(-閑話-)

 「あなた……起きて」


 龍刻高校国語教諭、「遠坂勇美(とおさか・いさみ)」の朝は、優しい妻の声と微かに漂う珈琲の香りととともに始まる。


 「──ああ、おはよう、慶子」


 寝起きのよい“彼”は、すぐに目を覚まし、目の前にある愛しい妻の顔へとニコリと微笑みかけると、愛情を込めた口づけを交わすのが日課だった。


 「んんっ……」


 そのまま“彼”の掌が、抱き寄せた妻の豊かなバストや安産型のヒップの辺りを彷徨ってしまうのも、若いし、新婚なのだから致し方あるまい。


 「きゃん! もぅ、あなた、朝からダメよ♪」


 平日の朝ということで妻の慶子は“夫”をたしなめるが、彼女とて愛する“夫”に求められることが嫌なワケではない。自然とその語尾も叱るような言葉に反して弾んだものになる。

 ──ちなみに、これが休日の朝だと、彼女も抵抗せず、そのままベッドに引っ張り込まれることになるのだが。


 「むぅ、残念だが仕方ないか」


 一応、大人としての理もキチンとわきまえている勇美は、“悪戯”を切り上げてベッドから出て、パジャマ姿のまま妻とダイニングへ向かう。


 そこには、トーストとベーコンエッグと簡単なサラダ、そしてキチンと豆を挽いて淹れたコーヒーが、すでに用意されている。

 平日なのであまりゆっくりはできないものの、幸いにして今朝は“彼”が顧問をしている野球部の練習はない。練習試合があった日の翌日は休養日として休みにしているのだ。


 妻と談笑しつつ朝食を摂った後、軽くシャワーを浴びてから、仕事用の服装に着替える。

 ピンストライプの入ったライトグレーのカッターシャツに、ウッディブラウンのコーデュロイのスラックス。胸元にはニットタイを絞め、スラックスと同じ色のジャケットを羽織る。


 先週理髪店にいったばかりの髪が、やや短めのウルフカットにまとめられていることもあって、高校教師というよりお洒落な大学生といった風にも見えるが、まぁ、新米先生としてなら何とか合格点はもらえるだろう。


 「いってらっしゃい、あなた」

 「ああ、いってきます。今日の野球部はミーティングだけだから、それほど遅くはならないと思うよ……そうだ! せっかくだから、今晩は、この間できた水鏡通りのレストランに行ってみないか?」

 「いいわね。どうせなら、お店の近くで待ち合わせしましょうか?」

 「そうだな。久しぶりにふたりで、ちょっとしたデート気分を味わおう」

 「♪」


 ──聞いているだけで「はいはい、バカっプル、バカっプル」と言いたくなるような、甘々な会話を妻とくり広げた“彼”は、足取りも軽くバスの停留所へと向かう。


 運がいいことにバス停について1分とせずにバスが来た。

 バスの乗り込むと、この雁屋村から彼が勤める龍刻高校へと通う生徒が何人がすでに乗っているようだ。


 「おはようございまーす」

 「おはようございます、遠坂先生」


 龍刻高校における“彼”の立ち位置は、新米教師としては悪くない。

 年が近いこともあって生徒たちは親しみをもって接してくるが、野球部に於ける熱血顧問っぷりが知られているせいか、決してナメられているワケではない。


 同僚(というか先輩)の教師に対しても如才なく立ち回っているし、気さくな性格とルックスのおかげで父兄からの評判も悪くない。


 強いて言えば、堅物の教頭が、生徒とのあいだにあまり垣根を作らない“彼”の態度に時折苦言を呈することがあるくらいだが、校長はむしろ認めてくれている。


 「ああ、おはよう、柴村、小杉」


 担任しているクラスやクラブの生徒ではないが、頻繁に往き帰りのバスで顔を合わせるため、この子たちとも顔見知りと言えるくらいの仲にはなっている。“彼”は学校に着くまでのあいだ、しばし生徒たちとの雑談を楽しんだ。


 さて、“職場”に“出勤”して以降は、それほど特筆すべき事はない。

 陽気でノリがよく、ややアグレッシブな性格の“彼”も、高校教師としての務めはごくごく真面目に全うしているのだ。


 授業に関しても、軽妙な軽口を織り交ぜつつ、丁寧にわかりやすく説明する“彼”の授業は、評判は悪くない。むしろ、今、龍刻高校で「わかりやすい授業をする先生は?」というアンケートをとったら、彼はトップ5に入ってもおかしくなかった。


 放課後は、朝方、妻に説明したとおり、野球部のミーティング──昨日の試合の反省会に、顧問として立ち会う。この休養日&反省会という制度は、彼が顧問になってから始めた習慣だが、大方の部員たちには好評を得ていた。


 一通りの本日の仕事を終えて、職員室を退出したのち、“彼”は、龍刻町の駅前繁華街である水鏡通り、その一角にある喫茶店で待つ妻のもとへと急いだ。


 「やぁ、待たせたかな?」

 「いいえ、そんなには」

 「──本当は?」

 「……20分くらい、かしら」


 いかにもカップルらしいやりとりと店の精算のあと、“彼”はごく自然に右腕を差し出し、妻の慶子は、ほんの少しだけ躊躇ったのち、素直にその腕にすがりつく。

 通りを歩く一部の人間(おもに独身者)からの「リア充、爆発しろ!」と言いたげな視線も気にせず、ラブラブな様子で街を歩くふたりの姿は、傍目にはいかにも「お似合いで熱々の新婚さん」と見えた。


 ……もっとも。

 その片方、「20代半ばの青年」にして「新米教師」かつ「新婚夫婦の夫」として振る舞い、それがこの上なく板についている“彼”は、生物学的観点から見れば、まだ16歳の少女であり、前述のような“立場”を一時的に本来の持ち主と入れ換えているだけなのだが。


 もっとも、もともとサッパリした男性的な気性を持つ彼女──夏樹勇美(なつき・ゆみ)には、今の立場が非常に快適に思えたし、その楽天的な性格から積極的に今の立場に馴染もうと努めた結果、今や完全に「遠坂勇美」になりきっている。


 それは、本来は遠坂真紀(とおさか・まさのり)の妻であるはずの慶子も同様で、優しく礼儀正しいが、草食系というかイマイチ情熱に欠けている面のあった本来の夫と異なり、貪欲に彼女を“求める”、現在の“夫”にすっかり骨抜きにされていた。


 当初は「目の前のこの人は、本物の夫ではないのに抱かれてもいいのかしら」という葛藤と背徳感に多少は苛まれていたのに、立場交換からひと月余りが経過した現在では、周囲もうらやむほどの熱愛夫婦ぶりを振り撒いている。


 「──ずっとこのままでいられたらなぁ……」


 激しくも甘やかな夜の営みの後、ベッドで妻の髪を撫でながら、小声でポツリと漏らす勇美。


 “厄違えの儀”の期間は一年。

 今年の年末の大晦日には、立場を入れ換えたふたり──勇美と真紀は、再び元の立場に戻らなければならない。

 普段はすっかり忘れているものの、ふとした拍子にそのことを思い出すと、勇美は僅かに憂鬱な気持ちが心の奥に湧いてくるのを感じるのだ。


 「え? 何か言った、あなた?」

 「いやいや、イクときの慶子の声は可愛いなぁって思ったのさ」

 「も、もぅ……恥ずかしいから言わないで」

 「ははっ、やっぱり慶子は可愛いね」チュッ

 「あん♪」


 愛しい妻の唇を奪い、豊かなその胸を両手で揉みしだきながら、“彼”は、この幸せを手放さずに済む方策について、頭の片隅で検討し始めるのだった。

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