11 階段・前

 前回の作戦決行から十日が経った。

 逢子ほうこからのあたりは一層強くなり、元来の予定では逢子のプライドをあえて傷つけることで強い言葉を浴びせられる予定だったが、そんなものはもはや必要がない。


 変わらず昼食は三人でとっていたが、そこには明らかな亀裂がある。これはたまきちゃんと二人になるための作戦なのだから、どんなに居心地が悪くても離れるわけにはいかない。だが、それでも、昼休みの一時間はあまりに長かった。


 無数の背表紙を指先でなぞる。

 今日も、本を返すと言う口実で図書室に逃げてしまった。あまりの不甲斐なさに、私のため息は止まらない。

 今頃、逢子は環ちゃんに私の悪口を嬉々として語っていることなど、火をみるより明らかだ。環ちゃんは逢子と共に自分から離れていってしまうのではないか、それを思うと気が気でない。


 早く次のステップに進んで排除しなければ。そう思うのと同時に、このタイミングで階段から落ちたらわざとらしいだろうか、それとも、逆に逢子の怒りが治らないうちにことを起こしてしまった方が良いだろうか。

 自問自答を繰り返す。


 私の指先は、二年ほど前に読んだ小説のタイトルをなぞった。

 早見和馬著『イノセントデイズ』

 すごく静かで、すごく壮絶。誰かに必要とされたかった、無垢な少女の物語。

 死刑囚となった女性をその周りの人々の視点から描いたミステリーは、その帯に相応しい衝撃作で、私の記憶に強く刻み込まれている。


 主人公とは立場こそ真逆だが、自らの行き着く先は同じだと思った。

 歪んで、歪んで、誰かに——環ちゃんに必要とされるために、自らの体を痛めつける。全ての罪は逢子に被せて。


 やらないと。

 口の中で呟くと、左の手首をギュッと握りしめた。


 中学生の時、自分の感情が制御できなかった私は、右手にカッターナイフを持って、その刃を手首に当てた。辛かった、死にたかった。けれど、切った後に待ち受ける痛みが怖く、結局できなかった。

 けれど、今は違う。雨の日、トウヤマさんに話を振ることができた。逢子の前で転ぶことができた。


 * * *


 図書室から教室に戻った後、五限に備え、美術室への移動を始めた。四階から三階へ。例の如く、私は環ちゃんと逢子が歩く後ろを追いかける。


「あのね、逢子ちゃん」


 階段の中腹あたりで声をかけ、今日は二人の間に割って入った。

 一段下がって、通せんぼをするようにくるりと振り返る。


「逢子ちゃん、あの、この前のことなんだけど、私が転んじゃったやつ……。私、逢子ちゃんが足を引っかけたんじゃないって、本当に思ってるよ。だからさ……あの……その……」

「何? 何が言いたいわけ?」

「あの、だから、もう、怒らないでほしいの、私が悪かったから……」

「はあ?」


 こんなことを言ったところで火に油だ。ウゼー。と、逢子をイラつかせるだけで何も状況は好転しない。でも、それで構わない。


「そ、そういう風に喧嘩腰みたいなの、やめてほしいの。私たち、三人で仲良くしてたじゃない。ずっとそういう風にされると、居心地が悪くて……」

「そんなに居心地が悪いならスミが違うグループに入ればいいじゃん」

「ど、どうしてそんなにひどいことを言うの……?」

「ねえタマ、タマはあたしとスミ、どっちがいい?」

「やめてよ! 環ちゃんを困らせないで!!」


 私の指は、ふわりと逢子の白いリストバンドを捕らえる。

 逢子は、このリストバンドについて詮索されることをひどく嫌う。当然、触れられることも。私のことが嫌いなのだから尚更嫌だろう。

 逢子の猛禽類のような瞳が、カッと見開かられた。


「触らないで!」


 逢子は私の手を振り払う。その所作はスピードこそあったものの、体のバランスを崩すほど強いものではなかった。けれど、私は落ちる。後ろ向きに。

 本当は前からゴロゴロと落ちる予定だったが、こんな好機は二度と訪れないだろう。考えるより先に体が動いていた。

 背中で緩やかに風を切り、視界が開けていく。踊り場に設置されていた蛍光灯のうちの一本は沈黙していた。


 小さな成功体験は、まさしく、私の背中を——胸を押したのだ。


「スミレ!!!!」


 環ちゃんは手を伸ばす。

 逢子は驚愕している。

 私はぼんやりとその様を眺め、こっそり、ほんの少しだけわらった。


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