第5話 平和な時間と名前と救い
この部屋に移ってから、とても平和な時間を過ごしている。
何せ命の危険が、食事の時に出される薬しかないのだから。普通の子供なら拷問のような薬かもしれないけれど、幸か不幸か僕がいたので、むしろ魔力を増やすためのものに成り下がっている。
魔力操作の練習にもなるし、最近では女の子に魔力を送っているので、彼女の魔力もだいぶ増えただろう。
あとは、本を読むか――やはり、あの男の指示らしい――、勉強するか、歌うか、寝るかといった感じ。夜中に暗殺されるようなこともない。
女の子の踊りは、日々進化していて、最近は指先まで意識して伸ばしているのがわかる。
軸にぶれがなくて、くるっと回るだけでも、違いがはっきりするくらいだ。とはいっても、踊りに関して――何だったら歌に関しても――詳しいわけではないので、ほかの人が見たらどう感じるかはわからないけれど。
食事は相変わらず、硬いパンと薄いスープ。別においしくはないのだけれど、味がするというだけで座敷牢にいたころとは全然違う。
ただ唯一人とかかわりが持てるこの時間に、彼女はいつも警戒しているためか、とても冷たい印象をうける。まあ、扱いが扱いなので、当たり前だと思うけれど。
一人で本を読んでいるときにも、似たようなもので、僕に文字を教えてくれているときや、踊っているときは、よく笑顔を見せてくれる。
この笑顔のおかげで、僕がこうしていられると考えると、彼女には頭が上がらない。
そんな変わり映えしない生活を、どれくらいしていたのだろうか。
ようやくこちらの言葉を理解してきたので、改めて話をしようということになった。
何せ、何年も一緒にいるのに、お互い名前すら知らないのだ。片言でも話せるようになった時に、自己紹介をしたらよかったのかもしれないけれど、互いに事情が入り組んでいることもあって、拙い語彙では説明しきれなかったのだ。
それに、おそらく彼女には名前がない。名前という概念は理解しているようだけれど、自分にそれがあるのかを知らない様子なのだ。
少なくとも、食事を持ってくる能面のバトラーも、彼女の名前を呼んでいない。「おい」とか「お前」に相当する言葉を使っている。
僕としても生前の名前を名乗るには、その名前の響きの違いからある程度説明が求められるだろう。何より、一度死んだ身としては、生前の名前を使うのも違うような気がするので、半分名無しなのだ。
また、彼女に自分がもともと男だと伝えるのも、ためらわれる。
何せ彼女の周りの男性は敵ばかりなのだ。というか、敵しかいないし、男しかいない。それにあの事件もあったのだ、少なからず男に忌避感を覚えているだろう。
いつかは話さないといけないことかもしれないけれど、それは今ではないと思う。できるなら、ここから逃げ出して、彼女が安心して生きていける場所を見つけるまでは、全力でサポートできるだけの体制を作っておきたい。
幸い、僕の声は彼女には中性的に聞こえているらしいから、女だと嘘をつかないまでも、性別をはぐらかし続けることくらいはできると思う。
そんな中、腰を落ち着けて話すわけだけれど、日本だと小学校に入学したくらいの年齢の彼女と、膝を突き合わせて話すのはむず痒いものがある。この子の場合、とても賢く大人びているので、むしろコチラが年下に見られないか不安でもあるけれど。
「こういう時、まずは自己紹介からするのよね? でも、あなたも気が付いていると思うけれど、私には名前がないの。
だから、そちらから、名前を聞いても良いかしら?」
『とりあえず、わたしのことは「エインセル」、エインと呼んでください』
この名乗りと、一人称は彼女と話すことがあればと、前々から考えていた。エインセルというのは単なる趣味というか、前に聞いたことがある話から拝借した。本名よりはこちらの名前に近しいと思う。偽名だということは、賢い彼女のこと、気が付いているだろう。
一人称が男性が使うものではないのは、言わずもがな。敬語なのは、男性としての特徴を出さないための苦肉策だ。
ただでさえ、こちらの言葉には慣れていなくて、違和感が出るかもしれないけれど、男だとバレるよりはましだと思う。
彼女の言葉も、少したどたどしいので、どっこいどっこいということにしてもらおう。
何せ、僕と……いや、わたしと話すとき以外は、最低限しか言葉を話さないから。下手すると、今のやり取りだけで、わたし以外との会話の数日分にも匹敵するのではないだろうか。
彼女はわたしに呼び方ができたことが嬉しいのか、何度かエインとそらんじた。
「ねえ、エイン。私たち、お互いに、色々と話したいことはあると思うの。だけれどね、その前にお礼を言わせて。きっと、私が今、私でいられるのはエインが守ってくれていたからでしょう?
エインがいなかったら、死んでいたし、エインの歌が聞こえてこなかったら、私は生きるのを諦めていたかもしれないわ。
だからね、ありがとう、エインセル。いままで言えずに、ごめんなさい」
『――』
彼女の言葉に、転生してから今までの苦労が、すべて報われたような気がした。この数年やってきたことは無駄なことではなくて、1つの命を救えていたのだと、そう聞くだけで救われた。
だけれど、わたしはその言葉を受け取れるような人物でもないことも、自覚している。
感動と罪悪感と、反する2つの感情がわたしの中でぶつかり合い、まるで言葉が出てこない。ともすれば、あの日のように延々と謝罪を続けてしまいそうになる。
それで、慰められるのはわたしだけで、きっと彼女は困ってしまうだろう。でも、何もしないのも、困らせてしまったのか、彼女は心配そうに「……エイン?」と首をかしげる。
『わたしは、貴女を守り切れませんでした。ですから、貴女からの感謝を受け取る資格は、わたしにはないのです』
言葉に窮するあまり、苦々しい言葉が口から出てきた。でも、本心ではある。
言ってしまったことは、否定できないし、死刑でも待つような心境で彼女の反応を待っていたら、綺麗な白い髪を左右に振り乱して、わたしの言葉を否定した。
「それこそあり得ないの。エインの歌は、私の心を、いつも癒してくれたのよ」
『それでも……っ。一生消えない傷を、貴女に与えてしまった。守れたはずなのに、わたしが、もっと、あの男を警戒していれば……っ』
彼女の優しさに、素直に縋り付けないわたしは、敬語も忘れて声を絞り出す。
しかし、彼女はそんなわたしのすべてを許すかのようにほほ笑むと、桜色の唇で言葉を紡ぎ始めた。
「エインセル。私の優しい人。あれはね、仕方がなかったの。あなたがいくら守ってくれても、父は、あの男は諦めなかったはずだから。
あの時のために、私は生かされていたのだから。もしも、あの男の機嫌を損ねてしまったら、殺されていたかもしれないの。だから、あれで良かったのよ。それよりも、エインがあの男に知られなくて、本当に良かったわ」
『……っですが』
「もちろん、それが理由で今後の人生で足を引っ張るかもしれないのは、わかってはいるのよ? まだ実感は、できていないけれど。
でもね、そもそも、私は人として生きていけるのかも怪しいのよ」
確かにこの屋敷にいては、いくつ命があっても足りない。
何の力もない赤子なら、1日で死ぬだろう。無知な子供なら、2日もてばいいほど。大人であっても、何日もつか分からない環境だ。
その屋敷の中にいて、主人の目的が彼女のはじめての血であったらなら、その目的を達するまで、わたしがいくら守ろうとあきらめることはなかっただろう。
そういう意味では、確かに仕方がなかった、必要な儀式だったのかもしれない。だからといって、受け入れられるものでもないけれど。
「それよりも、エインにお願いがあるの」
『わたしにですか?』
思考の沼に引きずり込まれそうになったところで、彼女から声がかかる。
急な話題変更は、彼女が気を利かせてくれたのだろう。やはり、この子は聡い。
というか、わたしが会話下手なのかもしれない。こうやって、誰かと会話するのも数年ぶりなのだ。すっかり、やり方を忘れてしまった。
「私の名前を、考えてくれないかしら」
『名前ですか?』
「エインセルも、エインが考えた名前なのでしょう? だから、できなくはないと思うのよ」
『偽名……やっぱりバレていたんですね』
「エインが、隠す気がなかったんだもの。でも、理由は聞かないから、安心してね」
そう言って、彼女がくすくすと笑う。
下手に話を広げられても困るところなので、『わかりました』と引き受けて、名前を考えることにする。
この子を見ていて、印象的なのは真っ白になってしまった髪と、引き込まれるかのように深い青の瞳だろう。
白も年老いて色が抜けたというには、髪の毛自体が若々しい。
青と白、この2つから思い浮かぶのは、前世の空や海……だろうか。この世界でも同じような景色なのだろうか。そんな風に考えていたせいか、それにちなんだ名前が思い浮かんだ。
『シエルメールでは、どうでしょうか?』
「シエルメール……だとしたら、親しい人には、シエルって呼んでもらうのがいいのね。
素敵な名前をありがとう。これからも、よろしくね、エイン」
『もちろんです。シエル』
彼女が、シエルが満足そうに笑うので、わたしも気分だけだが微笑んで返す。ここ最近、平和な時間を過ごしていたけれど、こんなに穏やかな時間は、初めてかもしれない。
歌っているときも楽しいけれど、それとはまた違った、ゆったりとした時間。話せるようになった今、こういった日が増えることを切に願いたい。
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