閑話 街へ行こうよ
「街へ行こうよ、セレナ」
ある日のことだ。レナードが急にそんなことを言い始めた。普段はヴェロッタムールの探索ばかりだから驚いてしまう。
「どうして……?」
「いつもセレナに案内してもらっているから、お礼をしたいんだ」
落ち着いているレナードが珍しく興奮している。その様子にどうしても不安になってくる。レナードは心臓の病を治すために不死鳥を必要としている。そして私が不死鳥だということも知っているのだ。
それに街にはもう何千年も入っていない。レナードに会うまで自分の名前すら忘れていたほどなのだ。何があるかもわからない場所に連れていかれたら、最悪の場合捕まえられてしまう。
レナードは優しい。だからそんなことをするはずないと信じている。ただ私はどこか不安を抱いてしまっている。
嬉々とした表情をするレナードに微笑む。
「いいのよ、お礼なんて。私はレナードといれるだけで十分」
「いや、でもどうしてもお礼がしたい。セレナに恩を返したいんだよ」
レナードが私の手を取って強く握る。真摯な瞳が私を見つめる。
「わかった。じゃあ、連れて行ってもらおうかな」
「うん。ありがとう!」
本当に嬉しそうなレナードを見ていると、不安なんて吹き飛んでしまう。随分とこの男性に惚れ込んでしまったものだ。
無事セレナを連れ出せることになったわたしは、まずセレナを前の家へ連れて行った。故郷で一人暮らしをしていた頃の家だ。
久方ぶりに何一つ変わっていない家に入り、クローゼットの前に立つ。その中から長袖のワイシャツ、チャコールグレーのベスト、ベージュのチノパンを取り出して着た。普段の半袖ワイシャツにナローパンツという出で立ちよりはましに見えるだろうか。
女性と二人きりで外出、という行為は初めてであり、ましてやそれが好意を抱いている女性ともなれば緊張してしまうのも無理はないだろう。
高鳴る鼓動を抑えながら、セレナのことを待った。そのままの恰好では目立ってしまうため、セレナにも着替えてもらっている。心臓病を患っているわたしの一人暮らしを心配した妹が休みの度に家を訪れていたため、何着か服が置いてあるのだ。
「レナード、着てみたんだけど……」
「あ、セレナ……」
袖をまくりながら鏡で確認していると、部屋のドアが開く。そしておずおずと中に入ってきたセレナは、控えめに言ってもかなり綺麗だった。
七分袖の白いシフォンワンピースに、ボーンサンダル。首元には雫型の青いネックレストップが光る。長い朱色の髪は三つ編みに結われ、その上にリボンのついたつばの広い帽子が乗せられている。
ただでさえ端麗な顔立ちのセレナが人間らしい格好をするとここまで変わるものか。これでは逆に目立ってもおかしくない。長い睫毛が上を向いて、私の瞳を捕える。
「レナード……? やっぱり変かな……」
「あ、いや全然! とても似合ってる」
「ふふっ、ありがとう。レナードも素敵ね」
心なしか頬を染めたセレナが嬉しそうに微笑む。いつもの笑顔は一気に雰囲気をやわらげ、可愛らしい印象を受ける。その笑顔から顔をそらし、セレナを後ろに家の外へ出る。
外へ出ると、真上で太陽が輝いていた。セレナと会ったのは朝だったから、意外と時間を食っていたようだ。しかし昼は外出に丁度いいだろう。
「セレナ、行こうか」
「ええ」
セレナの隣に並ぶと、ゆっくりと歩き始めた。
穏やかな通りを二人で歩き続ける。まだ中心街ではなく住宅が多く点在している。
「あらーレナード坊やじゃないかい?」
「あ! ポポばあ!」
住宅の間に立つ小さな本屋から老人が出てくる。この人はポポットというおばあさんで、昔からここで本屋を細々と営んでいる。皆からはポポばあの愛称で親しまれていた。
「久しぶりだねぇ。最近は全然遊びに来てくれないじゃないか」
「久しぶり。最近は色々あってね」
温かい笑顔は小さい頃と何も変わらない。そんなポポばあのもとへ昔は毎日のように訪れていた。町を発つ前も時々会いに行っていた。
「おや、こちらのお嬢さんは?」
「ああ。彼女はセレナ。わたしの友人なんだ」
「おやおや、えらい別嬪さんじゃ」
八十歳越えとは思えない俊敏な動きでセレナの前まで行くポポばあ。何の遠慮もなくセレナのことを観察している。
「わたしゃポポット。よろしくね」
「よろしくお願いします」
勢いの過ぎるポポばあに嫌な顔一つせずセレナは握手を交わした。
「ねえ、ポポットさんはレナードの小さい頃を知っているの?」
「えっ、ちょっ、セレナ……」
「ああ。もちろんさ。レナード坊やは毎日のようにここに来ては本を読んでいたよ」
心臓病という枷はわたしを本好きにさせるのには十分だった。人見知りというわけではないが、元々人と積極的に関わろうとしなかったわたしは、病もあって友達はほとんどいなかった。
過去を晒すというのは羞恥心もあるし、寂しい幼少期を蒸し返されるのは気が進まない。セレナが相手ならなおさらだ。そして何より心臓病のことをポポばあが告げてしまっては困る。
「じゃあレナードは本のことに詳しいんですね」
「そうじゃな。でもレナード坊やがすごいのは本がすきなだけじゃない。それで作家になったってことさ」
ポポばあが人差し指を立てて得意げに言う。うまい方向に話がそれてよかった。
「作家に! すごいわ、レナード」
するとセレナは胸で両手を握りしめ、瞳を輝かせた。
不死鳥だから人間のことはあまり知らないのだろうとばかり思っていたが、ある程度は人間に関する知識はあるのかもしれない。
「いや、そんなすごいことじゃ……」
二十歳にデビューしてから五年間、作家として生活していた。これまで何作品か執筆して、そのどれもを多くの人に読んでもらった。しかし不死鳥探しに旅立ってしまった今となっては、それも過去の産物といったところだ。
「ところでレナード坊や」
「ん? 何? ポポばあ」
いつの間にかわたしににじり寄っていたポポばあが口に手を当て耳打ちしてくる。その視線はちらちらとセレナに向けられていた。
「セレナさんって坊やの彼女かい?」
「なっ……!?」
楽しそうな笑みを浮かべながら、ポポばあは真っ赤になっていくわたしの顔を見ている。まだまだポポばあは若いらしい。
セレナはわたしの様子を不思議に思ったのか、どうしたのと顔を覗きこんでくる。ますます思考が混乱してしまった。横目でポポばあを窺うとそれは楽しそうにニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「ち、違うから! さあ、行こう、セレナ!」
わたしが眼鏡を上げながら歩き出すと、セレナはわたしとポポばあを交互に見る。
「レナ坊もセレナさんもまたおいでよ」
「はい。ありがとうございました、ポポットさん」
後ろからそんな会話が聞こえてきて、速足でセレナが追い付いてきた。
「レナードってポポットさんの前では可愛いのね」
「え? そうかな……」
「ええ。信頼してるなって感じ」
「あー……昔からお世話になっているから」
脳裏に幼い頃の記憶が次々と浮かび上がってくる。寂しい日々でも本があれば、不死鳥伝説と触れ合っていれば私は幸せだった。だがやはりどこかに寂しい気持ちはあったのだろう。早くに母を亡くした影響もあってか、優しいポポばあの存在はわたしの中で大きかった。母親のように慕っていたのだ。
懐かしい思い出に浸っていると、セレナがそんなわたしを見つめ続けていることに気づく。やけにご機嫌な様子だ。
「どうかした?」
「レナードのことをもっと知れて嬉しいの。やっぱり来てよかった」
無邪気な笑顔でそう言われる。得をしているのは寧ろわたしの方ではないだろうか。
「喜んでくれたようで良かったよ」
セレナはもう一度微笑むと、前方に視線を向けた。途端その瞳が輝きを宿す。中心街はもう目の前だった。賑やかな声や多くの人々が行き交っている。
セレナは今にも走り出しそうな様子だが、依然として歩調は変わらない。出会った当初に言った「ゆっくり歩いてほしい」という言葉を律儀に守ってくれているのか。ただ単に理性が働いているのか。普段は裸足のためヒールが慣れないのか。理由は様々浮かんでくるが判別できない。
ゆっくりとした歩調で、ついに中心街に足を踏み入れる。すると急に熱気が襲ってきたような気がした。セレナはというとベーカリーやブティック、時計店など、明るい街並みに忙しなく視線を走らせていた。くるくる変わる表情は見ていて楽しい。
しかし前を見て歩かなければ危険だ。仕方なくセレナから目をそらすと、今度は視線が気になってしまった。セレナは街並みに夢中で気づいていないが、行き交う人々がセレナに見蕩れている。いくら髪の毛を結んでいるとはいえど、朱色の髪は目立つし、溢れ出る美貌は目を惹いてしまうだろう。不死鳥だとばれないか心配だ。
それに加えて嫉妬心なんてものもわたしは抱いてしまっている。恋人でもないのに分をわきまえない思いのような気もする。
「レナード、あれ美味しそうね!」
「ん? ああ、ケーキか」
セレナがひときわ目を輝かせたのはカフェだった。オープンテラス席で女性客が食しているケーキに目を輝かせている。
「食べる?」
「ええ!」
あまりにも大きな声に道行く数人がセレナを見る。セレナは口角を上げながら肩をすくめた。それからすぐにカフェに向かい歩き始める。背中で手を組むセレナの一歩後ろをついて行った。左右に揺れる楽しげな三つ編みを眺めるのが楽しかったのだ。
するとそれに気づいたセレナは、わざわざ一歩後退してわたしの隣に並ぶ。微笑をわたしに向けてから何事もなかったかのように歩みを再開した。その所作に思わず顔を綻ばせる。
二人一緒に歩き、カフェへと辿り着く。今日は天気がいいからとテラス席に案内してもらった。植物がさりげなく目隠しの働きをしているが、日差しが心地よい席だった。
「セレナ、これ。メニューだよ」
「ありがとう」
そわそわとしているセレナにメニューを渡し、通りに視線を向ける。人々の楽しげな声が響いている。かつては煩わしいとさえ思えたそれが、今では素直に受け止められた。それも全てはセレナのおかげであろう。セレナと出会ってから、気持ちに余裕ができた気がするのだ。たとえ残り少ない命だとしても、生きるのが楽しい。
温かくなった気持ちそのままに、目の前のセレナを窺い見る。なにやらセレナはメニューを見つめながらぶつぶつ呟いている。どうやらケーキをどれにするか迷っているようで、ケーキの名前を呟いては首をひねっていた。悩み続けやっと決まったと顔が明るくなった。しかしすぐに再び悩み始める。一人で十面相しているセレナが微笑ましい。
「セレナ、決まった?」
「どれも美味しそうで決まらないの……」
見ていて面白いからといってずっと放っておくわけにもいかない。声をかけられたセレナはしゅんとして眉を垂らした。
わたしがメニューを覗こうとすると、セレナがわたしの方にも見えるようにしてくれる。
「このショートケーキとそれからモンブラン。チョコレートケーキっていうのもいいなって……」
一つ一つ指を差して、また思案気な顔つきになった。
「全部頼めばいいよ」
「え!? でも……」
一瞬明るくなった顔は、すぐに下を向く。視線は周りの席を辿っていた。楽しそうに談笑する客の前に並ぶのは、大体一人に一つのスイーツ。
「セレナが喜んでくれるのが一番嬉しいから」
「そう……?」
「ああ」
捨てられた子犬のような表情が少し笑顔になる。
「じゃあお願いしようかな」
「うん」
店員を呼んでセレナの望んだケーキと、コーヒーを頼む。セレナはわたしが注文をしている最中ずっとニコニコしていた。店員が去って行くのを眺めながら、彼女ははっとした表情になる。
「レナードはケーキ食べないの?」
「ああ、わたしはいいよ」
「甘いもの嫌い?」
「いや、そういうわけではないんだけど……」
本当に特別な理由はないのだ。強いて述べるならセレナが食べる姿を眺めたかったからだろう。
「じゃあ、頼んだケーキ一緒に食べましょう!」
「え? でもセレナ食べたがっていただろう?」
「いいの。二人で分けた方が美味しいもの」
「それはそうかもしれないけど……」
「それに今日食べられなかったケーキは次来た時に食べればいいのよ」
そう言ってセレナは優しく微笑む。無邪気さが前面に押し出されている状況でも、こうして不意に大人びた表情を浮かべるのがセレナだ。そしてわたしはいつもそんなセレナに魅せられてしまう。
「また一緒に出掛けてくれるのかい?」
「もちろん。今すごく楽しいわ」
「そうか、よかった……。わたしも楽しいよ」
セレナに笑顔を向けながら、急に痛み出した胸に手を当てる。最近は減っていたのだが、こうして唐突に痛むのは珍しくなかった。
「お待たせしました」
「わあ、美味しそう!」
店員がケーキをテーブルに並べていく。その様子をセレナは瞳を輝かせながら眺めていた。それを見ていると、連れてきてよかったと思う。
「レナードはどれがいい?」
「セレナが選びなよ」
「ううん。レナードが選んで」
「じゃあ、モンブランにしようかな」
「私はチョコレートケーキ」
セレナの熱い視線に負けてモンブランの皿を自分の方に引き寄せる。セレナはチョコレートケーキを持ち上げた。そして残るショートケーキ。そこから視線をセレナに移すと目が合った。
「ショートケーキは半分ずつ」
「そう言おうと思ってたの!」
なんだかおかしくなって二人とも笑いだす。暖かな日差しがそこに降り注いでいた。
ひとしきり笑ったあと、わたしがフォークでショートケーキを半分に切った。一つの皿にお互いが手を伸ばす。そしてまず最初にショートケーキを口にした。
「美味しい!」
「美味しい!」
タイミングも表情もぴたりと重なっていた言葉に、再びわたしたちはおかしげに笑いだす。目の前に見える笑顔は、人間のそれと何ら変わりないものだった。
カフェを出てからも引き続き街をぶらつく。
「あの時計屋。わたしが初めて時計を買ったのはあそこだったんだ」
「そうなんだ。思い出深い場所なのね」
「ああ」
わたしの説明にセレナは丁寧な反応をくれる。退屈させないか危惧していたが、その表情を見る限りちゃんと楽しんでくれているようだ。
人がごった返しているというほどではないものの、通りはそこそこの通行量。その真ん中あたりを並んで歩きながら、左右に並ぶ店を見ていく。するとその時、前方に懐かしい建物が目に入る。
「あ! あの本屋!」
人をかき分けて速足で建物の前まで行く。そこには昔と変わらない本屋の姿があった。
「ポポばあの本屋の次によく来ていた場所なんだ」
ポポばあの店はどちらかといえば子供向けの本を多く置いている。だからそこで売っていないような本をよく買いに来ていた。
「懐かしいなぁ……」
しみじみと本屋を眺め、自然な流れで隣のセレナを見る。しかしそこに彼女はいない。
「セレナ?」
あたりを見回しても特徴的なあの姿は見えない。はぐれるほどの人通りではないはずだ。
もしかして不死鳥とばれて連れ去られたのでは。その考えが浮かんできて、冷や水を浴びせられたように体が冷えていく。
「セレナ! セレナ!」
焦って叫んでも人々の視線が突き刺さるだけ。
万が一ということもある。だからセレナから片時も目を離すまいと思っていたのだ。だがセレナの初めて見せる表情や町の明るい雰囲気に、浮かれてしまっていたことは否めない。
手当たり次第に路地を見ていく。様々なものにセレナは興味を惹かれていたが、それでわたしから離れるほど彼女は子どもではない。第三者が関わっていたとしか考えられなかった。
野良猫が群がっていたり、ゴミが散乱しているような狭い路地。暗がりであまり目立たない道。しらみつぶしに探す。
こういうときほど走れない自分が憎い。不死鳥だとわからなくともあの容姿だ。こうして時間を無駄にしている間に、セレナは酷い目にあっているかもしれない。倒れるよりはましだと自分に言い聞かせ、地道に探し続けた。
息が切れてきた。汗もかいているのに恐ろしいほど体は冷たい。嫌な考えを振り払い、家と家の間で人が滅多に通らない道を覗いた時だ。朱色の髪の毛の女性と二人の男の姿を見つける。セレナは壁際に追い詰められていた。その様子は決して好意的には見えない。
「セレナ!」
「レナード!?」
よく本にあるようなヒロインの手を取って連れ去る、なんていう行動をけしてわたしはできない。男性にしては非力で頼りなく、あの二人の男性に向かってこられたら勝ち目はないだろう。けれどそんなことに構っている余裕はなかった。セレナを守る。それだけが全てだ。
「セレナごめん、はぐれてしまって……」
「レナード、ずっと捜してくれたのね」
「ああ。遅くなってすまない」
「そんなこと……」
男を押しのけ、セレナの前に出る。その両肩に手を置きながらその姿を見てみたが、特に目立った外傷はなかった。
「おい、てめえ誰だよ」
「邪魔してんじゃねぇよ」
肩を掴まれ無理やり体を回転させられる。改めて見ると本当に軽そうな男たちだ。だらしない服装に無理やりすごんだような口調。この手の人間は上辺だけだ。といってもそれがその場を切り抜けられるかどうかには関係ない。
「ん? おまえ、まさか……」
長髪を揺らす男がずいっと顔を覗きこんでくる。殴るか。蹴るか。それとも怒鳴るだけか。かなりの近距離に踏み込まれ、わたしは唾を飲み込んだ。セレナも固唾を飲んで見守っていた。
「レナード・ジョンソン先生じゃないっすか!?」
「え! まじ!?」
「えっ、あ、そう……ですけど」
「うわぁ! 握手してください!」
「あ! 俺も俺も!」
長髪の男だけでなく、もう一人の明るい髪色の男も迫ってくる。両手をそれぞれに掴まれ、大きく上下に振られた。
「俺、大ファンなんです!」
「俺も! 会えてすごい嬉しいっす!」
「あ、ありがとうございます」
あまりの変貌にたじろぎながら、なんとか笑顔を向けられたと思う。経緯はどうあれ、こうして誰かに喜んでもらえることは良いことだ。手を固く握りしめられたまま、彼らの興奮に満ちた声を聴く。
「あの! 俺、先生のデビュー作が好きで!」
「冒険物なのに主人公たちの心情の描写が繊細で素敵だと思うんです!」
「俺も同じこと思ってたぜ!」
「だよな!」
「それに繊細な描写だけかと思ったら戦闘シーンは細かくかつ力強い!」
「そうそう! 続編楽しみにしてます!」
「それに新しく発売された新シリーズも!」
押し合いへし合いしながらしゃべっていた二人の言葉がやっと止まる。最初の目つきとは打って変わって、もはやそれは新しいおもちゃをもらった子どものようだ。わたしの作品もきちんと読んでくれているらしい。人は見かけによらないとはまさに今のようなことを言うのだろう。
「わたしの作品を読みこんでくださってとても嬉しいです。これからも宜しくお願いします」
「はい!」
「ずっと応援してます!」
やっと手が離れる。キラキラした笑顔に微笑みつつ、期待に反して続編を出せるか怪しいのを申し訳なく思う。
「あ、それからさっきは絡んですいません」
「レナード先生のお連れだったんすね」
「あ、いえ……」
彼らはセレナの前に出て頭を下げる。
「じゃあ、俺らもう行きます!」
「またどこかで縁があったら!」
それから最後にもう一度満面の笑みを見せてから、彼らは走り去っていった。まるで嵐が過ぎ去っていったかのようだ。
「レナードのファンって年齢層幅広いのね……」
「どうやらそうみたいだ」
セレナもわたしも呆然と彼らが去っていった道を眺める。
「そうだセレナ。何もされてない?」
「全然平気よ。ここに連れてこられて、遊ばないか誘われただけだから」
「そうか、よかった……」
作家という職が意外なところで活躍してくれた。それに彼らだから何も起こらなかったという面もあろう。何はともあれセレナが無事でよかった。
上空から鳥の鳴き声が聞こえる。つられて顔を上げると、もう夕暮れ時が迫っていた。
「いつの間にかこんな時間」
「そうだね」
同じように空を見上げていたセレナが少し寂しそうに笑う。家の影がセレナの顔にかかる。
「セレナ、最後に連れていきたい場所があるんだけど」
「え? どこ?」
「目を瞑って。そこまで連れていくから」
「何よ、教えてくれないのね」
文句ありげな口調と違って、セレナは楽しそうに微笑む。そして素直に目を瞑った。その両手を取って、ゆっくり歩いていく。
今回町に連れてきたのは今から行く場所が目的のようなものだ。きっとセレナは喜んでくれる。そう信じて目的地に向かっていった。
「まだなの、レナード?」
「あと少しだよ」
真っ暗な視界の中で、レナードの手の温かさがよく感じられた。目を瞑って歩くと言うのは存外疲れる。手を引いているのがレナードでなければ了承などしなかったろう。
「セレナ、着いたよ。目を開けて」
レナードの手が離れ、私の横に立つ気配がした。そっと瞼を持ち上げていく。
「わぁ……!」
視界に広がるのは綺麗な夕日。ヴェロッタムールの木々の上からその姿を覗かせていた。そして目の前の湖の表面にそれが映っていて、とても美しい。丘の上でレナードと見上げる夕日とはまた違った良さがある。
欄干に手を置いて、それを食い入るように眺めた。そんな私の隣にレナードも並ぶ。
「この景色、綺麗だろう?」
「ええ。とても……」
夕日を見つめたままレナードに返事をする。あまりにも素敵な風景で一時も目を離せなかった。
「これを君に見せたかったんだ。町の中で一番綺麗な景色だと思う。いつもセレナにしてもらってばかりだから、少しでも喜んでもらいたかった」
「レナード……」
思わずレナードに目を向けると、彼は微笑む。私の好きなへにゃりとしたいつもの笑顔だ。
今日は本当に楽しかった。初めて見るもの。初めて見るレナードの表情。垣間見た彼の過去。頼もしい背中。その全てが私の大事な思い出となった。
彼は一日中、私のためを思って、私がどうしたら喜ぶかをずっと考えながら、行動してくれたんだろう。それに心臓が悪いにもかかわらず、必死に助けに来てくれた。怯まず二人組に挑んだ姿は誰よりもかっこよかった。
それに比べて私は。こんなに優しい彼を疑ってしまった。私を捕まえる気など、最初からなかったのに。
「ヴェロッタムールではもっと綺麗な景色を見ることができると思うけど……」
「ううん。ありがとう……」
「え!? どうしたの!」
瞳からはらはらと涙が零れていく。申し訳ないのに、それ以上に嬉しくて。かつてこんなに想ってくれた人がいただろうか。
濡れる瞳で橙色の光を受ける目の前の男性を見つめた。その姿で慌てふためく様子は少し滑稽だ。
「やっぱりこんなんじゃお礼にならない? それともさっきのが怖かった?」
「ふふっ」
「セレナ……?」
作家というのは言葉にも心情にも達者だろうに、どうしてこうも変な方向に考えてしまうのか。戸惑うレナードに微笑む。
「嬉しい時にも涙は出るものよ」
背伸びして、レナードの頬に口づけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます