崩落の明星
九十九
崩落の明星
真っ白で熱々のお米を手で包み、リズム良く手の平の上で転がして三角形を作る。
「今日は鮭と昆布」
まだ熱々で柔らかいお米の中に具を入れて、本格的に形を整えるために握れば、小さなおにぎりの完成だ。
「あ、サイレンだ」
高く、低く、サイレンが鳴る。おにぎりを皿の上に乗せながら、私はその音を聞いていた。
今日もまた警報が鳴る。
数年前から不定期に鳴る警報は、どこかの崩落を知らせてくれる。
「うるせえ」
傍らで布団が大きく波打ち、不機嫌な寝起きの声が低く這う。
「おはよう。昨日また、どこかの地区が壊滅したんだって」
すでに慣れ親しんだ警報内容には触れることはせず顔を顰める男に、私は笑いながら、握ったおにぎりを口に運んだ。
「あー……あったまいてぇ」
「昨日、家に戻ってからもちゃんぽんで飲んでたよ」
「酔っ払いにちゃんぽんさせるなよ。水飲ませろよ」
「酒瓶に愛を誓って離さなかったんだもん。水は溢してたよ」
「ちくしょう」
悔しそうに自身の頭を抱える男を見詰めて、私は眉を下げて笑った。過去何度となく見た光景である。一向に改善が見られない深酒の結果は、いつも散々だ。
「俺の飯は?」
暫くして立ち直ったらしい男は、唐突に昼食を所望した。私は暫く思案してから、手元の皿を差し出し示す。
「おにぎりならあるけど、小さいよ?」
「あー……お前の手で握ったんじゃ小せえわな」
言いつつ、布団の中から伸びて来た大きな手は、あっという間に私の手の中にあったおにぎりを掻っ攫っていった。
彼はその後すぐ気持ち悪くなって、トイレで吐いた。酒の匂いが抜けない重度の二日酔い患者は、情けない声で天に助けを乞うていた。
「気持ち悪りぃ、無理。助けてくれ神様。俺は何もしてねぇ」
「今日はどこ行くの?」
「いつものとこ。あぁ、吐きそう」
私は普段通りの日常に笑って、コップいっぱいに注いだ水を差しだしたのだ。
そんな何のことは無い日常を、間引く側が望むのは愚かだったのだろうか。崩落のための存在が、安寧の日々を夢見るのはやはり許されなかっただろうか。
崩落した町の片隅、倒壊させたばかりの冷たい瓦礫に触れてぼんやりとそんな事を思う。冷たいと感じたのは生まれて初めてだった。
死んでしまったら、どうする事も出来ないと言うのに。
冷たい瓦礫の下、流れる小さな赤い湧き水を眺めて思う。辺りにはもはや紙切れとなった紙幣が散らばっている。瓦礫に埋もれてしまえば、そうして価値を正しく使用する者が居なければ、あれはもはや唯の紙屑だ。
伸ばされた腕は、結局何かを掴めたのだろうか。
夢を掴めたのなら、それで良い。だが、瓦礫の下に埋まったものは、そうではない。刹那でさえ映したものは夢ではなく失望だ。
もっと早くに逃げていたのなら良かったのだ。捕らわれずに、ただ生きる為だけに走れば良かったのだ。そうすれば、きっと結末は変わった。少なくとも今日この時間に、失望の果てに冷たい瓦礫と成り果てることは無かった。
引き攣った悲鳴が、まだ生きたいと足掻こうとした四肢が脳裏に蘇る。その純粋な生への執着を、どうして引き返せる内に行わなかったのだろうか。只ほんの少し、後ろを見るだけで良かったのに。
「どうして立ち止まったの?」
立ち止まらなければ、きっと思い出すことは無かった。思い出さなければ、態々取りに戻ることも無かった。
「どうして戻ったの?」
ほんの少しでも目の前の光景に目を向けていたのならば、迫る災害に意識を取られて戻ることなんて考え無かった筈だ。迫る死になんて振り向かずに、前を向いていれば良かったのに。
「そんなに大事だった?」
大事そうに重いであろう紙束を抱え込んで走る姿は、一緒に見た任侠映画の下っ端のようだった。下っ端は女のために組の金を持ち出して、走って走って、そうして最後に狭い裏路地で打ち殺されるのだ。紙袋が千切れて散らばる数枚の紙幣に気を配って、息を切らして肺を潰さんばかりに落ちた紙切れを必死に集めて、そうして最後に彼等は呆気なく命を終えた。
「人間の『大事』は、よく分からないね」
そんなに大事だったのだろうか。痛みと恐怖に押し潰されても構わない程に、この先得られる筈の温かいものや美味しいものと引き替えても構わない程に、大事だったのだろうか。
痛い思いをするくらいなら置いて行ってしまえば良かったのにと思うのは、私が紙切れよりも瓦礫の下に埋まってしまった生を望んでいたからだろうか。
「私は、貴方が大事だったよ」
一緒に入った布団が温かかった。唯、それだけだった。それだけで、彼は私にとっての「大事」になった。
「私は、貴方と居たかったよ」
きっとろくでなしだった。私が間引く人間の、先頭とは言わずとも近い場所に立って居るような人間だった。
自分のために人を騙すし、博打と酒が無いと眉間に皺を寄せるし、女を抱いては捨てる。価値の重きは他人では無く自分で、そうして人間よりも紙幣に信頼を寄せる。そう言う、人間らしい人間だった。
「でも大事だったのはいつだって、自分だったでしょう? 自分が一番可愛いって言っていたでしょう?」
彼の価値の重きは、いつだって彼自身だった筈だ。邪魔なものは蹴り落して、積み上げられた紙幣の上で笑うような、そう言う人間だったのだから。
だがそれでも、彼は私を気紛れに拾ってくれたから、私の中で彼の価値は間引くものとは正反対の位置になってしまった。
傍に置いてくれた。不味いけれど温かいご飯をくれた。不器用な手つきで時折、頭を撫でてくれた。人間には好きなものや欲しいものがあるのだと教えてくれた。一緒の布団に入れてくれた。
私にとってはそれだけで、彼を間引かない理由は十分だったのだ。
「あれ程、貴方が居る場所を避けていたのに」
あの映画の下っ端も、入念に道具を準備して、何度も兄貴分たちの時間を確認して、逃亡先まで手配していたのに、最期は呆気なく訪れた。
こつり、と冷たい無機物の感触が指先を伝う。脆かった筈の鉄とコンクリートの塊が、いやに固く感じた。
伸ばされた腕は、結局何も掴めなかった。
無機質な音を立てて瓦礫が崩れていく。私が壊した全てが、砂塵へと帰す。
役割は変わらない。どれだけ何かを想おうが、私の役割は人間の、そして彼等が築き上げたものの間引きである。それはけして変わりようのない私としての価値であるし、変えようとも思わない。そう言うものとして生まれたのだ、私と言う存在は。
人間の生きた証を奪うことを「価値」として作られた私は、私としての価値を満たすために、多くを崩していく。そこに情は無い。役割と価値の証明があるだけだ。
片手を人の営みに重ねて、指を立てて握る。手の平に紙を丸めるような感触がして、また一つ、人の砦が瓦礫に変わった。
「あれ?」
ふと、手の平を見る。いつもと変わらない筈なのに、手の平で握り込んだものが妙に固い気がした。
「なあ、お前学校行きたいか?」
「行きたくない」
「なんだ、ガキらしく勉強が嫌か?」
「勉強はここでも出来るでしょ。今のままが良いから、行かない」
「……オトモダチが出来るかもしれねえぞ」
「いらない」
「可愛くねぇ。なら欲しいもんは?」
「無いよ」
「ガキだろう? なんかねえのか」
「無い。あ、明日の晩御飯用にレトルトカレー買ってきて」
「……カツは?」
「え、欲しい」
「じゃあ、カツカレーにしろ」
「やった」
「安上がりだなお前。本当に欲しい物の一つや二つ、ねえのかよ」
「美味しい物は食べたいけど、欲しいものは無いよ」
「なら、俺がお前に欲しい物をやるよ」
「?」
「お前が欲しくて堪らないってものを俺が探してやるよ。んで、目の前で見せびらかしてやる」
「くれるとかじゃないんだ」
「見せびらかすだけだよ」
「無駄遣いしないでね」
「無駄遣いしてこその人生だろ」
「私は無駄遣い?」
「お前は俺の人生最大の無駄遣いだ」
目を覚ます。
降り注ぐ光が眩しくて、酷くうっとおしい。
「夢……」
何かが頬を伝った。水滴だろうか。横たわった上半身を起こして上を見上げたが、眩しい程の晴天で雨雲一つ見えない。
私は首を傾げてから、再び瓦礫の上で丸まった。この瓦礫の上は酷く温かい。彼の上に、彼の部屋だったものの破片達を積み上げたそこは、今の私の根城だ。
温かさに微睡みながら、夢の出来事を思い出す。
本当は、彼がどうして戻ったのかを知っている。失望に上塗りされる刹那、彼が何を口にしていたのかも知っている。
あの紙切れが無ければ、探せないのだ。仮に探せたとて、見せびらかすことが出来ない。あの紙切れとなった紙幣はそう言う、何かと引き換える価値を持っていたから。
だが使ってこそ価値があると宣っていた当の本人が居ないのでは、どちらにせよ意味がない。
「ただの紙切れは欲しい物じゃないって、昔言ったのにね」
瓦礫を一度撫でてから、また眠りについた。
轟々と雨が降り続ける中で、私は立っていた。
雨は好きだ。拾われた日のことを思い出すから。飲みに行けないからと勉強を邪魔された日のことを思い出すから。寒いと言って湯たんぽ代わりにされた日のことを思い出すから。だから私は、冷たく暴力的な雨が好きだ。
「随分と静かになった」
私は雨の中で、崩落し終えた人々の文化を眺めていた。人々が消えた土地には、水が、木々が、大地が、姿を現し多くの文化の形跡を覆った。
多くのものを差し引かれ、僅かに残った人々は、嘆き受け入れながら再び歩き出すのだろう。
私の役割は終わった。次があるのか、有ったとてそれはいつなのか私は知らない。私の価値は今、どこにも存在しない。
「海の底にでも沈もうか」
役割を失ったのなら、海の底にでも沈んでしまおうか。海の底の冷たさに、全ての熱を奪わせてしまおうか。
海の底はきっと静かだろうと昏々と眠り続けた場所に立ち考える。瓦礫があった場所は、木々が生い茂り、いつの間にか冷たくなってしまった。瓦礫は砂になり、地の深く深くへと沈んだ。
「眠っている間に全て覆われてしまえば良かったのに」
周囲を覆う価値を与えられた木々と価値を失った小さな手を見比べて、呟く。何も無くなってしまった。掴めたものは何も無い。
ふと思い立って足元の緑、嘗ては赤く塗れた瓦礫が横たわっていたその場所にそっと片手を重ねた。だが結局、それ以上は何も出来ず再び腕を下げる。
掘り返し、骸を弔う行為すら、私はとうの昔に取り溢している。
「眠ってしまおう」
そうして深く深く、夢に落ちてしまおう。やるべき事は終えてしまったのだから。
「お前ガキなんだから、欲しい物のとこにでも行けばいいじゃねえか」
微睡みの中、不意に懐かしい声がした。
「お前、相変わらず小せえな。神様は幼児趣味か?」
夢現のまま、私は薄っすらと瞼を持ち上げる。霞む視界の中、目にした姿は瓦礫の下に埋まった日と同じ姿をしていた。
「あ、れを、神様と、呼ぶの?」
声が出せたのは偶々だ。あれらの存在を、神様なんて呼ぶとは思わなかったから、つい口をついて出た。
「理不尽なら神様だろ」
そうだろうか。そうなのかも知れない。でもそうすると私も神様とやらになってしまう。微睡みの中に沈む頭では結局よく分らず、私は曖昧に笑った。
「瓦礫の下は冷たい?」
「瓦礫の下に挟まったら冷たいも糞もねえだろ」
それもそうだ。彼は恐らく温度など感じることなく潰れた。あの時、瓦礫に触れて冷たいなどと思ったのは私自身だ。
私は目を細め、目の前の霞に手を伸ばした。温かいものが指先へと伝わる。
これが終わりならば良いのに、と柄にもなく考える。砂塵に帰すのみの価値しか持たない私の終わりに、瓦礫の下から呼び声がするのならば、これほど穏やかなことは無い。そうして目覚める事も無く、全てが大地の下へと沈んでしまえば良いのに。
「お前、欲しいものは出来たか?」
「居ないと見つからない」
霞が私の顔のすぐ傍に座り、問う。横たわったままの私は少しの間、横目に霞を見た後、ゆっくりと首を左右に振った。彼が言っていた「欲しいもの」はきっと私では得られない。彼が居なければ、私は私の「欲しいもの」が分からない。
「こっち向けボケ」
頬に大きな手が触れた。
掌の温かさに微睡んでいると、唐突に節くれだった指先が私の頬を摘まんだ。明瞭な感覚に私は首を傾げる。
「金を集めに行くぞ」
「どうして?」
「金がねぇからだよ」
「どうして、紙切れを集めるの?」
「お前、俺が何度紙切れじゃねえって言えば……。まずは寝床が必要だから」
「ねどこ」
「温かい布団で寝るにも、美味い飯を食うにも、お前が欲しいもんを見つけるためにも金がいる。金にはそう言う価値があるって教えただろうが」
私はぼんやりとしたまま、言葉を聞いていた。不意に、言葉が口をついて出る。
「紙切れは大事?」
「あ? 要るだろうが」
「それは大事だってこと?」
「要るんだよ、俺には。人生に快楽をもたらしてくれる金が、無駄遣い出来る金が、ぱあっと景気よく使える金が」
「要ると大事は違うの」
「ちげぇ。金は『要る』、無駄遣いは『大事』だ。いい加減、目ぇ覚ませ『人生最大の無駄遣い』ちゃんよ。お前は俺の無駄遣いに付き合って然るべきだと、俺は思うんだが?」
おでこへと衝撃が走り、私は微睡みから目を覚ました。
それまで、不明瞭だった意識が浮き上がり、視界の霞が晴れる。
「夢じゃ、ない?」
「お前、自壊出来るのか?」
「自壊、は出来ない。あれらが決めるから」
「残酷だな」
唖然と男を見詰めていた私に、男が急にそう尋ねた。彼の質問の意図が読めず、私は首を傾げながら答える。
彼は私の答えに納得したのかしていないのか分からない表情をすると、一度私の頭を小突いた後にさっさと立ち上がってしまった。
寝転がったままだった私も、彼を追うように立ち上がる。
彼は私が立ち上がったのを見止めると、歩き出す。私はそれを追い掛けようとして、足を止めた。
「ついて行っていいの?」
彼は一度振り返ったが、結局鼻で笑うだけで、何も言わず歩き出してしまった。
唯それだけで私は満たされてしまって、彼の後ろに付いて歩き出したのだ。
嗚呼、私は一つの価値をこの手に掴めた。
いつの間にか空からは、雨が降り注いでいた。
崩落の明星 九十九 @chimaira
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