07 潮騒・後

 約三十分ほどたまきちゃんと横並びで歩き、高校の最寄駅から一つ先の駅にある学生マンションに到着した。

 親が転勤族で引っ越しの多い私は、学生マンションで一人暮らしをしている。いかにも溜まり場になりそうだが、この部屋を訪れたことがあるのは環ちゃんだけ。それでも、方手で足りるほど。


 サメのドキュメンタリー映画を見ながら、環ちゃんとぽつりぽつりと会話する。


「これがネムリブカ。意外とその辺で見れるよ」

「シュノーケルでも見れる?」

「シュノーケルは難しいんじゃないかなあ。深いところ棲んでるサメだしね」


 百円ショップで聞いていた通り、ネムリブカという中型のサメは昼はじっと寝ていて置物のようなのに、海が暗くなると同時に海底ギリギリを数十のサメが這うように移動していく。闇夜の捕食者ハンターの動きだ。


「いいなあ、環ちゃんには素敵な趣味があって」

「スミレは相変わらず探し中?」

「うん……。ごめんね、色々紹介してくれたのに。シュノーケルだって」

「ああ、いいのいいの。海の中が怖いなんて、当然だもの。私ですら恐怖を感じる時があるよ」


 環ちゃんは、本当に海が好きなんだろう。

 海を嫌いになって欲しくないから、私が海を好きになるように色んな話をしてくれる。怖い思いは極力させないようにしてくれるし、私のペースで海に触れさせてくれる。

 怖がってばかりの私にきっとヤキモキしているだろうに、おくびにもそれを出さない。そういうところも、環ちゃんの大好きなところだ。


「シュノーケルはいつから好きなの?」

「割とここ最近かな。高校受験終わってからハマったし」

「そうなんだ。でももう丸一年以上だね、すごいや。私なんて飽きっぽくて……、何やっても続かないし、中途半端に終わっちゃう」

「当たり前じゃん。スミレは『好きなもの』を探している最中なんだから。それは飽きっぽいんじゃなくて、好奇心が強いってこと、つまり、行動力があるってこと!」


 行動力。そうだろうか?

 ものは言いよう、だが、なんだか救われる。


 環ちゃんのフィルターを通すと、世界は素敵なものに変わるのだ。

 友達もできなかったダメダメな自分が、ちょっとだけダメじゃないように感じる。肯定されている気がする。

 環ちゃんといると、居心地が良い。


「ていうかさ、スミレは読書が趣味なんじゃないの?」

「読書はただの暇つぶしだよ。毎月二冊くらいで読書量も少ないし、同じ本を繰り返したり読んだりしないし、本だって図書館で借りてきたやつだし」

「そういうのって、関係あるのかな?」

「え?」

「この前、『侍女の物語』読んでたよね。どうだった?」

「『侍女の物語』は、<生きる>ために生きるのか、<生き残る>ために生きるのか。とか、希望を根底にしているから絶望がある。とかは、共感したかなぁ。みんなが理不尽を感じながらも、争いながら、従順に秩序の中で生きているっていうの私達の世界にも言えることだと思った」

「前読んでた『極夜行』は? 北極冒険物語の」

「『極夜行』は、お供の犬との関係がすごく良いと思ったな。ビジネスライクだけど、家族以上に大切な犬を、食うか、食わないか。大切って、心の支えって意味だけじゃなく、労働力とか、食糧とか、そういう意味も含めてね。そこの葛藤がリアルで切なくなった」

「ところで、一昨日の夕飯何食べたか覚えてる?」

「一昨日、なんだったかなあ……」


 右上に視点をずらし、一昨日の夜の記憶を探す。

 視界の端に映る環ちゃんは両口端をにまーと伸ばして、鼻の穴を広げていた。

 勝ち誇ったような顔をしているが、私はいったい何に敗北したのか皆目見当がつかない。


「スミレにとっての読書は暇つぶしかもしれないけど、スミレは読書が好きなんだね」

「好き、なのかな」

「そうだよ。うちが海の話をするように、スミレは本の話をする。タイトル言っただけでスラスラその感想が出てくるんだもの、好きなものじゃなければ出てこないよ。一昨日の夕飯みたいにね」

「なるほど……。でも、本なんていくら読んだって意味ない。本なんて、全部虚構だもん」


 シュノーケルの小説をいくら読んだって、息ができない恐怖も、纏わりつく水も、唇に残る塩辛さも、初めて野生の海の生き物を見たときの感動も、小説を読んだ時とは全然違った。


「虚構だからこそ、ドラマがあって面白いんじゃん」

「でも、嘘っぱちだよ。シュノーケルの小説も読んだけど、実際やってみたら全然違った」

「確かに、経験に勝るものはないのかもしれないね。でも、できない経験は本から得ればいいんだよ」


 できない経験は、本から。


「『侍女の物語』のディストピアの世界も、『極夜行』の北極の世界も、経験することは容易じゃない。だから本を通して追体験する。シュノーケルの小説だってそうだよ。スミレの潜った海と、小説の主人公が潜った海は違う。潜った人も違えば、一緒に潜った人も、環境もちがう。当然その感想には差があるだろうけど、同じだった部分もあったんじゃないかな。海の潜る前のドキドキとか、上がった後の潮騒しおさいの心地よさとか、海の中から見る、太陽の光とか」


 ——あの日、なけなしの勇気を振り絞って、私は潜った。

 シュノーケルの先っちょまで海に浸って、息を止めて上を見上げる。

 地上の明るさに、海の色が青く透けていた。

 太陽の光は水面に象られ、揺らめき、水面からまっすぐ海底に、無数の光が伸びている。

 環ちゃんが放ったバブルリングが乱反射しながら海に溶けていく。

 その泡を嫌がって魚は逃げる。

 魚はまるで、空を飛んでいるみたいだった。


 あの時の光景は、やはり小説とは違った。小説よりも美しかった。でも、「海が美しい」という点においては、小説と同じだった。

 海の潜る前のドキドキも。上がった後の潮騒しおさいの心地よさも。


「やっぱり、スミレは好奇心旺盛だね。きっと、一つの体じゃ足りないから本を読むのが好きなんだよ。読書は全然無駄なことなんかじゃない。追体験して、何かを知って、誰かの気持ちをおもんぱかることができるじゃん。少なくとも、『侍女の物語』や『極夜行』が与えた感情は、虚構じゃないし、本物」

「……ほんと、環ちゃんはモノは言いよう、だよね」

「ええ? スミレはなんでも否定から入りすぎ! 自信がない証拠だよ!」

「何も続かないし、何も趣味がなくてダメなやつだと思ってたけど、それでも良いような気がしてきたよ」

「スミレはポテンシャルの塊だよ? 好きなもの、どんどん増えると思う。羨ましいくらいだよ」


 ものは言いようだ。でも、環ちゃんのそんなところが私はたまらなく『好き』。

 読書が好きなのか、正直疑わしいところはあるけれど、この『好き』だけは間違い無い。


 →


 *『侍女の物語』マーガレット・アトウッド著/早川書房

 *『極夜行』角幡唯介著/文藝春秋

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