12 階段・後

 世界はゆらりゆらりと後退し、加速し、重力に引っ張られている。

 落ちて、落ちて、——そして止まった。


 ぐいっと強く手を引かれ、何か温かいものに包まれる。太陽と磯の香りが混じった匂いには嗅ぎ覚えがあった。

 ドッドッ、という誰かの強い鼓動に、柔らかい胸の厚み。


 たまきちゃんに抱きしめられている。

 それを認識した瞬間、ありとあらゆる全てが私の頭から吹っ飛んだ。


「た、た、環ちゃん!?」


 環ちゃんは黙ったまま、ぎゅーと私の体を離さない。

 至高の四秒間。

 すーー、と細く息が吐いたのち、環ちゃんは私を解放した。


「怪我は?」

「ない、です」


 実際には手首は捻挫し、膝は階段の角にぶつけて痛むが、反射的にそう答えてしまった。

 慌てて逢子ほうこを見ると、顔が真っ青になっていた。

 本当は無様に階段を転げ落ちて怪我でもする予定だったが、作戦は成功といって良いだろう。心の中でほくそ笑む。


「ご、ごめんねスミ。あたし、そんなつもりじゃなくて」

「……」

「スミ、ほんとだよ、信じて」

「イヤ!」


 近づいてきた逢子に、私は怯えたように自分の体を抱きしめた。


「偶然、なんだよね、わかってるよ。わかってるから、お願いだから、前みたいに私を責めるのはやめて……!」


 私は前髪との隙間から逢子を垣間見る。逢子はまだ眉間にシワを寄せ、眉をハの字に下げて呆然としていた。


「スミレ、ついてきて」


 そういう環ちゃんは、ぎょっとするとほど無表情だ。


「え、でも、授業が……」

「逢子、スミレは貧血で倒れたって言っといて。保健室に連れて行くから」

「タマ、あたし、わざとじゃ」

「お願いね」


 はやく、と私を顎で呼ぶ。慌てて環ちゃんの後をついて行った。

 環ちゃんはずんずんと進む。足がじんじんと痛み、環ちゃんの速さに追いつけない。


「足痛いの?」

「うん、ちょっと膝ぶつけたかも……」


 環ちゃんは少し歩くスピードを緩めたが、手は貸してくれない。

 環ちゃんはとてつもなく怒っている。どうして? どうして怒ってるのかわからない。

 声をかける機会を逃し続けているちに、保健室に到着した。

 二度保健室の扉をノックし、扉をスライドさせる。


「すみません。この子、貧血みたいで。椅子から立ち上がるときにフラッと」

「あらまあ、そうなの? クラスとお名前は?」

「二年B組、はしばみ純恋すみれ

「ハシバミさんね。ありがとう、あとはこちらで見ておくからあなたは戻って大丈夫よ」

「心配なので、ちょっと見ていってもいいですか」

「うーん……。まあ、そうね。ちょっとだけよ」

「ありがとうございます」


 一言も発する間もなくコトは進んでいく。

 養護教諭の前の茶色い丸椅子に促され、そこに着座した。


「貧血? どういう症状?」

「え、えっと……。目眩、みたいな?」

「今は生理中?」

「いえ、違います」

「他に何か症状はある? 例えば、疲労感、倦怠感、動悸がするとか、気が遠くなったりとか」

「うーん、そこまでは……」

「起立性低血圧かしらね。とりあえず横になって様子を見ましょうか」


 養護教諭に促されるまま、私は白いベッドに横になる。

 シャッと生成きなり色のカーテンが閉められると、環ちゃんは備え付けの青い丸椅子に腰をおろした。


 カーテンの奥から聞こえるキーボードを叩く音は忙しない。ひるがえって、環ちゃんは微動だにせずじっと私を見つめ続けている。

 そんな状況で眠れるはずもなく、無理やり閉じたまぶたの内側ではギョロギョロと目玉が動き続けていた。

 しかし、目をつぶっていればいつの間にか睡魔が襲ってくる。それも、昼休み明けだ。うとうとしていると、「スミレ」と環ちゃんに呼びかけれられた。

 眠気は一瞬で消え失せ、私の瞳はくっきりと環ちゃんの姿を写した。


「先生、zoomでオンライン会議中っぽい。小声なら、話しても大丈夫」


 こくりと頷くと、環ちゃんは居住まいを直す。

 一つ息を吐いて、まっすぐと私の目を見た。環ちゃんの目は、日焼けで色素が薄くなったのか、その目の中に灼熱の太陽を宿しているようだ。


「スミレ、逢子のこと、どう思ってる?」

「ど、どうって」

「この前足を引っ掛けられてたよね。今日はスミレを突き飛ばした」

「違うよ、どっちも事故だよ」

「その後も、逢子の態度はひどいものだったよ。スミレは、どうしたい?」


 ついに待望していた瞬間が訪れ、ぶるりと総毛立った。


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