第8話 シエルと不遇姫と枷
ある日、何年も顔を見ていなかったリスペルギア公爵が、久しぶりに顔を出した。年を取ったようだけれど、力強い瞳は衰えをまるで感じさせない。
老けたというより、渋みが増したという感じで、男の身としては実にうらやましい。お腹が出ているわけでもなく、黙っていればナイスミドルと言えるだろう。
ただ残念なことに、シエルを見る目は冷たく、部屋にやってきたかと思うと「明日、お前の職業を見定める」とだけ言って、帰って行った。
その間、シエルの言葉はなし。シエルは人形みたいな目をしていたから、相手も人と話している感覚ではなかったのかもしれない。
不快ではあったが、ようやく事態が動くイベントが発生したわけだ。そして、わたしが転生してから、10年近く経ったということでもある。
日本にいたころ、何かと時間で区切られた生活をしていたことが嘘のようだ。何せこれまでの生活は、食事の時に出される薬さえ飲めばあとは自由みたいなものだったから。
そんな生活ともお別れだと思うと落ち着かないかと思ったけれど、思った以上に冷静に考えられている。シエルもそうらしく、特に寝付けないということもなく、寝てしまった。
◇
ついにやってきた、シエルが10歳になる日。
シエルはこの部屋から出ることを許されていないので、リスペルギア公爵が職業を調べる道具を持ってやってくる、と能面バトラーが、さっき言っていた。
シエルは、終始無表情で成り行きに任せている。
『緊張しているんですか?』
「緊張はしていないのよ。でも、あの男が来るというのが、嫌なのよね」
『シエルはすごいですね。わたしは緊張で、死んでしまいそうです』
「それなら、いまエインと代わることはできないわね。心臓が壊れてしまいそうだもの」
くすくすと笑うシエルは、とても女らしくなってきた。
身長こそ、平均よりも低いだろうけれど、胸も膨らみかけているし、全身丸みを帯びつつある。
特に表情が特徴的で、わたしをからかうときには、10歳とは思えない蠱惑的な笑みを浮かべるほどだ。その片鱗は、昔からあったような気がするけれど。
昨日は大丈夫だったのに、なぜ今日はこんなに緊張してしまうのか、小心者のわたしが憎らしい。せめて、シエルと話して緊張を紛らわそうと思ったけれど、残念ながら探知に反応があった。
『来たみたいです』
「面倒ね。といってはダメかしら」
『言うだけならいくらでも。気持ちはわかりますから』
「ずっと放置していたのだから、私の存在なんて忘れてくれていればよかったのにね」
本当に嫌そうにシエルはため息をついて、目を閉じる。
それから、もう一度目を開けたときには、感情が全くこもっていない目が出来上がっていた。
ほどなくして、無遠慮に扉が開かれると、リスペルギア公爵が昨日ぶりに姿を見せる。部屋に入ってきた男の手には何やら厚めの紙のようなものが握られていて、その表情は笑顔に覆い隠されている。
最初からこの笑顔を見せられていれば良い人なのではと誤解してしまいそうだけれど、今となってはうさん臭さしか感じない。貴族として、感情を表に出さない表情なのだろう。
「今日、お前の職業が決まる。今日までここにおいてやっていた意味、分かっているだろうな?」
「はい」
「この紙に、魔力を流せば良い。まさか、やり方がわからないとは言うまい」
「大丈夫です」
「それなら、さっさと始めろ」
威厳たっぷりの声から、感情を逆なでるかのようなセリフが飛び出す。
この男は、わたしを怒らせる天才なのだろうか。今までに何度キレそうになったかわからない。
しかも、男は持っていた紙を地面に投げ捨て、シエルに拾わせるという徹底ぶりを見せた。
この状況で、わたしにできることがないのが悔やまれる。攻撃魔術が使えたら、火だるまにしてやったのに。
シエルは無表情のまま紙を拾い、両手で持って、魔力を流す。
魔力を流された紙は、全体が淡く光始め、やがてその光がふわりふわりと宙に浮く。
徐々に何かの形を取り始め、光が全く動かなくなった時、それは文字を表していた。
【シエルメール 職業 舞姫】
たった一行の文字だけれど、これがわたしたちには、大きな意味を持つ。
賭けには勝ったのだと、笑みがこぼれそうだ。
そして、わたしたちの想定通り、男の顔が険しくなっていく。
「本当にお前は役に立たないな」
「申し訳ありません」
「謝って済む問題ではないだろう? この数年遊んでいたのではないか。
何のために、生かしておいてやったと思っている?」
問いかけにシエルがうつむき黙っていると、リスペルギア公爵が感情を抑えずに、大きな舌打ちをして踵を返す。
その時に「"歌姫"ではなかっただけ、まだ使い道はあるか」とつぶやいているのが聞こえてきた。
あわよくば、ここで「出ていけ」と言われて、屋敷を追い出されたかったのだけれど、なんだか雲行きが怪しくなってきたかもしれない。
とりあえず、シエルに対する興味が、以前よりも無くなったとは思うから良しとしたい。
リスペルギア公爵が部屋を出て行って、わたしの探知範囲から離れたのを確認しても、シエルは紙を見つめていた。
『どうしました?』と尋ねれば、シエルは好奇心を目に宿したのか、爛々とした瞳で、わたしを見た。
「これ、エインがやったらどうなるのかしら?」
『同じ結果になるのではないでしょうか』
「でも、私とエインは違うのよ? エインだって職業を授かっているかもしれないわ」
逃げ出すにあたって、1枚でも手札を増やしておきたい身としては、やって損するわけではないので試すだけ試してみよう。
『身体を貸してくれますか』と声をかけてから、自分の意思で、厚紙を見る。羊皮紙という奴だろうか、シエルが持ったときにも感じてはいたが、触感が変なフェルトを持っているみたいだ。
シエルの魔力が抜けたのか、光はすでに散っている。
改めて、私の魔力を流してみると、同じように光が宙に舞い、文字を描いた。
【エインセル 職業 歌姫】
先ほどとは違う結果に、一度視線を外して、再度確認する。
書かれている文字は変わらない。シエルが『やっぱりね』と得意そうに話すのに対して、何も言い返せないので「シエルの言っていた通りでしたね」と笑っておく。
体をシエルに返すと、開口一番「これで不遇姫仲間よ」と嬉しそうに目を細めた。なんだそれ、とは思ったけれど、シエルが嬉しいならいいかと『そうですね』と返すことにした。
無事不遇姫に、しかもシエルは狙った通り舞姫になったというのは、僥倖だったといえる。
舞姫は、あらゆる踊りを行うことができる職業で、エンターテイメントとしてのダンス以外にも、儀式で行う舞を舞うこともできるため、雨ごいで使えば雨を降らせることもできる。
そのため、歌姫ほど扱いが悪いわけではなく、武器を使った剣舞などもある通り、戦いにおいて全く何もできないというほどでもない。
ただし、舞姫は力を十二分に引き出すために、相応の場を用意する必要がある。殊更、音楽は外せない。
魔物と戦うにあたって、音楽があれば戦闘職と同等以上の力を出すこともできるが、そもそも戦いの場に楽器やそれを演奏する人を連れて行くことはない。
雨を降らせるにも、水魔術師辺りがサッと水をまけば水不足は解消できるため、わざわざ舞台や人を用意してまで雨ごいをすることも少ない。
ゆえに不遇姫と呼ばれているけれど、わたしたちはこの職業を狙っていた。十二分に力が発揮できずとも、ある程度は戦えるだけのポテンシャルがあり、ここまで評判が良くないと男に見捨ててもらえると思ったから。
そして何より、シエルが舞姫になる可能性はかなり高いと確信していた。何せシエルは赤ん坊のころから、わたしの歌に合わせて体を動かしていたのだ。
最近は、歌を忘れてしまうほど、華麗な舞を見せてくれる。生まれてすぐのころから、日課としてやってきたことが、こんな風に生かされるとは思っていなかったけれど、おかげでシエルは魔術を使える舞姫になれたわけだ。
わたしの歌姫は思わぬ副産物だったけれど、あって困るわけではないし、場合によっては逃げる時に利用できる。とりあえずは、リスペルギア公爵がどう動くかを見定めるのが、一番だろう。
職業を判別した紙は隠し持っていたら、逃げた後で売れないかなとも思ったけれど、あとからやってきた能面バトラーに持っていかれてしまった。
◇
数日後、リスペルギア公爵が、シエルのもとにやってきた。
公爵とは対照的な、だらしのない体をした、ブタのような男を引き連れている。公爵と身長は大して変わらないのに、横幅は倍近くあり、顔も丸くて油が浮いている。
日本にいたときでも、あまり近づきたくない見た目だけれど、今となっては視界に入れるのすら嫌だ。これが「生理的に無理」というやつなのだろうか。
豚男が舐めるようにシエルの全身を見るのも、気持ち悪さに拍車をかけている。
「この娘が"舞姫"の娘なのですかな?」
「そうだ。拾ってやったはいいが、大して魔術も使えぬ。となれば、私には使い道がなくてな」
「それで、わたくしめに売っていただけると」
「金は持ってきたんだろうな」
「それは確かに。ですが、ここまで見た目が良いとなると、持ってきた金額で足りるかどうか……」
豚男は諂へつらいながら、指を3本立てて、公爵の顔をうかがう。
公爵は睨むように豚男を見ると、ふんと鼻を鳴らした。
「その倍は持ってきているのであろう? それで売ろう」
「それはそれは、手順を踏めば、さらに倍は堅いのではないですか?」
「差額は口止め料だ。嫌だとは言うまい?」
公爵が紙を取り出してた。特殊なインクを使っているらしく、書かれている文字にうっすらと魔力を感じた。そこに、公爵が何かを書き加えて、豚男に渡す。
大して魔術も使えないと思われているのは、よかった。普通、舞姫になった人が、根詰めて魔術の勉強をしていたとは思うまい。
紙を受け取った男は、ざっと読んだ後で、笑みを深めると公爵と同じように何かを書いた。その紙を、サイドテーブルに置いて、それぞれナイフを取り出して、指を切る。
二人分の血が、紙に零れたところで、書かれていた文字が光り出して、男2人に吸い込まれていった。
これは、魔法に類するものだろう。特殊な紙に、特殊なインクを使って、魔力と血を代償に破ることのできない契約を結んだわけだ。
「これで商談は成立だ。さっさとこれを持って行ってくれ」
「それでは失礼いたします」
豚男は頭を下げてから、部屋を後にする。
入れ替わりに、能面バトラーがやってきたかと思うと、主人が顎で何かを指示した。
サッとバトラーはシエルに近づき、荷物でも運ぶかのように、肩に担いで歩き出す。
そのまま、屋敷の外に出されたかと思うと、豚男が乗ってきたであろう馬車の荷台に乗せられ、両手足に枷を嵌められた。
枷を嵌められるのもなんだか懐かしいなんて、益体もないことを考えていたけれど、そんな場合ではない。だいぶ予定外の事態になってきたけれど、要するにシエルはリスペルギア家から、この豚男に売られたわけだ。
公爵側の目的はお金と見ていい。実験するにもお金は必要だし、シエルでの損失をシエルであがなったのだろう。
では、この男の目的は何か。これは、色々考えられる。奴隷としてさらに売るのか、小間使いにするか、慰み者にするか。
だが、少なくとも公爵家ほど力は持っていなさそうなので、逃げるのが少し楽になったといえる。
というか、この状況。護衛の能力次第では、思っていた中でもベストな形に持っていけるだろう。ただし、リスクも大きい。
『シエル、枷を何とかできますか?』
「少し時間はかかるけれど、大丈夫よ。魔力を封じるものではないみたいだもの。舞姫になったから、侮ってくれたのよね」
さすがエインね、とシエルは褒めてくれるけれど、魔力を封じるものだったら、結構危なかった。
とは言え、結果オーライ。これで、第一関門突破といえる。
『この状態から、うまい具合に逃げられそうな方法があるのですが、どうしますか? リスクも大きくて、最悪死んでしまうかもしれませんが……』
「どうやるのかを、先に教えてくれないと、答えられないのよ」
『そうですね……』
わたしの逃亡計画を聞いたシエルは、少し考えてから、「やってみましょう」とGOサインを出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます