09 ついに火蓋は切って落とされる

 ——屋上へ続く階段で逢子と遭遇した日の週末。


 指が浮いた状態で歩き、足と足を少しぶつけて、そのままフローリングの床に倒れる。

 どん!


 初めての成功だ。

 フリーリングの床に転がる私の動画を見て、まずまずの出来だと口角をあげる。

 なんだ、やればできるじゃないか。

 今までに無い成功体験に、心が浮き足立つのを感じた。


 ここまで来るのに、およそ四時間。

 短いようで、長い戦いだったと、私は長めのため息の吐いた。


 最初は、布団の上で練習。

 ただ布団にダイブするだけにも関わらず、まさに二の足を踏んでばかり。意気地なしな自分に辟易した。

 布団の上に倒れることに慣れた後は、フローリングの上で転ぶ練習。

 布団ではなく、床の上に意図して転ぶと言うのは、布団に倒れるというのは想像以上の恐ろしさで、足と足をぶつけても踏ん張ってしまい、うまく転ぶことができない。仕方なしに靴紐を片方踏み、無理やり転ぶことで床に落ちる恐怖を緩和していった。

 下の階の住人、苦情に来ないかな。と、青くなった膝をさすりながら何度祈っただろう。

 幸か不幸か、私のトレーニングは頓挫することなく、体のバランスを崩してよろける、膝をつく、手を着く、と少しずつレベルアップしていった。


 そうして四時間、戦々恐々としながらも、なんとか転ぶことができるようになったところである。

 動画を撮影し、不自然さが無いかを確認。違和感は残るものの、転んだ現場をじっくりと見ているものはいないし、まさか意図的に足を引っ掛けて転ぼうとしているなど想像だにしないだろう。


「でも、あと十回!」


 あと十回成功するまではやめないという決意を口に出しながらも、救世主階下の住人鶴の一声苦情を祈った。

 けれど、いつだって救世主は現れない。


 * * *


 入念にリハーサルをし、喜び勇んで登校した月曜日から、早三日。その時がやってきた。


 二限目と三限目の間、私がお手洗いから帰ってきたら、私の席は逢子ほうこが陣取っていた。横向きに座り、後ろの席のたまきちゃんと雑談している。くるぶしまでしか覆われていない剥き出しの二本の足のうちの一つは机の下に収まり、もう一つは椅子から垂直に下ろされていた。

 今から私を転ばせる、邪悪な肉の塊をしかと見留める。


 クラスメイトのほとんどは教室におり、目撃者多数。

 この時を待っていたが、いざ実行に写す時に成ると緊張でぶわっと手汗が滲んだ。手は一瞬で温度を失う。

 教室の入り口でぼうっとしていたら怪しまれてしまう。

 私は何事もないかのように教室に入り自席に向かった。


 指が浮いた状態で歩き、足と足を少しぶつけて、そのままフローリングの床に倒れる。

 足の角度、体の角度。頭の中で家での練習をフルスピードで再現するが、自席は急速に近づいてきて時間が足りない。


 あと少しでついてしまう! どうしよう! 頭の中はちょっとしたパニック状態で真っ白になっていた。


(やばい、これは一番ダメなパターンだ。頭真っ白で、失敗する。落ち着くことなんてできない。それなら、それなら、やるしかない!!)


「わっ」

 ——どん!


 膝と掌には、幾度も感じた痛みが走るが、口角が僅かに上がってしまった。

 けれど、その顔は私のまっすぐな黒髪によって隠されているはず。

 私は口をへの字にして、左の髪を耳にかけた。ゆっくりと掌に力を込め、いててと立ち上がった。


「大丈夫スミレ!?」

「ははードジだね」


 自然に、上手に転べたのか。

 その採点結果を知ることはできないが、周囲の反応は上場のように思えた。

 逢子からは、私を心配する心遣いなど一切感じられない。私を小馬鹿にしていると、そうとしか思えない声音に、苛立ちを隠せなかった。

 ——やはり、私は大切にされない。今に見てろ。


 ついに火蓋は切って落とされる。


「いてて、ごめんね逢子ほうこちゃん。足怪我してない?」

「は、何が」

「逢子ちゃんの足につまづいちゃったから……。陸上あるのに、足首とか大丈夫?」

「意味わかんないんだけど、スミが勝手に転んだんでしょ?」

「え?」


 一瞬の沈黙。

 人を寄せ付けないショートボブ。負けん気の強い、真っ直ぐな目。前髪はやや上に釣り上がった眉毛の上だ。

 だから、逢子の眉がひそめられ、カッと瞳孔が開いたのがよく見てとれた。猛禽類を彷彿とさせる目がギロリと私を睨む。小学校・中学校の女達を嫌でも思い出させる、敵意に満ちた目だ。

 自ら仕掛けたこととはいえ、恐怖で震え上がった。


「なにそれ、あたしが転ばせたってこと? 冗談じゃない。あたしは何もやってない」

「え、いやいや、違うよ。ごめんね、私の勘違いだったかもしれない。考え事してたから」

「マジでムカつくんだけど」


 逢子の低い声に、教室中の視線が一斉に集まる。先ほどまで賑やかだった教室は鎮まりかえり、私たちの一挙手一投足に耳をそばたてていた。


「ご、ごめんね、逢子ちゃん! ごめんね、違うの、えっと」

「あんたなんなの、ほんと。前々から思ってたけどさ」

「ちょっと、やめなよ逢子」

「ふざけんなよ。絶対に足なんて当たってないし。あたしに濡れ衣着せようとしてるんでしょ、許せない!!」


 しかし、激昂している逢子は全く気付いていないようで、激しく顔を歪めている。


「だから、スミレも勘違いだったかもって言ってるじゃん」

「でも!」

「みんな見てるよ」


 そこでハッと逢子は我に還ったらしく、開ききった瞳孔がゆっくりと元の大きさに戻る。

 怒りで張った胸はしずしずとしぼんでいった。


「ほ、本当にごめんね。私、そんなつもりじゃなくて……」

「もういいよ、勘違いなら、仕方ないから」


 全く納得していないのなんて一目瞭然だが、逢子はきびすを返した。

 私も少し遅れて自分の椅子に座る。緊張で冷たくなった手に、逢子の温度がじわりと広がった。


「あんま気にしないようにね」

「……うん。ありがと」


 後ろからため息が聞こえ、私は自らの顔を両手で覆った。

 そうしなければ、すべてがバレてしまうと思ったからだ。


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