逢子に嫌われていたのか。
だから私は、
「今だって、あたしにムカついてるはずなのに何も言い返さない。あたしだけを悪者にしたいんでしょう?」
「ち、違うよ」
「じゃあなんなの? なんで黙ったままなの? ここにタマはいないよ。あんたの気持ちを代弁してくれる人はどこにもいない」
「私、……わからない、なんて言えばいいのか」
「わからない? 何が! あんたあたしのこと嫌いでしょう、だったら言えばいいじゃない。なんであたしが嫌いなのか、何をムカついているのか」
「わ、わかんない……、怖いよ……」
「……そういうところもイライラすんのよ!」
——だから私は、みんなに嫌われてたのか。だから今まで友達ができなかったのか。
ショックだった。形勢が逆転した途端、私は何も言葉にすることができなくなってしまった。かっこ悪い。でも頭の中はパニックで、何を言えばいいのかわからない。
今はただただ、逢子が怖い。
「もういい。あたし、あんたとは一生相容れないみたいだから。明日からは大好きなタマと二人で過ごしなよ。もう邪魔しないからさ」
逢子はあの日と同じく、踵を返し、つい先ほど上がってきた階段を
私は、ここで逢子を呼び止めることもできない。
ここで逢子を呼び止められたら、ここで逢子に話ができたら、私と逢子は、今までとは違う「何か」に、きっと成れたはずなのに。
私はどうしようもないやつだ。
こんな私、誰も好きになってくれない。
「スミレ、泣いてるの?」
「!」
環ちゃんだ。
環ちゃんを視認すると、視界が一気に歪んだ。涙が零れ落ちて止まらない。最近の私は泣いてばかりだ。
「た、環ちゃん、どうして、帰ったんじゃ」
「逢子に残っててって言われて。そしたらブチギレながら階段降りてきたから何かあったのかと思って」
逢子は、いったい環ちゃんを残らせて、どうするつもりだったのだろう。
わからない、私には何も。
「逢子にいじめられたの?」
「ち、違う……。だけど……わからない。環ちゃん、お願い、私のこと嫌いにならないで」
「ならないよ」
ぎゅーっと、環ちゃんに抱きしめられる。
あたたかった。幸せだった。私の中の何かがとろとろとろ、溶けていく。
私を肯定して、受け入れてくれるのは環ちゃんだけだ。
「大丈夫だよ、スミレ」
環ちゃんの、魔法の言葉。
環ちゃんにそう言われるだけで、スッと心が軽くなる。
ずっとずっと、環ちゃんと一緒にいたい。
「大好き、環ちゃん」
絶対に、私はあなたの理解者になるから。
そして、ずっと一緒にいるの。
私だけの王子様。
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