10 汝の隣人を愛せよ
「あ、
第一の作戦決行日の翌日は、生憎の雨だった。
学生マンションの入り口でお気に入りのピンクの傘を開こうとしたところで、背中から声をかけられる。
ドキリとしながら振り返ると、
誰だろう。
どこかで見たことがあるような気がしないでも無いが、全くピンと来なかった。
「
「あっ、下の階の……! 先日はドンドンと床を鳴らしてしまいすみませんでした」
私の部屋は三○八号室だ。
階下の住人だと気づき、慌てて頭を下げる。
「いやいやいやいや、やめてやめて、違うから! 苦情言いに来たんじゃ無いから! てゆーかオレそれ全然気づいてないし! 部屋にいないことも多いしさぁ!」
確かに、どこの部屋に住んでいるか分からない、名前も知らない他の住人とはこの玄関ですれ違うことも多いが、トウヤマさんとはほとんどすれ違ったことがないと思う。
最も、他の住人に興味がない私が、たとえすれ違ったところで覚えているかはかなり怪しいところではあるが。
顔を上げると、声をかけてきた時と変わらずトウヤマさんはニカリと笑っていた。
怒っていないことに安堵したが、もう一つ懸念を思い出す。月曜日から土曜日、学校がある日は毎朝鳴らしているパーティーポッパーの存在だ。
私は今朝も元気にパーティーポッパーを鳴らした。しかも今日は、昨日の祝勝も兼ねて、いつものピンク色のパーティーポッパーではなく、金色のテープが百二十本も飛び出す一個七百五十円の「すごいやつ」である。
「あ、そ、それにその……、毎朝のパーティーポッパーも……」
「ぱーてぃーぽっぱー?」
「クラッカーです。こう、紐を引いて、パーンと」
「ああ! 今日誕生日なの!? おめでとう!! えーっと、はいコレ、どうぞ!」
「あ、恐れ入ります……」
トウヤマさんからのポケットから出てきたのはチョコレート味のプロテインバー。
つい反射的に受け取ると、見た目に反してずっしりと重かった。これ一本で満腹になってしまいそうな質量を感じる。
「あ、じゃなくて、音うるさかったですよね。ごめんなさい」
「なーんも聞こえなかったから大丈夫だよ、音って下から上に響くものだし! むしろ俺の方が煩くなかったかな? 夜中に通話しながらゲームとかやってるからさぁ」
「全然気にならなかったです」
「そっか、良かったぁ!」
トウヤマさん人の良さそうな笑顔を浮かべる。
体も大きいし、声も大きいし、肌も日焼けしてて、筋肉質で怖い人かと思ったけど、よく笑う良い人だ。喋り方もなんだか丸っこい。
それに、日焼けした明るい茶色の瞳は、優しさを帯びているようでなんだか話やすい。
「もしよかったら一緒に駅まで行きまセンカ?」
「は、はい」
私はピンクの傘を、トウヤマさんはレインコートを被って外に踏み出した。
傘ではなくレインコートだなんて変わっているな、と思っていると、背中には大きなリュックがあることに気づく。これから旅行にでも出かけるのだろうか。
こんなにも話しかけやすいネタが転がっているにも関わらず、私は言葉を発することができない。
筋肉質な男子大学生を前に緊張している、というよりは他人に対して自分から話題を振るということ自体に緊張している。
今までは一人でも良いと思って生きてきて、高校に入学してからは環ちゃんに任せたきりだった。
その環ちゃんだって私から話しかけてくれたわけじゃないし、席が前後じゃなかったら快活な環ちゃんとは友達になれていなかっただろう。
自分が想像している以上にコミュニケーションが下手なことに今更気づき、人知れず衝撃を受ける。
「オレ、今からタイにいくんだ。ハシバミさんにもお土産買ってかえるからね」
「いえ、そんな。申し訳ないです」
「いいのいいの!」
また会話が途切れてしまった。
静かな沈黙が流れる。ちらとトウヤマさんを見上げるが、特に気にしている様子はない。目が合うも、淡く微笑んで「どうかした?」とその目で聞いてくる。
日焼けした肌色に、白い歯。私の言葉に真摯に耳を傾ける姿勢、間の取り方。そして、環ちゃんと同じ瞳。
なぜトウヤマさんが話しやすいのか、合点がいった。
私は、何時間も転ぶ練習をして、見事成功させた。私にはその実績がある。
挑戦し、練習すれば、きっとなんだってできるようになる。
——私は、変わるのだ。
「タ……、イには、留学に行くんですか?」
「いんや、旅行。この身一つでいろいろ巡ろうかと思って」
「バックパッカーってやつですね、かっこいいです」
「そんなことないよ。タイの目的の半分くらいがうまいメシとカワイイ女の子で、残りの半分がハッテン場だから」
「ハッテンジョウ? カンボジアを目指しているってことですか?」
「へ? うん、そう! カンボジア!!」
汝の隣人を愛せよ。
ふとどこかの小説で聞きかじったキリストの教えを思い出す。
トウヤマさんは隣人じゃなくて下の階の人だけど、些末なことだろう。
「ハッテンジョウって、なんですか?」
「ええ? いやあ、ハシバミさんにはまだ早いよ」
「いやらしいところですか?」
「……ごめんなさい。わざとじゃないので許してください」
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