その日の天気予報は午後から雨だったんだけど、九時には降り出して、すぐに土砂降りになったんだ。屋内馬場は台風の時に倒壊してるから雨が降れば乗馬クラブはお休み。ただこの日の雨は半端なくて、いわゆるゲリラ豪雨ってやつ。風もビュンビュン吹いて嵐状態。


 避難勧告まで出されて、レストランの営業の方も完全にあがったり状態だったのよね。うちは水害には無縁だけど幹線道路から、うちに来るまでの小川が氾濫起しちゃって、ちょっとした陸の孤島状態になってた。


 お父ちゃんは屋根が飛ばないようにロープで縛ったり、お母ちゃんとエミは雨漏りポイントにバケツを置いて回ったりしてた。その辺のいつもの嵐対策が一段落してから、お母ちゃんと話をしてたんだ。


 ただ二人とも少々不機嫌。どうも低気圧がくると頭痛がするんだよね。これはお母ちゃんも一緒でまさに遺伝。最初は他愛ない話だったんだけど、いつしかエミのピクニックの話に。


「お母ちゃん、やっぱり新しい服が欲しい」

「まだ着れるから要らないでしょ」


 エミの家がそうなのは骨の髄まで知ってるけどやっぱりさ、


「友だちに恥しいよ」

「ピクニックでしょ。どうせ汚れるから、今あるので十分よ」


 その頃に一段と雨が激しくなって来て頭痛が強くなってきて、お互いに不機嫌マックスって感じ。


「せっかくのお出かけだから買ってくれてもイイじゃない。エミだって恥しいんだ」

「見た目でバカにするような人は相手にしなければイイだけ」


 そんなこと、小さい頃から耳にタコが出来るぐらい聞かされてるけど、今回はどうしても欲しかったんだ。粘りに粘ったんだけどお母ちゃんの返事は頑なまでに『NO』。二人とも低気圧の頭痛のイライラがあるから、どんどんヒートアップ。


 あの時のエミは完全に切れてた。切れ切っていたと思う。ヒートアップしてトゲトゲしい応酬の果てに言っちゃったんだ。


「どうして買ってくれないのよ。こんな乞食みたいな格好を自分の娘にさせて平気なの。わかった、エミはここの家の子じゃないからこんな目に遭わされるんだ。エミはこの家の子どもなんかじゃ絶対にない!」


 これをヒステリックに喚きたてたんだよね。そしたらお母ちゃんの顔色が変わってた。本当に変わってた。怖ろしいぐらいに変わってた。喚き返されるかと思ったら、心まで凍りそうな声で、


「エミが生まれて来れたのも、エミがあの病気を乗り越えられたのも、エミがなんとか高校に通えてるのも、すべてお父ちゃんのお蔭。お母ちゃんが生きているのもお父ちゃんのお蔭。全部全部、ぜ~んぶお父ちゃんのお蔭」


 当たり前と言い返そうと思ったけど、お母ちゃんの目が怖すぎて声が出なかった。


「こんな恥知らずの、恩知らずの娘に育てたのはすべて私のせい。いつかは話さないといけないと思っていたからイイ機会かもしれない。今日はそういう特別の日だから」


 特別の日ってなによ。お母ちゃんが何を言いたいのかサッパリわからなかったんだけど、お母ちゃんはエミの目をじっと見つめて、


「エミ、あなたはこの家の子どもなんかじゃない」


 どういうこと、どういうこと。衝撃的過ぎて何を言われてるかわかんなかった。


「エミは私が産んだ子であるのは間違いないけど、お父ちゃんの血は一滴も入っていない。つまりは赤の他人」


 もう目は点、茫然なんてものじゃなかった。だったらエミは誰の子だって言うのよ、


「あなたの本当のお父ちゃんは黒田産業の社長の黒田慎吾」


 えっ、えっ、えっ、黒田が・・・小林家にとって不倶戴天の仇敵のはずなのに、エミが黒田の娘ってどういうこと。そんなことはありえない。


「お母ちゃんはね、お父ちゃんと結婚する前に黒田と付き合っていて妊娠したんだよ。でもね、妊娠した途端に捨てられた」


 その時の子どもが、まさか・・・


「私はね、黒田に捨てられた時に飛び降り自殺をしに行ってたの。あれも今でもどうしてそれを見つけたか謎なんだけど、飛び降りる寸前に後ろから抱きかかえられて止められたのよ」


 うわぁ、そこまで行ってたんだ、


「それでも飛び降りようとしたんだけど、


『落ちたら痛いで。痛い思いするより、幸せを楽しんだ方が人生オモロイで』


 思わず笑っちゃってね、


『じゃあ、出来る』


 こう聞いたら、


『まかせとかんかい、太鼓判付きで保証したる』


 それがお父ちゃんよ」


 なんて・・・


「お父ちゃんは黒田に捨てられて落ち込む私を勇気づけ、元気づけ、愛してくれのよ。そして、そして・・・」


 お母ちゃんの目が真っ赤だ。


「私はね、黒田は憎かったけど、子どもは可愛かったんだ。せっかくこの世で生を与えられたのに殺してしまうのはイヤだったんだよ。だから頼んだの。でもね、絶対無理だと思ったし、そこまで言ったらお父ちゃんから捨てられると思ったけど、恥知らずにも頼んだんだよ」


 やっぱり、その時の子どもがエミ。


「そしたらなんて言ったと思う。あの人は考える間もなく即答だったよ。


『お前の産んだ子は一〇〇%、オレの子や。混じりっ気なしの正真正銘のオレの子や。誰が墜ろしたりするもんか』


 そしてね、黒田の子ども込みで結婚までしてくれたんだよ」


 今までお父ちゃんに似てるところが、あまりにもないのが不思議だったけど、その理由が全部わかってしまったんだ。お父ちゃんの子どもじゃなかったんだ。


「エミを産む時に、次は必ずお父ちゃんの子どもを産むつもりだったんだよ。お父ちゃんも子ども好きでね。エミのオムツを張り切って替えてたぐらいだよ。私はあの人が欲しがるだけ子どもを産もうと思ってたんだ。それが、あんなことに・・・」


 あのエミも危なかった難産。あれでお母ちゃんは子どもが産めない体になったんだった。そういえばあの馬は、


「お父ちゃんは馬術競技の騎手になるのが夢だったのよ。騎手になるには持ち馬が必要だから、必死になって購入資金を作ってたの」


 馬、それも競技会で活躍できるほどの馬がどれだけ高いかはエミも知ってる。ベンツ買うより下手すりゃ高い。


「それだけじゃないの。黒田を見返してやるって約束してくれたのよ。でもね、見返すと言ってもあくまでもフェアにやるってね。黒田の自慢は馬術だから、これで見返してやるって。そうやってようやく手に入れたのがあの馬。私もどれだけ嬉しかったか」


 でもあの馬は・・・


「そうだよ。エミの治療費が必要だったの。私は反対したのよ。ここまで苦心惨憺して馬を手に入れたのに、憎い黒田の娘の治療のために手放すのは申し訳なさすぎて、耐えられなかったのよ」


 エミの治療は延々と続いたから、お父ちゃんは騎手になる夢も、自分の馬に乗って黒田にリベンジする夢もすべてあきらめたんだ。


「でもそんなことで挫けるような人じゃないよ。騎手がダメなら乗馬クラブを作るって。もちろん、私は大賛成。その頃には黒田も甲陵倶楽部馬術会長になってたから、今度は乗馬クラブで見返してやるって宣言してくれたのよ」


 馬を買うよりもっと資金が必要になるのだけど、


「エミを高校に進学させるだけでも無理があったのよ。でも、さすがに高校までは必要と思ったし、エミも頑張って県立校に入ってくれたから、これは仕方がないと思ってたわ」


 じゃあ、あの転校は、


「お父ちゃんは必死だった。高校の転校は簡単じゃないのよ。それもだよ、摩耶学園にするって聞いて驚いたのよ」


 これはエミもそう。あそこは普通に入学するのも簡単じゃないもの。それこそ日参して、土下座して、頼み込んだんだって。理事長から、理事から、校長から、教師の家まで夜駈け朝駆けして、毎日毎日、それこそウンと言うまで頼み込んだ末のもの。


「でも私は反対だった。摩耶学園は良い学校だけど安くないのよ。そんなに入学金や学費を払ったら、乗馬クラブの夢が消えちゃうと思ったからよ」


 クラブは中学の時には出来てたけど、


「お父ちゃんは乗馬クラブをあきらめるって言いだしたのよ。作ったものの、経営が苦しくてね。そこにエミの転校費用でしょ。でも私は絶対やめたらダメって頑張ったのよ。それでもお父ちゃんはエミのために止めるって言うのよね」


 一度もエミには言ってなかった、


「・・・どうして、そんなことが出来ると言うの。どれだけお父ちゃんに我慢してもらってるというのよ。私とエミはお父ちゃんの夢を全部食い潰して生きて来たのよ。それもだよ、自分の娘ですらない、選りもよって黒田の娘のために」


 エミが転校してから貧乏はさらに強烈になってたんだ。それまでだって切り詰めに切り詰めてたけど、そこからさらに乾いたタオルから絞り出すぐらいビシバシ切り詰めるって言えばイイのかな。


「服だって、買ってやれって、お父ちゃんはいつも言うけど、そんなおカネなんかどこにも・・・」


 お父ちゃんの騎手の夢を潰したのはエミの病気、お父ちゃんの乗馬クラブの夢を潰しかけそうになったのはエミの私立への転校。なんてこと。エミがすべて潰してるようなものじゃない。なのにお父ちゃんはその事を一回も口にしないどころか、


『エミ良かったな』

『さすがエミや』

『エミはオレの宝物や』


 手放しなんてものじゃなかったもの。


「わかった、エミ。出て行きたいならいつでも出て行きなさい。DNA鑑定でもなんでもやって認知してもらったら? 黒田の家の娘になったら服ぐらい買ってくれるわよ」


 そこまで言って泣き崩れちゃったんだ。エミもどうしてイイかわからなくなってオロオロしていたら、お父ちゃんが入って来たんだよ。お母ちゃんが泣きじゃくりながら事情を話すと、


「なんや、そんなことか。泣くほどのことやあらへん」


 ああ、お父ちゃんまで、エミを見放すって言うの、


「お母ちゃんはオレの恋女房。エミはお母ちゃんが産んでくれた、混じりっ気なしのオレの最愛の娘。それ以上でも、それ以下でもあらへん。下らんことで、泣くのはアホらしいで」

「お父ちゃん、でもエミにはお父ちゃんの血が入っていないアカの他人」

「はぁ? そんなに血が欲しいんか。そやったら、明日病院に行って、お父ちゃんの血抜いて、エミに輸血したらしまいや。好きなだけ入れたるで」


 お父ちゃん、そこまで・・・エミも泣いちゃった。


「お母ちゃんはな、オレの人生変えてくれたんや。考えてもみい、お母ちゃんは甲陵のウエイトレスやってんやぞ。高嶺の花なんてものやないわい。そやのに、結婚してくれて、娘まで産んでくれたんや。エミかって信じられへんやろ」


 釣り合いは前から悪いと思ってたけど、そんなことない。お父ちゃんは、お父ちゃんは、


「エミがどれだけ可愛いか。ホンマにオレの血が入らんで良かったと思てる。オレの血なんか入ろうもんならグシャグシャになってまうやんか」

「でも黒田の血が・・・」

「それがどないしたんや。エミはお母ちゃんから生まれたワシの子や。他になんか気にすることあるか。そやそや、いつまで経っても貧乏なんは謝っとく」


 そこからお父ちゃんは厩舎の方に、


「私は飛び降りようとした時に一度死んだんだよ。でもお父ちゃんに救ってもらったんだ。それもこんなお荷物付きでだよ。だからお父ちゃんのためなら何でも出来る。エミが付きあいたくないのなら好きにしたらイイ」


 エミは涙が止まらなくなったんだ。これまでエミは、どうしてこんな貧乏な家に生まれたんだろう、どうしてあんな病気になったんだろう、どうしてエミはこんなに不幸せなんだろうと、どこかで思ってた。


 でも思い違いだった。エミはお父ちゃんとお母ちゃんに救ってもらって、こんなに立派に育ててもらってたんだ。それと今までお母ちゃんがずっとお父ちゃんに一歩引いてた理由も全部わかったし、父ちゃんがエミはもちろんだけど、お母ちゃんにも引け目を持たせないように頑張ってたのも全部。お母ちゃんが、


「今日は、もともと仕事を早めに切り上げる予定だったのよ」


 そうなんだよね。夜のレストランの営業は珍しく臨時休業にしてものね。それに昨日の買物はチラッと見ただけど、なにかうちの家に似つかわしくないほどリッチな感じがしてた。お母ちゃんは台所で食事の準備を始めた頃にお父ちゃんも帰って来て、


「今日は、嵐は来るわ、エミとお母ちゃんが喧嘩するわで、なんちゅう日や」


 こうボヤキながらお風呂に。それしても今日の晩御飯はなんなの。次々に並ぶ皿に唖然としていたらお父ちゃんがお風呂から上がって来て、


「ほう、今日はエライ御馳走やんか」

「そりゃそうよ、今日はあなたに抱きとめってもらった日よ」

「そんなん、よう覚えてるな」

「死んだって忘れるものですか。あの日から私の人生は変わったんだから」


 えっ、今日は・・・


「悪い方にか」

「最高の方に決まってるじゃない」


 ものすごい申し訳ない気持ちになっちゃったの。今日はお母ちゃんにとって本当に特別な日、それを服が欲しいばっかりに台無しにしちゃったんだ。


「エミ、今日はね、あなたに本当のことを知ってもらうつもりだったの。エミも高校生だからね。そのためにこの日を選んだのよ。もう好きにしなさい。お母ちゃんはお父ちゃんに付いて行くだけで幸せだけど、エミはもう選べるよね」


 そんなもの選ぶほどのものじゃない。


「エミは生まれてからずっと小林エミで、お父ちゃんとお母ちゃんの子どもよ。死ぬまで変わるわけないよ。ずっと、ずっと、このまま」


 でもちょっと心配になってお父ちゃんに聞いちゃった。


「エミはお父ちゃんの娘だよね」

「今日はしつこいな。エミは世界最高のオレの娘や」


 お父ちゃん、大好き。世界一のお父ちゃんだ。

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