閑話 シエルと目覚め ※シエル視点
私が物心ついたとき、私の世界には、嫌な感じがするものと、ずっと一緒にいたいと思うものがいた。
今になって思うと、嫌いな人と好きな人なのだけれど、当時はそんな言葉も知らなかった。
嫌いな人はリスペルギア公爵という男、好きな人は後にエインセルと名乗ったぼんやり光っている存在。
エインセル、エインは物心つく前から私に音――歌――を聞かせてくれていた。たくさんの種類の音があったけれど、どれも嫌だとは感じなかった。むしろ、物心ついたときには、エインが歌ってくれているのが、当たり前になっていたのだ。
それから牢屋の中で生きているときに、度々何か温かなものに包まれていることも感じてはいた。
今となってはこの温かなものがエインの魔力であり、私を守っている結界だったのだとわかるけれど、当時はあって当たり前の自然なものとして、そのありがたみに気が付いていなかった。
今の私があるのは――様々な感情を知り人として生きていられるのは、エインがいてくれたおかげだとわかる。エインがいなければ、仮に生き残っていたとしても、人形同然だったに違いない。
そんなエインは、男――リスペルギア公爵――がやってくるときには歌わなかったし、結界も解除していた。
だから、男はエイン――優しさや温かさ――を遠ざける悪いものだと認識するのに、そう時間はかからなかった。
男がやってきた後、食事と称して太い針を刺されていたのだけれど、感覚がマヒしているのか痛みは熱さにしか感じ取れない。
エインにこの時の話をすると、生まれたときから危険なところにいたから、危険を感じる能力がおかしくなってしまったのではないかと、心配された。最近は我慢できるとは言え、痛みと熱さの違いは分かるようになったし、心配はいらないと思う。
ともかく5歳になる前の私は、エインは人ではなくて、現象の1つだと感じていた節がある。
5歳になった時にやってきた男は、今から行うこととそれによる私の今後の弊害を教えたけれど、当時の私に理解できたか怪しい。何となく、今からつけられる傷は治せない、ということはわかったけれど。
この時、男は私が神になっていると思っていたらしく、やけに丁寧に話していたし、私が幸せになるためにあらゆる手を尽くすなんてことも言っていた――結局手の平を返されたけれど。
そんな男のことよりも、そのあとで起こった事件で聞こえてきた心を乱す音――声――が、私を守っている光にも意思があるということを教えてくれたことの方が、私には意味が大きかったと言える。
事件のあと、いつもなら次に男がやってくるまでの間に、エインの歌が聞こえてくるはずだったのに、聞こえてくることもなく、私を守る結界が戻ることもなかった。
それがただただ不安で、どうしたら良いのかなんてわからなくて、同時にどれだけエインに支えられていたのかを自覚した。
やってきた男に別の部屋に連れていかれて、本を読むように言われて、八つ当たり気味に全身をナイフで切り付けられて、包帯を巻かれたけれど、エインがいなくなってしまったというショックのほうが大きくて、あまり気にならなかった。
それからは、ぼんやりとした意識の中で、本を読んでいたと思う。まずは文字を覚えなければと、絵と文字が書かれたものを選んで読むようにして。なんとなく読めるようになったかなと思ったところで、リスペルギア公爵よりも少し年老いたような男が、何かを持ってやってきた。
初めて口からものを食べたけれど、とても苦しかった。食べ物を口に入れて、噛んで、飲み込めばいいのだけれど、なかなか飲み込めない。
時間をたっぷりかけて、パンとスープを食べたのだけれど、時間をかけすぎたのか、彼は焦れたように黒っぽい何かを私の口に入れると、吐き出せないように口を手で押さえてきた。
ゴクリと飲み込んで、ほどなくすると体が妙に熱くなってくる。体の内側で、何かが暴れているような感覚。何やら体の中をぐるぐると回っているらしく、それが少しでも滞ると、そこから体が壊れてしまいそうになる。
それを何とかしようとしていたら、流れが髪の毛の方にまで伸びた。それで少し楽になったので、特に気にしていなかったのだけれど、どうやらこの時に髪の毛が白くなってしまったらしい。
気が付けば部屋には誰もいなくて、取り残された私は黙々と本を読んでいた。エインのことを考えると、どういうわけか辛くなってしまうのだけれど、ほかに考えることもなかったので、本を読んでいるしかなかったのだ。
様々な本を読んで"人"というものが、なんとなくわかるようになった。
何せこの部屋には、特定の人物を描いた物語が何冊もあったから。そうして、私はエインに見捨てられたのではないかということに気が付いた。
私はもらってばかりで、何も返せていなかったのだから。愛想をつかされても仕方がない。だけれど、その時から、急に世界が色褪せたように感じた。
だからエインの声が、歌にならない震えた声が聞こえたとき、「戻ってきてくれたの?」と尋ねると同時に、みっともなく涙を流してしまった。
返事はわからなかった。私が聞き逃してしまったのかと思ったけれど、エインの歌を思い出して、言葉が違うのではないかということに行きついた。
だけれど、エインが側にいてくれればそれだけでいい。そう思って、ゆっくりとエインに手を伸ばす。逃げられないことに安心しつつも、私の指が光エインに触れたとき、光がスッと私の中に入ってくるのを感じた。
私の世界に色が戻った。
◇
それからの日々は、それまでのものよりも何倍も楽しかったと言える。
エインに言葉を教えて、エインに歌ってもらって、あのよくわからない薬もエインが一緒だと全く辛くはなかった。
エインは魔術で私を守ってくれていたからか、私よりも魔術の扱いがうまく、薬で引き起こされる魔力の暴走をいとも簡単に収めてくれるのだ。
そうして、エインがきちんと話せるようになったころ、ようやくエインの名前を聞くことができた。
でも「エインセル」は本当の名前でないことはすぐに分かった。だって考えるそぶりを見せたし、エイン自身が言い慣れていない感じがしたんだもの。
本当の名前を言えないのか、言わないのかはわからないけれど、私としてはエインがいてくれるだけで十分なので、特に気にならない。
何よりエインセルと、エインと呼べることが嬉しくて、何度も口にしてしまった。
それから、前々から名前を教えてもらったらしようと思っていたお礼を、エインに伝えた。
言葉にするだけでは全然足りないのだけれど、伝えないよりはずっといいはずだから。
だけれど、エインからの返事はなかなかなくて、不安になった私は思わずエインの名前を呼ぶ。それに気が付いたエインは、なぜだか『感謝を受け取る資格がない』と言い出した。
エインに感謝せずに誰に感謝すればいいのかと、疑問には思ったけれど、よくよく話を聞いてみれば、エインは5歳の時のことをとても気にしていたみたい。
叫びだしそうなエインは、放っておくと壊れてしまいそうな気がして、でも慰めの言葉を知らないわたしは、前に読んだ物語のセリフを少し借りて私の気持ちを伝える。
あの事件に関して、エインには何の落ち度もないのだから。仮にあの時に守られたとしても、リスペルギア公爵は私の純潔をあきらめなかっただろうし、目的のために手段を選ばない人のようだから、次はどのような手段を取るのかもわからない。
でも、エインは納得できないようなので、これ以上エインが悪い方に考えないために、1つ頼みごとをした。それは、私に名前を付けてもらうこと。もしかしたら、私の名前は存在したかもしれないけれど、少なくとも私は聞かされていない。
エインの名前も自分で考えたものではないかと話に出すと、エインは困ったように『わかりました』と引き受けてくれた。
そうしてつけられたのが「シエルメール」という名前。
何を思ってこの名前にしたのか、私にはわからなかったけれど、エインがつけてくれたというだけで十分に価値がある。
「シエルメール、シエルメール」と、頭の中で繰り返せば、嬉しくって頬が緩んでしまいそうだった。
◇
私が10歳になった日。私の職業ジョブを調べるために、リスペルギア公爵がやってきた。
その直前まで、エインと話をしていたこともあって、私はとても不機嫌だったと思う。
でも私が授かったのは、予定通り舞姫だったので、溜飲が下がった。
むしろ険しくなっていく彼の様子を見られたのは、良かったと思う。胸がスッとした。
この後に捨てられれば、エインの想定通り逃げられると思ったのだけれど、捨てられることはなく、公爵はどこかに行ってしまった。
残された私たちは、というか私は、手に残った紙を見て、ふと思った。
エインにも職業はあるのではないかと。
それでエインに試してもらったところ、エインは歌姫であることが分かった。
どちらも姫職。しかも、不遇と言われるところまで一緒だ。
本当なら落ち込むところなのかもしれないけれど、エインとおそろいというのはなんだかとても嬉しかった。
職業がわかって数日後、私たちは枷を嵌められて、馬車に転がされた。
どうやら売られたらしいのだけれど、初めてみた空は、とても青くて明るくて、何より広くて、売られた現実よりも、とてもとても驚いた。
できればエインにこの感動を伝えたかったのだけれど、さすがに状況はわかっている。
今は何より、逃げることを考えなければいけない。
でも、予定外のこの状況で、どうやって逃げようかしらと考えていたら、エインから提案があった。
どうやら、歴史を繰り返すらしい。
確かにエインが歌姫だと知っている人は私だけだから、馬車の中で歌っていても何か企んでいるとは思わないだろう。
魔物を引き寄せてしまうため、私たちの命も危険にさらされるかもしれないけれど、魔物と戦うのは当初の予定にもあったので、エインの提案を受け入れた。
◇
馬車の中でエインが歌っている。私の身体を使っているのに、まるで私じゃないみたいに奇麗な声で歌うので、思わず聞き惚れてしまう。歌姫の力が何かしているのだろうか。でも、エインが歌姫を授かる前から、エインの歌は私を楽しませてくれていた。
馬車の外では、思わず眉を顰めたくなるような会話が繰り広げられている。そんな会話をする人たちにエインの歌を聞かせるのは、なんだかとっても腹立たしい。
予定通り魔物が集まって、それを護衛が倒して、というのがしばらく続いていたのだけれど、安全に馬車は進んでいる。
エインの言う通り、もう少し強い魔物が来てくれないと、逃げられなさそうだ。
またしばらく馬車に揺られていたら、何度目かわからないけれど、また馬車が止まった。
魔物が来たのかなと思ったのだけれど、なんだか今までとは様子が違う。エインが外を見ると、巨大な一つ目の魔物がいて、周りにいる人は逃げまどっている人と、諦めてしまっている人とに分かれていた。
見た目でも強そうだとは思うけれど、この様子を見る限り、本当に強いみたい。手に持ったこん棒を一振りするだけで、人が潰され死んでゆく。
私はそれをなんとなく眺めていたのだけれど、急に体に異変が訪れた。
胃の奥から何かが上ってくるような、とても嫌な感じがした後、口からすっぱいものが外に出て行く。
エインが目をつぶっているのか、何も見えなくなっていて、心臓が壊れそうなほどに脈打っている。
この時私は、私の間違いに気が付いた。
本部屋に押し込められていた時、かつての英雄が強大な敵を倒すという物語をいくつか読んだけれど――たぶん英雄の職業が特殊だったからだろう――、私を守ってくれるエインは、果敢に敵に立ち向かっていく本の中の英雄のような存在だと思っていたのだ。
でも今の動揺しているエインは、むしろ初めて人が死ぬ様を見て体調を崩しているお姫様のようだ。
エインは優しいから、自分に関係がない人が死んでも、何かを感じ取ってしまうのかもしれない。
それでも、弱音を吐くことなく立ち上がろうとするエインは、強いのかもしれないけれど、無理する必要もない。いえ、こんな時だからこそ、エインに恩を返さないといけない。
そもそも、エインは戦いに関しては、無力といっていいのだから。
『エイン守っていてね』
そう声をかけてから、身体を返してもらう。偉そうなことを考えていたのに、エインに守ってというのは格好悪いかもしれないけれど、エインが守ってくれているのであれば、私はなんだってできると思うから。
馬車から出ると、すでに動いている人はいなくなっていて、巨人は馬車を壊しにかかっていた。
動く的が私だけだからなのか、巨人は大きな目を私に向ける。
大きさだけで見れば私の3人分にもなりそうで、普通に立ち向かっても返り討ちになるだろう。私は戦いをしたことがなければ、運動すらまともにしたことはないのだから。
でもエインが守ってくれている。かすっただけでも大けがを負いそうな攻撃だけれど、エインの結界なら耐えられるんじゃないかなと思うのだ。
とりあえずは、自分がどれくらいやれるのか、試してみよう。
と、勢い込んで魔術をぶつけてみたけれど、渾身の一撃でも火傷にする程度だった。
何というか、違和感があるのだ。私の職業は舞姫。この戦いでも、やっていることは、普段踊っている時と気分的には変わらない。ちょっと観客がいて、魔術を織り交ぜているだけだ。
どうしたものかと困っていたら、エインが逃げるかと尋ねてきた。
それもありかなとは思ったけれど、エインの声を聞いて、私は違和感の正体に気が付いた。私は踊っていたのに、エインは歌っていなかったのだ。
何せエインの歌姫は"声が聞こえる範囲"に効果を及ぼすものなのだから、今のエインの声は私にしか聞こえないということは、つまりそういうこと。何よりエインの歌がないのに踊るというのは、なんだかとても物足りない。
エインも歌姫のことに気が付いたのか、すぐに歌声が私の頭に響き始める。エインにしては珍しい、とても激しい歌。相変わらず何を言っているのかはわからないけれど、気分は盛り上がる。
それから先、私は歌に合わせて踊っただけ。今日までに、何千回と繰り返してきたことをしただけ。
でも、今までエインの歌に合わせて踊っていた時よりも、今日はしっくりきた。こういうのを、歯車がかみ合ったというのだろうか。
歌が終わった時、すべてが終わっていた。
自分で言うのも何なのだけれど、エインが歌い始めてからは、まるで勝負になっていなかったと思う。
たぶん歌姫の支援効果だけではなくて、舞姫が全力で戦える条件も満たしたのだろう。
エインはできすぎだというけれど、私はそうは思わない。何せ記憶もないほど昔から、私はエインの歌を聴いて踊ってきたというのだから。
初めて魔物を倒して一息つきたかったけれど、エイン曰く血の匂いでほかの魔物が来るかもしれないから、もう少し頑張らないといけない。
頑張るといっても、巨人を燃やして埋めるだけなので、魔術を使えばすぐに終わる。
さっそく燃やそうと思ったら、エインから待ったがかかった。
巨人の心臓部分に魔力が集まっているから、確かめたいらしい。私にはわからないけれど、殊探知に関しては私はエインの足元にも及ばないので、気になるのであれば探ってみるのは構わない。
馬車の残骸からナイフと、今後必要そうなものをいくらか持ち出して、巨人の心臓部にナイフを添わせる。すると、中から片手で持つのは難しい球体が出てきた。手に持てば、さすがに魔力の塊であることには気が付く。何かと思えば、魔石なのだという。すっかり忘れていたけれど、魔術や魔法を使うときにも使えるものだったはず。
知識はあったけれど、実物を見るとなんだか感動してしまう。
魔物から魔石が取れることを覚えていたエインをほめたのだけれど、なんだか複雑そうな反応が返ってきたのはどうしてだろうか。
深入りしてはダメそうなので、とりあえずと巨人を処理することにした。こういう時、魔術は便利だなと思うと同時に、ふとあることに気が付いてしまった。
「ねえ、エイン。もしかして、ナイフ使わなくても、魔術で魔石を取り出せばよかったんじゃないかしら?」
『あ……で、でも、ですよ。ナイフは今後使うこともあると思いますし……。いえ、あの……わたしの思い込みで、探す手間を増やしてしまい、申し訳ありません』
確認のために聞いただけだったのだけれど、エインとしては恥ずかしい失敗だったらしい。
取り繕うように、足早に話していたのに、後半は失速して声量も小さくなっていく。
エインがこういう初歩的なところで失敗するのは珍しいなとは思うけれど、それ以上に今の弱弱しいエインの反応に、私の中の何かがはじけた。
巨人と戦う前に、弱っているエインを見たのもあるのかもしれないけれど、恥ずかしそうに心なしか、小さくなったエインは私が守らないといけないと感じる。
同時に恥ずかしがっているエインを、ずっと見ていたいとも思う。
この感情は何なのかしら、何なのかしら!エインの表情はわからないけれど、きっと身体があったら、顔を真っ赤にしているのね。
何かしら、何かしら。
もしかして、これが可愛いって感じているときの感覚なのかしら。愛おしいって感情なのかしら。
なんだかとってもしっくり来てしまったわ。
エインは困っているのに、困っているエインが一層可愛いなんて、愛おしいなんて、私は悪い子なのね。
でも、エインを悲しませたくはない。
本当に悩んでいる姿を見たいわけじゃない。エインが嫌だと感じない程度に、ちょっとだけ困らせたい。
いけない子、いけない子。
こんな感情をエインに知られたらいけないの。
だから、すぐに話を変えた。エインには悪いけれど、大切なものが増えたような気がして、少しうれしかった。
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